天童荒太『静人日記』の書評:『匿名の死』を悼む坂築静人の奇妙な生き方と現実の他者との距離感

人間と動物の差異として『死を悼む』ということがある。人間は血縁のある家族の死を悼むだけではなく、自分と付き合いがあった親しい友人の死を悼み、何かの縁があった知人の死を悼む。飼っていた愛らしいペット(動物)の死を、悲しみに暮れながら悼む人も少なくないだろう。しかし、人は年月の経過と共に『死を忘れる』ものでもある。あれほど悲しみや痛みに打ちひしがれていた人も、『他者の死』を一時も忘れずに生き続けることはできない、『自分自身の人生』へと戻っていかなければならないからだ。

坂築静人(さかつき・しずと)は地面に膝を突き、吹く風に掌をひらひらとさせながら、『匿名の人の死』を悼み続ける不可思議な旅を続けている30代の青年だ。新聞・テレビ・雑誌などで知った『自分とつながりのない他者の死』を悼むために旅を続けている、本書は天童荒太『悼む人』の執筆過程で、著者の天童氏が『静人の心境』になりきるために書かれた創作的な静人の日記である。日記なので本書の大半は“物語”ではなくて“記録”に近く、純粋な小説ではないと見ることもできるだろう。

膨大な数の『匿名の死(統計的な死者としてカウントされるだけの死)』『生きた人間の死』とするために、遺族・関係者にその人の生前の様子を聞きながら、死者のリアルな性格や行動、人間関係の情報が増やされ『人格・存在の肉づけ』がなされていく。日本では年間に約110万人の人が寿命を含めてさまざまな理由によって死んでいる、1日に4千人近い人が生命を失っているが、当然、自分とつながりのない『匿名の死』に深い関心や哀悼を寄せる人はまずいない。

無関係な他人へと感情移入をする強度やそのための時間には、自ずから制限があるのが普通であり、わざわざあらゆる事件や事故の現場に毎回足を運んで哀悼の念を捧げる人はいないだろう。その必要性や適切さについてははっきり言えば良く分からないし、その死者と無関係な人が遺族・関係者にその人の生前の様子を詳しく聞こうとする行動も迷惑になり兼ねない。

『静人日記』では、静人の匿名者に肉付けをしながら悼む行動に対して、共感・感謝を感じて詳しく話したがる遺族も描かれているが、同時に、静人の意図を理解できずに非難したり不快な表情を見せる遺族・関係者も少なからず描かれている。だが、誠実に真剣に死者を悼もうとする静人の態度に触れるうちに、大半の遺族・関係者は心を開いて『死者の生前の良い記憶・思い出・人柄』について語ってくれたりもする。

自分の知らない人間の死を悼むために、放浪・野宿の旅を続ける坂築静人は、公平に見ても相当に奇異な人物であるが、『悼む人』や『静人日記』は“人間の死の本質・他者との距離感・自己の人生との向き合い方”を象徴的に彫琢したある種の寓話として読めるのではないかと思う。

静人の『悼む旅』についての常識的見地からの批判も何度もでてくる。過去に医療機器メーカーに勤務していた静人は、看護師の知人女性から『自分ひとりで傷ついた気にならないで・自分のなすべき仕事に戻ることよ』と諭され、悼む旅の途上で乗せてくれた長距離ドライバーの兄ちゃんから『いい加減おかしな真似はやめてさ、早いとこ、まともな暮らしを送りなよ』と同情めいた言葉を掛けられる。

大多数の人にとっては、いい年をして仕事もせずに少ない貯金を切り崩して『放浪の悼む旅』を続けている静人は、自分自身のやるべきことから逃避した偽善的な人間のように見える、他人の死や人間関係に構っている暇があれば、『自分の人生』を責任を持って生きろという正論が突きつけられる。遠い故郷の親や妹も静人のことを心配しながら見守っているが、『静人日記』を人間の死の形式の本質を浮かび上がらせる寓話として読むならば、『自我の放擲』によって『匿名の死』をまなざす物語を意図的に創作していると考えるべきだろう。

だが、『自我の放棄(煩悩の滅却)』とも取れる静人の悼む旅は、誰に求められているわけでもなく、自分の『他者の死』に対する了解(納得)を求めているだけという意味で、『自我の執着(無責任な放蕩)』ともパラレルな構造を持っている。

マスメディアが注目する大きな事件や事故、幼い子どもが犠牲になった事件などでは、人はその場で悲しみや哀悼の念、憐憫、義憤(感情移入)を感じることも多いが、いずれは『自分自身の人生や身近な関係性』に戻っていかなければならず、無関係な匿名の人間の死は記憶から忘れ去られてゆくだろう。静人はニュースや記事で伝えられる『匿名の人間の死』を、『実名の人間の死』へと置き換えるために『悼む旅』を続けており、分かる範囲でひとりひとりの死者の周辺情報や人間関係を細かくノートに記録して、決して忘れないようにしようと努める。

恋人(彼女)を亡くしたあるトランスジェンダーの女性が、『あなたが一時の気まぐれではなく、本気で見ず知らずの他者の死を忘れないために旅をしていると言うなら、一年後の命日に私に電話をください』と語るのだが、静人はその命日の日にちを忘れることなく、一年後に再びその女性に電話を掛けたりもする。

『静人日記』は良くも悪くも物語として構成された小説ではないのだが、ニュース記事や死亡事故・事件の報道を題材にしながら、これでもかというほど『死亡した匿名の人間』の性格や人柄、人間関係、普段の様子を数多く再現していて、ひとつひとつの事例を読み進めていくとなかなか興味を引かれて読ませられたりもする。単なる統計上の数字やマスメディアが流す事件・事故が、『ひとりの生きた人間』として次第に輪郭を濃くしていき、その人が愛し愛されていた関係を復活させていく。

どんなに救いのないような人生を歩んできた人でも、自業自得の死のように見える人でも、ヤクザのように社会に迷惑を掛けたと思われる人でも、静人は『人間を悼む行為』に区別や差異をつけることはない。ただ、その人が生きていた期間の『良き部分・明るい要素・幸せだった瞬間』だけを、関係者から聞いた話や豊かな想像力によって再現し、自己の記憶に深く刻もうとする。
静人は今は亡き彼や彼女が、『誰を愛して、誰に愛され、どんなことで感謝されたのか』をメインに話を聞きたがるのだが、『誰も愛さず、誰からも愛されず、良い影響を与えたことが見当たらない人』への悼み方については明確な解答を出しえていないようにも思える。

だが、天童荒太の『悼む人』や『静人日記』の倫理性を包摂する主題は、恐らく『人間の生の賛美・人間の死の受容』にあると読めるので、どんな悪人や嫌われ者であっても『誰にも良い影響をもたらさなかった人やまったく一切の幸せの瞬間から見放された人は存在しない』という信念を前提において読むべきなのだろう。

『静人日記』は“筋書きのある物語”ではなくて“事例の記録”としての側面が強いが、坂築静人を好きになる耳の聞こえない聾の女性(遥香)や同性愛者の男性(ナルオ)との出会いを通して、静人のこころは『身近な他者の思いに応えられないこと』や『自分自身の人生と向き合わないこと』で激しく揺さぶられる。

静人の『悼む旅』とは、すべての人間を分け隔てなく愛し慈しもうとする『博愛の旅』でもあるのだが、個人の人生や他者との実際的な係わり合いでは『博愛の理想・自我の放棄』がかえって相手を傷つけてしまうこともある。坂築静人の『悼む旅』の目的に誠実な理解を示して、静人と共に足手まといにならないよう旅をしたいと申し出た池之内遥香を、静人は迷いながらも拒絶した。遥香の申し出の背景にある淡く切ない恋愛感情に、同じように共鳴しかけていた自身の恋愛感情(自分の人生を生きようとする意志)を、静人は敢えて否定する道を選んだということでもある。

個人的な関係や感情を深めることは『博愛の旅の終焉』を意味せざるを得ず、最終的に旅をやめられないのであれば、自分に関心や好意を寄せた他者を深く傷つけることにもなる。現実的な生活意識に欠けた『孤独な悼みの旅』に同伴者を連れることは難しい。『自分自身の人生の喜び・幸福』と向き合う道を選ばないかのように見える静人の悼みの旅がどこへ続いていくのかは分からない、『不特定多数の死の悲しみ』に寄り添いつつ『身近な人間の思い』に応えられない転倒した生き方に対して、読者が下す価値判断のあり方もさまざまだろう。










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■書籍紹介

静人日記
文藝春秋
天童 荒太

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