大井玄『「痴呆老人」は何を見ているか』の書評:認知症に対する恐怖感を生む自我中心の現代社会

認知症(Dementia)は主に老年期に発症する脳の器質的障害で、『知能・記憶力・見当識・判断力の低下』をはじめとする様々な精神症状(認知障害)を発症して、重症化すれば『食事・着替え・排泄』といった基本的な日常生活動作も困難になってきます。

老年性認知症には脳血管疾患によって発症する『脳血管型認知症』と脳の器質的な萎縮・機能低下の変性(タンパク質の蓄積)によって発症する『アルツハイマー型認知症』がありますが、双方共に不可逆的な疾患とされており、認知症の医学的な予防法も治療法も確立していません。認知症はアセチルコリンを増やす薬剤(アリセプト)によってその進行を遅らせることは出来ても、認知症そのものを完治させて元通りの知性と人格を取り戻させることは現代医学では不可能とされています。

認知症を高い確率で予防できる有効な方法も発見されておらず、『普段から読み書きをしたり計算をしたりして頭を使っていれば認知症になりにくい』という俗説にも、医学的なエビデンスは確認されていません。大学教授や医師、教師、エンジニアのように普段から知的能力を使う作業が多い仕事に従事していても、若年性アルツハイマーを発症する時は発症するし、反対に何も頭を使わない生活をしていても認知症にならない人はならないので、どういった生活習慣や知的活動をしていれば認知症になりにくい(なりやすい)ということは言えないようです。

認知症で80代~90代と年齢が進んでくると身体的・体力的な老衰も進むため、食物を嚥下しにくくなったり転倒して骨折しやすくなったりして致命的疾患としての様相も強まってくるのですが、本書『「痴呆老人」は何をみているか』では認知症の高齢者であってもQOLを低下させない生き方や周囲とのかかわりは有り得るという前提に立っています。一般的な認識としては、認知症は本人にとっては自分が自分で無くなってしまうような非常に怖い病気であり、周囲にいる家族・親族にとっては世話や介護で負担のかかる、なって欲しくない病気でしょう。

しかし、本書では認知症は『明確に診断可能な病気』とまでは言えず、認知症(痴呆症)が現代においてクローズアップされてきた背景には『生活環境・高齢化社会・家族関係の変化』があり、認知症そのものは文化圏や部族によっては『自然な老化のプロセス』の一つに過ぎないといいます。老齢期に入れば認知症という病気にまでならなくても、誰もが多かれ少なかれ認知能力や知的能力を低下させるので、人はみんな程度の違う痴呆であるとまで著者の大井玄氏は言います。

本書では2004年3月に行政・法律の公的名称となった『認知症』よりも『痴呆症』のほうが、認知症の実態や問題点をより的確に表せることがあるという視点が出されています。それは認知症が他の学術分野の認知概念と混同されて紛らわしいということもありますが、認知症だと痴呆症・老人ボケに比べて『人格的な変容・年齢的な衰退・一般社会(客観世界)から自意識が離れる感覚』といった要素が加味されにくいということがあります。

痴呆症や老人ボケという言い方は、知的能力が低下した高齢者を侮蔑する差別的表現であるということから『認知症』への名称変更が為されましたが、(程度の違いは様々でも)誰もがなり得る自然な老化プロセスの一つとして認知症を捉える時には、痴呆やボケといった呼称のほうが伝わりやすいこともあります。認知症というとどうしても医学的・客観的な病名の無機質な印象となり、ライフサイクルの老年期に位置づけられる『一度獲得された知能の段階的な衰退』や『人間関係・生活環境への適応性の変化』といった視点が抜け落ちやすくなります。

自分が認知症を発症することの恐怖感や嫌悪感は、先進国の競争社会であるほど強いという指摘が為されますが、それは『自我中心の自己責任社会=現代』において“わたし(自我・人格)”を失っていく認知症というものが、人間の尊厳や価値を侵食する疾患だと認識されやすいからです。著者の大井玄氏は東大医学部卒・ハーバード大学大学院修了のエリート医師ですが、前途洋洋たる青年期に佐久平で『寝たきり老人・ボケ老人の医療』を経験することで、アメリカ留学で確立した競争主義的な自己アイデンティティや能力主義的な世界観が激しく揺さぶられます。

認知症を発症したり寝たきりになったりした無力な老人の姿は、『自己の自立性・自尊心』を失う将来の自分の姿と重なり、自尊心や自立性を支えている『自我(私)の意識・自己の能力』が無効化してしまう恐怖や空虚をイメージさせたのでした。現代社会は良くも悪くも、私がどんな人間であるか、私にはどんな能力や実績があるか、私の行為や決断にどのような責任が生まれるのか、私が幸福なのか不幸なのかという『自己中心の世界』であり、“私(自己)”という自意識や責任主体が確立していない限りは社会的・経済的・対人的に有効な行為が何もできない構造になっています。

『私は私が誰だか分からない・自分の行為や判断に責任が取れない・過去と現在の自分の連続性がない』という状況では、自己中心(自我中心)の現代社会では社会構成員の一人として生存することが困難になり、家族か社会福祉による『全面的な後見・保護・介護』が必要になってきます。特別な障害や疾患、問題状況がない限りは、自分の人生に対する責任を自分自身で取らされる『自己責任社会』にますます近づいており、最近の『高齢者の所在不明問題』に象徴されるように家族関係も希薄化して、“家族の一員として守られる環境”を老年期にまで維持し続けることが困難になってきています。

高齢者であっても“私(自分)”という連続性・統合性のある自意識を維持していなければ、どこにも居場所がなくなり自立的な生活もできなくなってしまうという恐怖感、それが現代社会において認知症が恐れられ忌避される理由のひとつです。『認知症の相対的な恐怖度・症状悪化』は生活環境や文明水準、家族のサポート(信頼関係)によって大幅に変化することが国際比較研究などで分かってきているとも言います。

先進国では医療技術・延命措置が発達して平均寿命が伸びているため、途上国の大家族による老人介護(看取り)と先進国の医療機関や介護施設を中心とした老人介護とを同列に比較することは適当ではないかもしれませんが、『認知症の症状の悪化・本人の情動障害』は家族関係が良いか悪いかによって大きく左右されるという事実は意識しておきたいことです。










■関連URI
武井麻子『ひと相手の仕事はなぜ疲れるのか―感情労働の時代』の書評:1

クレペリンの早発性痴呆、ブロイラーの精神分裂病から現代の統合失調症へ至る歴史的変遷

吉本隆明『老いの流儀』の書評:老年期における心身の健康と高齢化社会の展望について語る

河野稠果『人口学への招待 少子・高齢化はどこまで解明されたか』の書評1:人口爆発と人口減少の動態

■書籍紹介

「痴呆老人」は何を見ているか (新潮新書)
新潮社
大井 玄

ユーザレビュー:
知性は衰えても、心は ...
痴呆は本人も苦しいら ...
般若心経を連想させる ...
amazon.co.jpで買う
Amazonアソシエイト by 「痴呆老人」は何を見ているか (新潮新書) の詳しい情報を見る / ウェブリブログ商品ポータル






改訂・認知症ケアの基礎 (認知症ケア標準テキスト)
日本認知症ケア学会

ユーザレビュー:

amazon.co.jpで買う
Amazonアソシエイト by 改訂・認知症ケアの基礎 (認知症ケア標準テキスト) の詳しい情報を見る / ウェブリブログ商品ポータル

この記事へのトラックバック