吉本隆明『老いの流儀』の書評:老年期における心身の健康と高齢化社会の展望について語る

『円熟』『老化』という言葉の語感はかなり異なるし、最近では『老人』という言い方を嫌って『高齢者』という風に表現することが多くなった。『後期高齢者』という言葉は『人生の末期』をイメージさせるものとして随分と不評だったし、老いの不安や肉体の劣化を緩和するための『アンチエイジング』をコンセプトとした各種のビジネスはかなり隆盛しているようだ。

戦後は医療技術の進歩や栄養状態の改善、衛生環境の整備などによって平均寿命が延び、今では60代くらいの年齢では『高齢者』と一律に区分することができないほどに元気な人が増えている。60代で現役を引退しても、順調に致命的な大病をせずに生きれば、大半の人には20年以上の余命が残されている、身体や頭脳は段階的に衰えていくとしても、できるだけ長く元気なままでいたい、親族・他人の世話にならずに人生を終えたいという願いを多くの高齢者が持っている。

本書『老いの流儀』は、思想家・文芸評論家である吉本隆明(1924~)『自己の老い』に向き合いながら、ざっくばらんに語った内容を文章に起こしたものであるが、この本が出版された2002年から7年経った現在も吉本は存命である。自身の老いや衰えについて率直に語るだけでなく、そこに文学論・哲学論や今後の日本社会の展望を絡めているので、エッセイの読み物としても結構面白い。

吉本隆明は今でも口述筆記の方式であるとは思うが、旺盛な言論・出版活動を行っており、現代社会で進行中の格差論や社会・文化論、グローバリズム、政治経済のテーマなどへの関心を維持しているようである。『Ⅰ 老いと衰え』では、1996年に西伊豆で溺れて足腰を弱くした話と自己流のリハビリについての話が中心となっているが、大病院での検査・リハビリや医師の生活指導に対する不満として『老人が一番触れてほしいところに触れてくれない』と述べている。

大人数の患者を決まった時間枠・システムで診療しなければならない総合病院では、『待ち時間の長さによる疲労』『実際の診療時間の短さ』によって、完治しない慢性疾患や運動機能の低下を抱えた『老人の満足度』は低くなるという。吉本が言う高齢者が触れてほしいところというのは、簡単に言えば『思い通りにならない身体を抱えた自己の苦しみやもどかしさ』であり、近代医学の診療システムや合理的なリハビリテーションではどうしても『検査・治療・リハビリ以外の精神的なケア』を十分に行えないということである。

では、介護のデイケアや高齢者福祉であれば、そういった一番触れてほしいところを巡る『共感的な対話・メンタル面のケア』ができるのかといえば、介護の人的リソースや予算の限界などで逼迫する現状では難しいといわざるを得ない。高齢者のメンタルヘルスを巡る問題には、アルツハイマー病(認知症)や老年性うつ病、妄想性疾患、思考力・集中力・言語能力の衰え、自己否定・将来の悲観による反応性の低下などがある。

『身体の急速な衰え』が先行するとどうしても『精神機能の低下(認知機能の低下・精神運動抑制)』が並行して進みやすくなるし、認知と言語の機能が相互的に衰えることで『円滑なコミュニケーション』ができなくなり、自分の意志・感情が思うように伝わらないことに強いフラストレーションや自信の低下を感じてしまうことになる。

言語機能を基盤とする相互的コミュニケーションが上手くいかなくなると、『他者との関係性・内的世界の言語化』における自己アイデンティティがぐらりと揺らいでくるわけで、『自分の言いたい内容』がすらりと言葉にならないもどかしさや悔しさというのは想像を絶するものがあるだろう。その意味では、『老い』というのは身体的な衰退(思い通りに身体を動かせなくなる)から始まることが多いのだけれど、それと同程度に、言語的能力というか知的な世界の把持能力の衰えというのも『自己の存在認知・双方向の意思疎通』を脅かす怖さというものを孕んでいる。

吉本隆明は80代後半になっても『言葉での表現能力』を失っていない、本書に書かれた身体の健康状態から推測するに身体能力は相当に落ちていて病気も多いのだろうけど、生きている間、ずっと言語能力と認知能力(知的活動性)を失わないというのは大いなる希望だと思う。かなりの割合の高齢者は80代、90代になってくると認知症ではなくても、『話したい内容・伝えたい気持ち』を自在に言語化して話す能力に陰りが見えてくるし、『どうしてこんなに話せないのか』という自己に対する苛立ちやもどかしさを抱えざるを得なくなる。

吉本は文学者は老いぼれやすく、政治家は若さを保ちやすいというようなことを述べているが、それは一般論として正しいかは分からないものの、中曽根康弘だとか死去する前の宮澤喜一だとかを見ていても、年齢の割りに思考力や言語力に余り衰えが見られないのは凄いことだと思う。1918年生まれの中曽根康弘などは若干のパーキンソン症状は見られるようだが、テレビ出演していても、91歳の高齢者とは思えないほどに矍鑠としていて、政治状況を認識できるだけの知的能力を維持している。

市井の90代の高齢者のレベルからすると、かなり身体も精神(頭脳)も若いように思えるし、このままいくと健康な精神機能を維持したまま、最期の時を迎えられる可能性が高いのではないだろうか。誰もが自分は『認知症』にはなりたくないと思うものだが、認知症になる医学的・生理学的なメカニズム(βアミロイドの蓄積・脳の萎縮や血管障害)がだいぶ解明されてきてはいても、どうすれば認知症にならないかという『決定的な予防法・対処法』については確かなことが言えない。

『精神的ストレスの減少』や『老年期の生き甲斐の創出・自己の役割の発見』、『知的活動(読み書き・会話)の継続』『適度な運動習慣やバランスの良い食生活』など認知症の予防に良いとされる方法は幾つもあるが、遺伝的・生物学的な原因を除けば、『自己が社会や誰かに必要とされている実感・老年期を通して追究していきたい目標』を得られることが、老いの中での若さにつながるような感じもする。老年期でメンタルヘルスの悪化や人生への絶望を促進する要因としては、自分で自分の存在価値を疎外してしまい、この世界に自分の居場所が無くなってしまったかのように感じる悲観的認知がある。

『Ⅱ 知識と知恵』では、年齢を重ねて老人になったからといって、精神が成熟したり物事を達観できたりするような変化はそうそうないよという話がでてきて、吉本隆明自身は30代~40代の時の精神性や人格性とそれほど変わらないと語る。この話は若年の自分に置き換えても納得できる部分もあるが、『人間の精神の本質・人格の成熟』というのは時間が経てば経つほど経験や知識に応じて深まったり高まったりするものでは恐らく無いのだろう。老人になると精神が『子ども返り(幼児退行)』をして、幼稚さや依存性がかえって目立つことがあるように、精神の成熟性や成長性のベクトルは『直線的な上昇』というよりも『円環的な循環』に近い部分もある。

『表層的な精神の成熟あるいは成長の実感』というものは確かにある、それは就職をして仕事に慣れてきただとか、結婚して子供を扶養する義務が出ただとか、社会的に責任ある地位に就いただとかいう『社会的な役割・周囲の自己評価』と重なり合わさる形の実感としてある。ある程度順調な社会人生活(サラリーマン生活)や家庭生活、知的活動(創造的活動)を送っている人であれば、50代くらいまではこういった『社会的・職業的な役割』と結びついた形での精神の成長(人格の成熟)の実感を得られるのではないだろうか。

60代、70代と年を重ねていくと『社会的な役割・周囲による自己評価』を安定的に得ることが難しくなるし、そこに身体・精神の機能的な衰えも加わってくるので、精神の成長の実感よりも過去の自分の回顧(過去への退行)のほうが勝ってくるのかもしれない。自分は70歳になっても80歳になっても死ぬまで成長・熟達を続けられるというのは、健康な心身の持続を前提としたある種の幻想に近いだろうし、発達心理学が老年期の発達課題としている『人生の総合・経験の整理』というのもその内容はかなり曖昧である。

吉本は『老い』と『衰え』の合理的な区別ができていれば高齢者の気分も上向きになったりするけれど、『老い』と『衰え』を密接不可分なものと認知して、『必然的な死』を予期すれば老年性うつ病に誰もがならざるを得ないと言う。『高齢化社会のテーマ』を語る時に、吉本は少子化の進展や社会保障制度の持続性という論点についてほとんど言及しないのだが、子が親を介護してくれるような『伝統的な家族制度』は半ば必然に崩壊するよ、家族に何もかも期待するのは無理だよという話へと持っていく。

伝統的な家族制度や地域・血縁の相互扶助によって『老年期の介護・メンタル面のケア』ができないとしたら、これからの高齢者は一体どうすれば良いのかという問いについて、吉本は合理的な解答は示せていない。本書で語られる対策案としては、『子に頼らなくても良いだけの公的年金(老齢基礎年金)の増額』だが、これは年金財源の確保という点から現実的ではないし、公的年金が賦課方式である以上、直接的な子の介護・経済援助を受けなくても、間接的に子以下の世代に頼っている構図は変わらないということになる。

年金問題については、吉本隆明と現役の若年世代との『金銭感覚のギャップ』は余りに大き過ぎるし、吉本が例として上げている同期生で出世頭だった人物の年金額(恩給なども含むものだろうが)は月に70万円以上という破格なものである。こういった具体的な金額を出されると、まともに年金が貰えるかもわからない正規雇用の若年層は不公平さや徒労感を感じるだろうし、非正規雇用で月に20万円も稼げない人が多い現状では、高齢者層の苦境へのシンパシーはどうにも湧きにくくなってしまう。

皮肉にも吉本隆明は本書において『ジェネレーション・ギャップ』について何度か言及していて、『親・子・孫の世代』では正面からのコミュニケーションによる同意は困難だといった話もしているのだが、世代間負担の格差や将来不安の大きさによってこのギャップは否応無しに深まる恐れがある。いずれにしても、月に20万円の老齢年金では不足だという、70~80代以上の中流以上の年金受給者の金銭感覚と若者の感覚とのギャップは大きいし、高齢者間の経済格差に由来するコミュニティ形成の難しさなどもそこにはある。

そういった金銭感覚のズレは、経営再建中で実質的に破綻しかかっている『JAL』を退職したOBたちが、1円も企業年金の減額を許さないという態度にも現れていたりするが、吉本が理想として語る『情緒的な人間関係に根ざした介護』を実現するためには、こういった介護者と被介護者との間にある生活水準の認識のギャップも何らかの形で埋めていかなければならないのだろう。悲惨な結末を迎える恐れが高い『老々介護』の問題にもさわりだけ触れているが、そこには深入りせずに、世代論や社会論、文学論、消費社会の経済談義へと話は流れていく。

現実的な提言としては『Ⅵ 20世紀と21世紀を俯瞰する』で、定年退職者だけを雇う会社をつくろうといった話がさらっと出てきたりするが、本書は基本的に、吉本隆明が『自身の老い』と対峙しながら訥々と紡ぎだす言葉に耳を傾けることを楽しむための本と言えるだろう。高齢化社会に対して個人的に真摯に向き合おうとする姿勢、老年期における心身の衰えに負けじとばかりに物事を意欲的に考えようとする精神力には脱帽せざるを得ない。










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■書籍紹介

老いの流儀
日本放送出版協会
吉本 隆明

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