佐々木俊尚『キュレーションの時代』の書評2:他者の眼差しに制御された戦後日本の“記号消費・階層意識”

『第二章 背伸び記号消費の終焉』というジャン・ボードリヤールの著作をイメージさせるような表題がつけられた章では、映画業界と音楽業界が斜陽化してきた背景を『バブル景気の期待・マス消費の幻想』と絡めて詳述しています。インターネットの登場によって『コンテンツの希少性(コンテンツに対する飢餓感)』が格段に縮減されたために、マスメディアがとにかく宣伝してブームを作れば売れるという時代は終焉に近づいています。

マスメディア主導型のコンテンツの大量生産・大量消費・マス広告の仕組みが通用しづらくなり、インターネットの配信型ビジネスやコンテンツ検索、シェアサービスの普及によって、『コンテンツの氾濫(供給過剰)によるアンビエント化』が進んだのです。佐々木氏はアンビエント化とは、動画・音楽・書籍などのコンテンツが大量に生産されて、いつでもどこでも好きな時に手に入る形で漂っている状態だと説明していますが、このアンビエント化はiTunesやYoutube、電子ブックリーダー(Kindle)などのイノベーションが必然的にもたらしたものでもあります。

大量無数のコンテンツが漂い始めるアンビエント化は、コンテンツの価値をフラット化してマス広告の効果を低下させるだけでなく、『信頼する人・好きな人・憧れる人からのコンテンツの評価(口コミ)』の影響力を高め、人と人のつながりやソーシャルメディア上のコミュニケーションが『フラットなコンテンツの再評価(広告・マスコミが干渉しづらい真の評価)』を促進していってしまうのです。

画一的で誘導的なマスコミュニケーションの有効性が低下していく要因には、人々がそれぞれの興味や嗜好に応じてコンテンツを消費するビオトープ(志向性の集団)が細分化していることがあり、『みんなが持っているものを買う・他人より少し良いものを買う』という近代の大衆社会・階層意識を支えていた『記号消費の衰退』があります。佐々木氏は商品・サービスの機能(効果)そのものを買う『機能的消費』と社会の人々が認めている社会的ステータス(社会的価値)を買う『記号的消費』とを区別して、ウェブ社会では見栄と関係する記号的消費は無くなりはしないが、商品を使うために買う(自分がただ好きで欲しいから買う)という機能的消費のほうが優勢になってくると予測しています。

記号的消費というのは、トヨタのヴィッツよりもレクサスLSシリーズのほうが社会的ステータスが高くてカッコいい(お金のある社会的成功者として周囲に見られるという価値を買いたい)といった社会全体でおよそ共通する価値観に根ざした消費です。その商品・サービスを買うことによって『周囲が自分を反射的に評価する目線』が良い方向に変わることを期待するもので、その前提には、社会の大多数の人がレクサスLSやメルセデスベンツの『金額の高さ・ステータス性』を人生のどこかで知らされているはずという予測があります。そして、実際に大半の人は自分自身がそういった高級車を欲しいと思うか否か(自分の感覚としてカッコいいと思うかどうか)は別として、新車のレクサスLSやベンツSクラスは1000万円程度はする高い車で、普通のサラリーマンの給料ではまず買えない車種という事は知っているわけです。

高度経済成長期を経たバブル景気の日本では、自分の社会的ステータスや帰属階層を『グレイドの高い商品(消費できる購買力)』を介して伝えようとする記号消費が全盛に達し、メルセデスベンツやロレックス、ルイヴィトン、ロマネコンティ、アルマーニなどの記号としてのブランド価値に大金を支払う人が増大したのですが、テレビや新聞、マス広告が『商品・サービスのグレイド(相対価値)の階層性』を作り上げる役割を果たしてきたわけです。みんながその商品を高級品であると知っていて、社会経済的に成功した人(余裕のある人)しかなかなか消費(購入)できないことを知っているからこそ、人々は少し無理をしてでも『今よりもグレイドの高い商品』をローンを組んだりして買おうとしてきたのです。

自動車であれば最高級の記号として機能するのはロールスロイスやメルセデスベンツ、ジャガーなどであり、不動産であれば高級住宅街の立地と敷地面積、評価額などですが、バブル崩壊前のサラリーマンを中心とする人々は、自分がそういった最高級の記号消費にまでは行き着けないことは分かりながらも、『自分なりの記号消費の上昇(経済的成功によって自分に相応しい商品を消費して身に付ける・いつかはカローラからクラウンへの世界観)』を目指したのでした。佐々木氏は、今よりも社会的価値が高い自分になったのだと実感するために、あるいは、今よりも上の経済階層に進んだのだと周囲(社会)に見てもらうために、少し背伸びをして記号的消費をすることを『背伸び記号消費』と呼んでいて、この背伸び記号消費は世間体や見栄の心理と深く関わっています。

そこには自分が社会の底層や貧しい境遇にいるのではなく、まさに『人並みの中流階層』に参画しているのだという自尊心があり社会的承認の欲求があったわけですが、佐々木氏はこの記号的消費による承認欲求の強度の時代的な変化を、それぞれの時代を象徴する『若者の犯罪』によって代理表象していて、この部分が『キュレーションの時代』の読みものとしては最も読み応えがあります。

第二章で取り上げている事件は、『永山則夫のピストル連続射殺事件・酒鬼薔薇聖斗事件・秋葉原無差別事件』ですが、1960年代の永山則夫は『貧しくて冴えない農村出身者(学歴もお金もない田舎者)』として周囲に見られる自己アイデンティティを変革しようとして、ロレックスの腕時計やポールモールの洋モクといった記号的消費を背伸びして無理に行い、少しでも自分を社会階層的に上位の存在として周囲に認めさせようとするのですが、その見栄・承認欲求の過剰と他者のまなざしの想像によって自滅していくのです。

1960年代の永山則夫が農村社会的なしがらみや自分を劣った存在と見なすまなざし(の想像)から、記号的消費の高級品を介して必死に逃げようとしていたのに対して、地域社会の衰退を背景に世間体の拘束が弱ってきた1990年代の酒鬼薔薇聖斗は、他者の視線が及ばない『透明な存在』になった自分にアイデンティティを付与するために、『他者のまなざし』をその評価の高低を問わずに求めるようになったというストーリーを紡ぎます。

永山則夫は暑苦しいくらいの『他者・共同体からの干渉やまなざし』からどうにかして逃げ出したいと思い、自分独自のアイデンティティを記号消費(他者から商品所有を通して認められること)によって構築しようとしますが、酒鬼薔薇や秋葉原事件の加藤智大は『他者からのまなざし(自己存在の承認)』を求めて、リアル社会やウェブ社会に複雑にねじれた接続の仕方をしてしまった事例として取り上げられます。

人はさまざまな行動を通して『社会との関係性』を求めており、『他者の好意的なまなざし(尊敬・親愛・愛情)』を求めているわけですが、インターネットが民衆に普及していない1990年代以前の時代には、『不特定多数の内面・価値観』と直接コミュニケートする手段がないので、記号的消費を通して人々は自分の社会的位置づけや他者からの承認の度合いを推測するしかなかったわけです。

クラウンに乗っていれば企業の上級幹部で、ピアノやお花を習っていればお嬢様で、クラシック音楽を聴いていれば上品な家庭環境でといった『社会の共通認識のコード』が少しずつ崩されていくことで、マスメディアが創造して広告などで普及させてきた『消費行動とリンクした階層意識』『記号消費を介した他者や社会とのバーチャルなつながり(ある種の優越感ゲーム)』も衰えていきやすくなっています。

では、ウェブ社会では社会や他者との関係性をどのようにして確認するのかという話になりますが、ウェブの普及が引き起こした最大の情報革命は『不特定多数の他者と興味関心・趣味をベースにして直接つながれること(コミュニケーションできること)』であり、かつてのような『記号としての商品価値を介在した間接的コミュニケーション』に頼る必要性が落ちてきているのです。

商品・サービスを消費する場合にも、そこに『他者との共感・共鳴の物語的なコンテキスト(文脈)』があったほうが商品が売れやすいし、気分的にも盛り上がって満足度の高い買い物につながるという事です。今人気のあるアイドルグループAKB48なども、ファン層の芸能活動への参加意識(応援実感)やつながり(接続)を煽ることで消費行動の満足度を高める営業戦略と解釈できるかもしれませんが、現代では消費することによって『社会・他者との共感(つながり・参加感覚)』を実感できるようなビジネスの仕組みが隆盛しているようです。






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