近代社会の成熟と“女性の時代”の到来:“個人”の増加による“社会・宗教・性の規制力”の低下

前回の記事では、15~17世紀の西欧世界における“個人(individual)”の誕生について言及しましたが、自我の主体性と独自性を自覚した個人の出現によって、社会的・伝統的に規定されていたあらゆる偏見や差別、序列秩序が緩やかな解体を始めることになります。現代という時代の最先端においても、“個人”は社会(世間)や伝統から完全に自由ではないのですが、社会共同体や伝統文化による“秩序形成”という恩恵も同時に受けています。

村落共同体における世間体や相互監視というと何故か『日本的なイメージ(人の顔色を気にする日本文化)』を思い浮かべやすく、ヨーロッパやアメリカでは昔から個人主義・自由主義が根づいていて、『世間体・村社会』に惑わされない個人が居たような錯覚を受けやすいのですが、少なくとも19世紀までは現代でいう“自由な個人が織り成す時代”というのは欧米にも到来してはいませんでした。

日本は幕末にペリーの艦隊を見て『黒船ショック』を体験し、明治維新以降は西欧諸国を模範とした産業振興と体制変革、文化発展を続けてきたので、今でも『欧米では既に○○を実施しているが、日本ではまだ○○が整備されていない』というステロタイプな発想に陥りやすい傾向があります。しかし、日本と欧米で近代化に成功した『100年程度の時間差』を無視すれば、日本のほうが『合理主義・男女平等・ゲマインシャフト(地縁血縁の共同体)の同調圧力』などにおいて必ずしも欧米社会よりも遅れていたとは言えない部分があります。

近代化以前の歴史において、欧米社会と日本社会で生きる人たちの命運を決然と区別したのは『キリスト教(一神教)の規範・慣習の存在』であり、近代的な個人・自我を生み出す必要条件である『世俗化=脱宗教化』のスピードは日本のほうが圧倒的に早かったのです。西欧社会では政治権力と宗教権威の競合関係に決着がつくのに、つまり、近代国家(国民国家)の枠組みにキリスト教が取り込まれるまでに非常に長い時間がかかっており、フランス革命以後にもカトリックのウルトラモンタニズム(教皇権至上主義)の反動が起こったりしました。

世界最大の先進国であるアメリカ合衆国は、表層的なイメージとしては脱宗教化された先端的かつ合理的な国家なのですが、実際には地域格差が大きく西部・南部ではプロテスタントの根本主義的(ファンダメンタリズム)な浸透が今でも根強く残っており、功利主義や合理主義のみでは解決困難な倫理的テーマを幾つも抱え込んでいます。

後述していきますが、その倫理的テーマというのは簡単に言えば『伝統的な家族像・性道徳(純潔性)・生命倫理(堕胎禁止)・共同体の結束』などであり、キリスト教のファンダメンタリズムでは、聖書(宗教教典)と生活との距離が不可分のものになっています。
日本には、仏教・儒教・神道・道教などの教え(戒律)を原理主義的に受容しなかった風土があり、仏教徒であっても『女性(性交)・飲酒・快楽・賭博』などを禁止する戒律や波羅蜜(実践法)を無効化し、寺院が自ら僧兵・破戒僧を抱えて軍事活動(殺生に通ずる活動)をしていた時期さえありました。

西欧世界で共同体と自己を区別できる“個人”が生成した背景としては、『イタリアのルネサンス・ユマニスム(人文主義)と近代啓蒙思想・産業革命とプロテスタンティズムの倫理・ダーウィンの進化論・社会のゲゼルシャフト化』などによるキリスト教の世俗化(一神教の規範・世界観の拘束力の低下)がありました。人間を集団(共同体)の要素と見る『集団主義』から『個人主義』への転倒は、必然的に『男女平等主義・フェミニズム・ジェンダーフリー』の気運を導きましたが、特に第二次世界大戦後に先進国では急速に女性の権利が拡張していきました。

現代社会では『男女平等思想』の原理的な正しさについて正面から否定することはほぼ不可能ですが、今でも保守的な価値観・家族像を持つ人の多くは『完全な男女平等・フェミニズム・ジェンダーフリー』については警戒感や違和感を持っていると思われます。現代においてあからさまに男尊女卑的な信念(男性優位主義)を表明する人はほとんどいないでしょうが、男には男の果たすべき役割があり、女には女の果たすべき役割があるのだから、男女ですべてを平等にしてしまうと男女関係や家族関係の秩序が揺らいでしまうという考えを持っている人は結構多くいるでしょう。

『男は外で働き妻子を扶養する・女は家庭を守り夫を癒す』という今ではややステロタイプなジェンダーが日本に根づいてきたのは明治以後ですが、特に、昭和中期以降の高度経済成長期に『専業主婦のいるサラリーマン世帯』でこのジェンダーが自然な役割意識として受容されていました。

現在でも50~60代以上の世代では、この性別役割分担に依拠するジェンダーが標準的なものとして認識されている人が多いですし、若い世代で実際には専業主婦をしていない夫婦でも、こういった性別役割分担を『自然界の雌雄関係のアナロジー(類似性)』のように感じている人は少なくないのではないかとも思います。

人間の『男女・夫婦関係』を自然界のメタファーとして解釈する価値形成は『自然主義の誤謬・進化論的な優生思想』の危うさと隣り合わせですが、人間のカップリングや生殖行為は遺伝情報による必然性(主体的な意志・選択では逆らえない本能)に基づいているわけではないので、自然界でこうだから人間の生活様式もこうあるべきという考え方は客観的な根拠としては弱い側面があります。

端的に言うと、自然界の昆虫を含む動植物界でも『オス優位の雌雄関係』はスタンダードなものではないので、一部の動物の雌雄関係のみを参照しても、ヒトの採用すべき男女関係の雛形などを得ることは出来ないと思われます。霊長類の類人猿では、確かに雄優位の独占的な雌雄関係が見られないわけではありませんが、類人猿ではチンパンジーのように乱婚制を採用していたり、ゴリラのように独占的な一夫多妻制で他の雄の子殺しが行われていたりするので、類人猿の雌雄関係を模範とすべきだとは全く思えないということがあります。

“ジェンダー(gender)”は文化的・経済的・歴史的な要因によって生成する性差ですから、『家父長制の家族モデル』が生物学的な根拠に基づく普遍的でベーシックな家族像とする考え方は間違っていますが、西欧社会で『男性原理的な家父長制』が強化されてきたのは18世紀以降で比較的遅かったようです。

男性が『権力のある厳父』の役割を演じ、女性が『貞節のある慈母』の役割を演じるという家父長制が、西欧でなぜ台頭してなぜ衰退したのかを簡単に述べることは難しいですが、時代潮流を“女性原理”へと向け変えたマクロな要因として『キリスト教の世俗化・資本主義の発展・戦争行為(暴力)と肉体労働の衰退』を挙げることができます。時間を見つけて、もう少し『個人の誕生とジェンダーの中性化・女性原理の拡張』などをテーマにした記事を書くかもしれません。










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■書籍紹介

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ナツメ社
加藤 秀一

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