テーマ:宗教学

22歳の女優・清水富美加さんの芸能界引退と幸福の科学での出家:悩める現代人の世俗と宗教の引き合い

理由や事情は様々だが、成宮寛貴、江角マキコと一定の知名度(人気)がある芸能人の突然の引退のニュースが続いている。芸能人が復帰の可能性を残さずに、仕事を完全に辞めてしまう理由やケースは大きく分けると、以下の4つになるのではないかと思う。 1.芸能人としての仕事の需要と最低限の収入が得られなくなったので辞めるしかなくなる。 2.…
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グレートマザー(太母)の示すネガティブな女性性と河合隼雄のグリム童話『トルーデさん』の分析

ユング心理学を専門とした河合隼雄氏は『昔話の深層 ユング心理学とグリム童話』において、グレートマザー(太母)をはじめとする女性性(母性性)の持つアンビバレンツを反映したグリム童話の物語として『トルーデさん』『蛙の王様』『黄金の鳥』などを上げて説明している。特に、殺さなければならない何の理由もない女の子を棒切れに変えて暖炉の火の中に投げ込…
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島田裕巳『葬式は、要らない』の書評4:時代の変化で変わりゆく“葬式・寺・祖先崇拝(子孫継続)”

葬式にお金のかかる理由は、近世以降は『ムラ社会的な共同体内部においての見栄・格式・世間体(世俗の地位や功績に応じた相応の豪華さの葬式を営むことが常識とされる)』であった。しかし、その原点には仏教の歴史と相関した『極楽浄土に往生するために現世に浄土を再現しようとする平安貴族以降の考え方(葬式においても豪勢な祭壇を設けたり目立つ宮型霊柩車が…
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島田裕巳『葬式は、要らない』の書評3:日本仏教の歴史と葬式仏教・戒名の問題

日本の仏教の歴史を振り返りながら、日本の葬式文化・葬式仏教の発生と変化、高コスト化(贅沢化)について説明しているが、葬式文化の原点におけるエッセンスになっているのが『平安貴族の浄土教信仰(死後に極楽浄土に往生したい悲願)』と『近世以降の村落共同体内部における地位・見栄・世間体』である。 朝廷の高位高官を独占して俗世の栄耀栄華をほし…
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島田裕巳『葬式は、要らない』の書評2:葬式になぜお金をかけるのか?少子高齢化の影響

現代の都市部では、地縁血縁のある人や助け合える相手がいない『無縁社会の問題』が多くなってきた。地縁血縁から切り離されて配偶者・きょうだい・親族もほとんどいない『無縁者・天涯孤独な人(身寄りのないご遺体)』も増えてきていて、豪華な会場・僧侶の読経・戒名などを省略し、自宅で簡単な祭壇を設けて一晩を過ごし翌日に火葬に送る『家族葬(密葬)』や納…
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島田裕巳『葬式は、要らない』の書評1:葬儀・慰霊の歴史的普遍性と外国に比べて高い日本の葬式費用

人生でもっとも大きなお金のかかるライフイベントの一つとして、結婚式や葬式に代表される『冠婚葬祭』の行事がある。冠婚葬祭は規模や人数、設備、豪華さによってそれにかかるコストは大きく違ってくる。 現代では極論すれば、入籍だけして『結婚式』は上げなくても良いし、『葬式』は家族葬(密葬)・直葬にして華美な祭壇を作らずに済ませてしまっても良…
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自我・欲望の肥大(幸福追求の執念)によって苦悩する人:A.マズローの欲求階層説と仏教の知足

仏教の創始者の釈迦(ゴータマ・シッダールタ)は、人間社会の真理を示す四法印で『一切皆苦』と『諸法無我』という苦悩の原因と対処を説きましたが、これはトランスパーソナル心理学的(あるいは実存療法的)な苦悩に対する解決法とも似通った部分があると感じます。 生老病死をはじめとして、人の人生のすべては苦に満ちているという『一切皆苦』はかなり…
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池上彰『世界を変えた10冊の本』の書評2:ユダヤ教・キリスト教・イスラム教と聖典

『聖書』は、キリスト教圏である欧米世界の信仰・歴史・価値観の原点にある聖典だが、創世記・預言者や神が結んだユダヤ人との契約を中心にした『旧約聖書(ヘブライ語)』とイエス・キリストの言行録を中心にした『新約聖書(ギリシャ語)』との違いについて説明している。 池上彰『世界を変えた10冊の本』の書評1:アンネの日記とユダヤ人 ユダ…
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ヨーガの“心”を安定させる呼吸法と三昧の境地:腹式丹田呼吸の効果を説明する“気”の思想

仏教もヨーガも『我執(がしゅう)』を苦悩の原因と定義して、自己中心的に自分だけが幸福になって快楽を得ようとする生き方が逆に人生の苦しみや虚しさ、葛藤を強めていくとするが、“私”という自意識・欲求に囚われない世界(他者)と自然に調和していくような自我の持ち方を仏教では『無我』と呼び、ヨーガでは『真我』と呼ぶことが多い。 内向的な仏教…
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内向的な仏教思想と外向的な近代科学(西洋思想)が求めるものの違い:外界の現実と心の関係性の捉え方

自然科学に代表される“西洋思想(近代思想)”は、外界の事物の『実在性・現実性』を前提として、外界のモノの世界を『知識・技術』で改善したり、実在する他者との関係性を『実際のコミュニケーション』で円滑にしようとしてきた。西洋思想や近代科学は、ユングの性格理論でいえば自分の外部にあるものや人の実在性を重視して、価値の基準(欲求の対象)にする『…
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カミュやサルトルの実存主義では、“人間の自由と苦悩・人生の価値”をどう考えるか?

カミュのエッセイ『反抗的人間』では、明晰な理性で世界や人生を観察する時に出現する非合理的な説明のつかない不条理に対して、迷信(神の信仰)で目を背けたり自殺で逃げたりすることを批判し、その運命的とも言える人の世の不条理さを見つめ続けて“抵抗(レジスタンス)”することが『人間の尊厳』につながると説きました。 抵抗とは具体的な他者にせよ…
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人は運命的な理不尽にどう抵抗すべきか?2:理不尽さと文明社会との終わりなき戦い

自然の摂理にせよ不可避の宿命にせよ、実現主義が示すように人間がいつか死ぬべき存在であることは『現状の倫理の前提』になっている部分はあります。それでも現代の平和で豊かな時代で生きる私たち人間は、『理不尽の究極としての死』を何とか遠ざけて回避しようとする知識的・制度的(法律的)な努力を続けていると言えるでしょう。 必然的な死である『老…
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人は運命的な理不尽にどう抵抗すべきか?1:アルベール・カミュの『シシュポスの神話』

『異邦人』『シシュポスの神話』で知られるフランスの文学者アルベール・カミュ(Albert Camus,1913-1960)も、ニーチェと同じく神が死んだ近代に生きる個人をテーマにしましたが、カミュはニーチェのような超人の理想を掲げるのではなく『運命的・反復的な理不尽』をテーマにしました。アルベール・カミュは小説という表現媒体によって、自…
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フリードリヒ・ニーチェのアンチキリストと“自我・自己愛・孤独”に悩む人間の増加

欧米のキリスト教的な世界観では、東洋の儒教・仏教・道教では余り重要視されない『正義(異文化に対する優越性)』の観念の影響力が見られましたが、この正義と悪の二元論は、キリスト教以前の古代ギリシア哲学でも“アレテー(徳)”として尊重されました。プラトンの哲学思想でも、魂は『各部分のイデア(理想の範型)』を目指しており、魂の各部分が完全性に到…
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キリスト教の“原罪‐贖罪”と仏教の“煩悩‐解脱”の人間観:親鸞の一切皆苦の受容戦略

西欧文明の『罪』を背負った人間は、キリスト教の贖罪や精神分析による内面(無意識)の分析によって癒されますが、東洋文明の『苦』を背負った人間は、仏教の涅槃寂静(煩悩消尽の悟り)や極楽往生、あるいは俗世(俗物)に適応した欲求の充足によって癒されることになります。 日本文化の『恥』の概念と影響については、ルース・ベネディクトの著書である…
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うつ病の罪悪感・自責感を“世間体(恥)の日本文化”から考えてみる

日本人は生身の人間ではない『神(宗教)・倫理・聖典』といった普遍的(絶対的)な規範と個人で向き合うという歴史をほとんど持っていません。そのため、『世間(社会)の中で自分はどういった役割を果たしているか』や『他人から自分の生き方や状態をどう見られているか』という一般的に“世間体・体裁”と呼ばれるものとその喪失が『罪悪感(自分が病気であるこ…
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阿闍世コンプレックスと“申し訳なさ”としての罪悪感3:西欧文明の自然世界との対立

古澤平作(こざわへいさく)や小此木啓吾(おこのぎけいご)が提唱した日本的(仏教的)な『阿闍世コンプレックス(あじゃせコンプレックス)』も、権威的な父親と抵抗する子どもの性的発達の関係を問題にしたエディプス・コンプレックスとは違って、庇護する母親とそれに逆らう子どもとの発達的な関係をテーマにしたものです。 阿闍世コンプレックスを精神…
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精神分析のエディプス・コンプレックスとキリスト教の罪悪感2:権威・抑圧に対する葛藤

人類の始祖であるアダムとイブ(エバ)が原罪を犯したことに対する神の処分は、まずエデンの園という楽園からの追放であり、永遠の生命の剥奪でした。人間は神の言いつけに逆らうという罪を犯した事で、何の苦しみも迷いもない豊かな楽園から追い出される事になり、『死の不安・老化の恐怖』を味わわなくても済む不老不死の永遠の生命を失ったというのが、旧約聖書…
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髙村薫『太陽を曳く馬 上・下』の書評:2

最終的に、死刑判決を受けた福澤秋道は、何の主張も抵抗もないまま国家権力が執行する絞首刑(死刑)に処せられるのだが、父の彰閑は死刑が執行される直前まで、『秋道と関連する人物や場所の近況報告・秋道の芸術の感性や興味・自由意思と人間の罪業・思想や哲学による本質考察』といった秋道の犯罪とは直接に関係していない難解なテーマを、一方的に手紙に書き付…
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髙村薫『太陽を曳く馬 上・下』の書評:1

都会の片隅にある“永劫寺サンガ”では、禁欲的な雲水たちが集まって道元禅師が伝えた只管打座と布施行の修行に黙々と励んでいる。永劫寺サンガは形式的な葬式仏教を批判する福澤彰閑(ふくざわしょうかん)が主導して開いた僧侶集団の修行道場であり、物質主義の現代で身心脱落と教外別伝の悟りを追求する不可思議な聖地である。福澤彰閑を名乗る福澤彰之(あきゆ…
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『島原の乱』の原因を作った松倉重政・勝家父子の苛烈な悪政とキリシタン弾圧:江戸期の禁教・鎖国体制

元和2年(1616年)に、2代将軍・徳川秀忠が出した『二港制限令(長崎・平戸のみを南蛮船に開港する)』は幕府の鎖国政策の始まりとなったが、この鎖国政策にはキリスト教カトリックの宣教師の潜入潜伏を阻止して、海外でキリシタンとなった日本人が帰国することを防ぐという禁教の意図も含まれていた。 厳密には、江戸幕府は海外との交流・貿易をすべ…
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キリシタン大名の有馬晴信・小西行長の没落と禁教令の時代の到来:京都・元和の大殉教

1613年(慶長18年)の『バテレン追放令』によって、江戸幕府のキリスト教に対する弾圧姿勢が法的にも固められ、この禁教令によって長崎・京都にあったキリスト教会は破壊されてしまった。1614年11月(慶長19年9月)に、宣教師・修道士・著名なキリスト教徒はマカオ、マニラなどに国外追放処分となり、キリシタン大名の走りであった高山右近もマニラ…
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キリスト教と豊臣秀吉・徳川家康の禁教令2:なぜ秀吉・家康はキリスト教を禁止しようとしたのか?

豊臣秀吉の1587年の『バテレン追放令(天正禁教令)』は南蛮貿易の利益を重視していたために不徹底なものであり、平戸に集結した宣教師たちの反対運動に押されたこともあって、実質的にキリスト教信仰は容認される状況であった。 秀吉は1596年にも禁教令を再度出しており、この時には京都で盛んに布教活動をしていた新参修道会のフランシスコ会(イ…
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キリスト教と豊臣秀吉・徳川家康の禁教令1:西国のキリシタン大名の信仰と南蛮貿易の利益

過去の記事でキリスト教の思想・信仰について書いたが、日本史でキリスト教が関係した最大の事件は、やはり肥前・島原半島と肥後・天草諸島で江戸初期に勃発した『島原の乱(1637年12月11日-1638年4月12日)』である。 当時16歳の少年だった天草四郎時貞(1621-1638)を宗教的カリスマとして担ぎ上げた島原の乱は、別名『島原・…
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キリスト教の絶対神(普遍性)はどのような思想・信仰や世界観を生み出すか?2:一神教と多神教

世界の創造者や生命の設計者、完全・普遍な実在としての“絶対的な神”は、二千年以上の長い年月にわたって人類に『世界の秩序感覚・集団や民族の目的性・人生の意味の保証・苦しくても生き続ける価値』を与えてきた。だが、キリスト教や西欧市民社会、政治哲学に内在していた『近代化の諸要因』が開花することによって、現実社会の不幸や貧苦、災難が減少すること…
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キリスト教の絶対神(普遍性)はどのような思想・信仰や世界観を生み出すか?1:有神論と無神論

合理主義と経験主義に基づいて近代文明を構築する科学的思考が普及しても、『真の実在・人生の意味・普遍の価値・存在の理由』といった形而上学的な謎に科学が十分に答えることはできず、変化し続けて生成消滅する人間や生物、モノ、世界の背後に『真の実在としての神(絶対者)』を想定することはある種の究極的な合理主義でもある。 客観科学のカテゴリー…
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キリスト教の普遍性を求める世界観とヨーロッパの大航海時代2:プラトンのイデア論と知覚・存在を巡る議論

個人の自由・権利・楽しみを最大限に尊重する“人権思想・自由主義・男女平等”というのは、十分な世俗化を遂げたキリスト教からは生み出されたが、イスラーム圏ではそういった個人レベルの自由や楽しみ(宗教規範の軽視)が認められていない政教一致の国が今でも多い。ケマル・アタチュルクが世俗革命を起こした『トルコ共和国』のような比較的早い段階で世俗化し…
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キリスト教の普遍性を求める世界観とヨーロッパの大航海時代1:ポルトガル・スペインの隆盛期

現代の世界秩序や社会制度の大枠を規定しているのは“近代”の価値観であり、ヨーロッパに発した近代的価値観の多くは『キリスト教』にその起源や原動力を持っている。世俗的な法治主義の古代ローマ帝国を宗教化していったキリスト教の教義・世界観は、千数百年にも及ぶ『中世の迷信的・信仰的な停滞と抑圧』を生み出したとも言われるが、それと同時に“絶対者であ…
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新田次郎『槍ヶ岳開山』の書評2:“悟り(煩悩消尽・自他救済)”につながる登山と瞑想の相関

ストイックに自分と弟子を戒律と専修念仏で律し続ける見仏上人は、文政・天保の世の中を『末法の苦悩に満ちた時代』と看破しているが、この時代に衆生を地獄の苦しみに突き落としていた大飢饉と幕府・藩の苛斂誅求に対しては為す術を持っていなかった。本書の後半では、『天保の大飢饉(1833年~1837年)』が発生して重罪・飢餓で苦しむ百姓たちが、仏教信…
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新田次郎『槍ヶ岳開山』の書評1:笠ヶ岳・槍ヶ岳に登頂した播隆の信仰や煩悩を巡るストイックな物語

日本の山の多くはアニミズム(精霊崇拝)や山岳信仰の影響を受けており、俗界を超越して高くそびえ立つ『山』は実在する神仏(権現)の象徴であり、神仏の住みなす霊域とされてきた。人を寄せ付けないほどに峻険で悪路を極める山は、俗塵に汚されない聖地であり、神仏の霊威が立ち込める特別な領域であるから、古代から日本の神官・僧侶の宗教者は世俗と遮断された…
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