子どもの近視(視力低下)と情報生活環境の変化・医療事故被害者に対するネット上のバッシングの問題

現代社会では大人も子どもも視力が低下していて、高校生くらいの年代では片目の裸眼視力が1.0を超える目の良い人はかなり少なくなる。年代によって近視の人の比率は異なってくるが、現在30代くらいの世代では小学校の年代では眼鏡・コンタクトレンズを必要とする子どもの比率は相当に少なかったという記憶がある。小学校の1クラスを40人ほどとして5人も眼鏡をかけている生徒(コンタクトレンズ含む)はいなかったように思える。私自身は中学校の半ばくらいから極端に視力が低下して結局裸眼視力は0.1を下回ったのだが、受験勉強などで目を酷使する時間が長くなりやすい中学・高校の年代から急速に近視率は高まる傾向がある。

読売新聞の『ゲームのせい?園児の3割視力1.0未満、ぜんそくも増加』という記事を読んで視力低下と環境要因について少し考えてみたいと思ったのだが、現在ではかつて正常視力とされていた『裸眼視力1.0以上の人』の比率は中学生で約50%、高校生で約60%という統計が出ており裸眼視力で1.0以上ある人は既に少数派になっている。文部科学省の実施している『学校保健統計調査・平成20年度』によると、平成20年度の「裸眼視力1.0未満の者」の割合は、幼稚園28.9パーセント、小学校29.9パーセント、中学校52.6パーセント、高等学校58.0パーセントとなっていて、前年度と比較してすべての学校段階で上昇しているということである。

10年以上前から、20歳以上になれば近視による視力低下で何らかの視力矯正をしている人の比率は50%を超えていたと思われるが、現在は『近視開始時点の低年齢化』が心配される状況になっている。ウェブを検索すると、生活習慣の改善や視力トレーニングなどで子どもの視力低下を早期に予防する『眼育(めいく)』といった言葉も生まれてきているようだ。大人になればスポーツ選手やパイロットなど裸眼視力の高さを必要とする職種に就かなければ、近視(視力低下)による実質的な不利益は殆どないのだが、子ども時代は体育の授業や身体を使った遊びなどで眼鏡・コンタクトが物理的に邪魔に感じるという機会はやはり多いだろう。

発達の早い段階で子どもに眼鏡・コンタクトレンズを装着させることで、視力低下の傾向が固定されるのではないかと不安に思う親もいるだろうが、現代の眼を取り巻く情報・生活環境を考えると『近距離に焦点を合わせる時間』『遠距離に焦点を合わせる時間』よりも圧倒的に多いので、情報化された文明社会における近視傾向を抑制するのは極めて難しい。逆に言うと、『近距離での作業・知覚』への環境適応として近視の屈折率(屈折障害)が形成されるという見方もできるのであり、将来においても『近距離での作業・知覚を行う時間』が圧倒的に長いライフスタイルになるのであれば、近視による生活上の不利益は比較的小さいということになるのだろう。

実際問題として、成人してからも事務処理・パソコン作業・モバイル(ケータイ)・ゲーム・読書・近い距離での会話など『近距離に焦点を合わして生活する時間』が1日の生活時間の過半を占める人のほうが現代社会では多いと推測されるので、(光学的に矯正困難な病的近視・弱視などを除いて)遠視よりも近視のほうが社会職業的環境により適応的であるという側面もあるように思う。

幼稚園児~小学生低学年など早い年齢段階で極端に視力が低下するのは、もっと眼が悪くなるのではないか(友達とスポーツや外遊びをする時に不便ではないか)という心配もあるが、『光学的・外科的な技術』によって、日常生活に支障がない程度に視力が矯正可能な状態にあるのであれば過度な心配はいらないように思う。本質的には、情報化社会の人間を取り巻く『視力環境(焦点を頻繁に合わせる対象の距離)』がここ10年ほどで劇的に変化したと見るべきである。人間の視力が、近距離での作業(文字の読み書きなど)が少なく野外で過ごす時間が長い『狩猟・採集段階』『農耕・牧畜段階』を経て、一貫して低下し続けているのは『眼の使い方』を考えれば必然的なことでもある。

成人では裸眼視力が0.1よりも低い人は数多くいるが、それで日常生活や職業活動が極端に妨げられるといった話は効かないし、(昔と比べて)デザイン性が高くなった眼鏡はその人の外観的な印象にアクセントを加えるファッションとしての要素も持つようになっている。どうしても眼鏡やコンタクトをつけるのが面倒だったりファッション的な感覚で嫌ならば、現在では(20歳以上の適用であるが)エキシマレーザー光線を用いて角膜の屈折率を外科的に調整するLASIK(レーシック)やPRKなどの選択肢もある。

LASIKに代表される外科的な視力矯正手術は一般的に安全性は極めて高いとされているが、事前検査によって手術を実施できないケース(角膜の厚み・形状などに適用基準がある)があることや術後に一定のリスクがあることについての理解は必要だろう。視力が低下した場合には各自が自分に合った視力矯正法を選択すれば良いが、生活習慣の改善等によって視力環境を意識的に調整して上げることも大切だとは思う。『正常』とされる視力の基準そのものについても、裸眼視力1.0以上を正常と見る見方が統計学的には妥当でなくなってきているという状況もあるが。

ゲームやインターネット、ケータイといった近距離に焦点を結ぶ活動を減らして、外遊びやアウトドアの活動を増やすということは、子どもにそれを指導するだけでは難しいと思う。親自身が普段からアウトドアの活動が好きであるとか子どもにスポーツを教えるのを日課にしているとか、そういった家庭要因(親の活動性・外向性)も子どもの視力環境に与える影響は大きいのではないだろうか。それでも、読書やインターネット、ゲーム、勉強(学問)が好きという事自体が悪いわけではないので、結局、大人になれば遺伝的要因を除いて『自分がしたいと思う活動・趣味に費やした時間(焦点の距離)』に合わせた視力に自然に落ち着いてしまうようにも思う。


■医師の刑事責任と医療事故被害者に対するネットでのバッシングの問題

最近、医療ミスや遺族が納得できない医療の死亡事例に対する医療裁判のニュースを目にする機会が増えたが、医療事故被害者や医療裁判を提訴した遺族に対するネット上のバッシングが取り上げられていた。医療現場の崩壊(医師不足・医療関係者の過酷な勤務条件)が取りざたされる中で、訴訟リスク(訴訟の多い診療科)を回避する医師の増加は大きな問題であり、『診療科・勤務地域における医師の偏在(特に産婦人科・小児科・緊急救命医療の医師不足)』をどう解消するかが議論になることも多い。

誠実原則に基づいて標準的医療を施した医師に、『故意の過失(意図的な加害)』がなければ刑事司法における結果責任(刑事罰を科すような法的責任)を問うべきではないという医療サイドの意見にも確かに医療崩壊を防ぐ上での合理性はある。その一方で、医師がその持てる知識と技術の範囲内で全力を尽くしたのであれば、結果責任は問わないという患者側のコンセンサスがあるわけではなく、特に死亡事例においては論理的・医学的にその経緯を理解することができても、心情的に納得できないという気持ちは十分に察することができる。

医師が故意にミスをしたのではない『結果責任』を最大限問わないようにすれば、現在問題になっている『妊婦や緊急医療の受け容れ拒否(専門医不在のため、治療結果に万全の責任が負えないという理由での受け容れ拒否)』はかなり減らすことができるだろうし、その疾患・怪我の専門医以外の医師が当面の緊急対応的な診療を引き受けるというフレキシブルな医療に近づくことができるだろう。その一方で、患者をいったん受け容れたからには『最先端の万全の医療』を提供しなければならないという認識を持った国民も少なくないので、専門医が欠けていたり設備に多少の不備があるような診療体制では患者を安易に受け容れられないというジレンマがある。

医療崩壊の問題はともかくとして、病院における死亡事例や治療後の後遺症などを『医療事故・医療ミス)』と認識して医療訴訟を起こす遺族・被害者に対して、当事者ではない一般国民がどのような態度を取るべきなのかはセンシティブな問題である。『医療システム全体の最適解(アクセス機会の確保)』と『個別の患者の心情的了解(医療措置の結果に対する了解)』との間には必然的に大きなズレが生まれてくるので、国民の多くは当事者としての苦しみや悲しみ、不満などに直接的に共感することは難しいし、医療崩壊・医師の萎縮を懸念する立場では(医師にどのくらいの悪意・故意・明確な過失があったのかなどにもよるが)医師を追及する被害者のほうに批判が向かいやすい風潮がある。

医療事故や医療ミスは確率論的に起こるリスクであるが、大半の人は医療事故とは無関係な生涯を送ることから、『自分が医療サービスにアクセスできる権利』を中心に『医療システム全体の最適化』を基準にして医療訴訟の是非を考えてしまいがちである。医療事故(医療ミス)によって深い精神的ショックを受けて落ち込んでいる遺族・当事者に対して、必要以上の暴言や中傷を書き込むことは倫理的には批判されるべきことであるが、無数にある意見や言葉遣いの中から『適正な批判』と『違法な誹謗中傷』をふるいわけるという発想自体が現実的なものではないように思う。

丁寧な言葉で医療崩壊などの論点を踏まえて、遺族の医療訴訟を暴言なく冷静に批判するのであれば合法であるが、乱暴な言葉遣いで遺族や死者の人格・名誉を傷つけるような中傷・攻撃を行うのであれば違法であるというように形式的には確かに言えるが、何百~何千という無数の主張に対して『合法性の明確なライン』を引くことは恐らくできない。医療事故被害者に対するネット上の意見・批判・非難・判断などを事前に規制することは不可能であり、『医療事故・医療裁判に対する言論の自由(自分なりの意見や判断を名誉毀損にならない範囲で示す自由)』そのものは侵害できないことから、現代社会(特にウェブ)では『何かの事件や出来事に対する他人の意見』を聞かないということは基本的にできない(当該事件に関連するウェブページにアクセスしないなどの物理的対応しかできない)。

情報化社会においてはマスメディアやネットに載せられた情報(ニュース)に対して、あらゆる立場から様々な言及が為される可能性があり、その言及の内容は正に玉石混交でありそれを特定の方向(道徳的・社会的に望ましいとされる方向)に誘導することはできない。それは、当事者である自分が同意できない意見を持つ人間や社会道徳に反する考え方をする人間が存在するということを否定できないというのと同義である。結局、今までは『社会的儀礼によって本人の前では言えなかった意見・考え』がウェブの空間に流出しているということであり、日本語圏のあらゆる階層・立場・価値観の持ち主が多角的な意見を述べてくるウェブは、『事件・問題の当事者』が閲覧するには一般的に適していないメディアということになるのではないだろうか。

以下にリンクした記事では、専門家からは『このままでは遺族が正当な主張さえできなくなる』と対策を求める声が出ているとあるが、『ウェブでの情報発信(あらゆる角度や立場からのニュースに対する言及)』は『同期性を前提とした対面コミュニケーション』とは異なる。そのため、明らかな誹謗中傷(名誉毀損)に対しては個別的に対応すべきだが、『被害者や遺族に対する反対意見』は既にウェブ空間の言説に織り込まれているという見方が必要になるだろう。被害者・遺族の人格を傷つけたり名誉を毀損する中傷は許されないが、『医療裁判を提起したことに対する厳しい反対意見』というのはウェブの言説に既に織り込まれていてこれは否定できない(どのような問題事例においても、すべての人に自分の意見や立場への同意を促すことは非現実的であり善意だけを期待することも難しい)。裁判や遺族の主張に賛成する人もいれば反対する人もいて、反対する人の言葉遣いやパーソナリティによっては行き過ぎた暴言に発展するリスクもあるということであり、行き過ぎた暴言・中傷に対しては必要に応じて法的対処も考慮することになるのだろう。

日本中のあらゆる価値観や信念の持ち主がアクセスして意見を述べる場であるウェブでは、どんなに正しいと予測される主張・意見(批判されることによって傷つきやすい立場・状況)であっても必ずそれに強く反対してくる人が存在するという合理的予測が成り立つ。昔と今ではそういった『他者の内面(以前は知る手段さえなかった)』が可視化(テキスト化)されるか否かという点に最大の違いがあるのだが、多種多様な他者の意見・内面の中には絶えず自分の価値観(つらい心情)を否定する要素が内在しているので、ニュース(事件)の当事者としてウェブの書き込みを無差別に閲覧することは心理的な負担が大きくなりやすい。

余りに行き過ぎた誹謗中傷や粘着的な人格否定に対しては、個別に訴訟を提起するという予防・威嚇措置も有り得るのだろうが、mixiなどにおける『ニュースへの言及』はニュースに対して意見を書く仕組み自体をmixiが提供していることから、個別ユーザの常識的な範囲内のネガティブな意見・批判は抑制することが難しいだろう。反対意見を書くことそのものは否定されるべきではないが、言及される当事者に対して『最低限の配慮・人格性への尊重』を持って、建設的な批判精神の元で意見を開示することが大切だと思う。


自分勝手、クレーマー…医療事故被害者遺族をネットで中傷

医療ミスで患者を死亡させたとして医師が起訴された事件の遺族たちが、インターネット上で誹謗(ひぼう)中傷にさらされている。

中には死亡した当事者本人を責める書き込みもあり、専門家からは「このままでは遺族が正当な主張さえできなくなる」と対策を求める声が出ている。

割りばしがのどに刺さり死亡した保育園児杉野隼三ちゃん(当時4歳)の診察にミスがあったとして、耳鼻咽喉(いんこう)科医(40)が業務上過失致死罪に問われた裁判。2審・東京高裁の無罪判決に対し、東京高検が4日、上告断念を発表した直後から、インターネットの掲示板「2ちゃんねる」やインターネット交流サイト「ミクシィ」内のブログには、隼三ちゃんの両親を非難する文章が次々と書き込まれた。







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