平野啓一郎『あなたが、いなかった、あなた』の書評

数ヶ月前に村上春樹の短編集『東京奇譚集』を読んだまま書評を書きそびれていたが、村上の短編集を興味深いストーリーと人物で関係性のエロスをメタファー化した作品と評するならば、平野啓一郎『あなたが、いなかった、あなた』は小説を叙述する多様なテクニックを駆使しながら平野の日常風景や人間観を巧みに切り取った作品のように感じた。現代小説には小説の物語性や人物の描写といったコンテンツとは別に、『レイアウト・フォント・図版の修飾』による文章の視覚効果に配慮した作品があるが、本作の中では『女の部屋』『母と子』『異邦人#7‐9』にそういった視覚上のテクニックが使われている。

『母と子』には発達早期の母子関係をテーマとした一定のストーリー性があり、誰もに共通する普遍的な懐かしい心象風景としての『母親と離れることを恐れる幼子』が描かれているが、ランダムな文章配列を取っている『女の部屋』は特定の決まった法則の読み方があるように見えて、どう読み進めていいのか分からない不思議な作品である。人物や出来事が展開する物語としての作品ではなく正しい読み方も分からないままに、淡々とある女の部屋の無機的で空虚な情景の様子が細々と綴られていくだけなのだが、さまざまなレイアウトを取って流れる文章を見ていると不思議な感覚に捕われる。

『鏡』という作品は『短編』というよりも『一文』であるが、『私がいない間にも、私の不在の部屋を生真面目に映し続けているのだろうか?』という一文を読むと、独我論と唯物論(実在論)の間にある『純粋に客観的な世界』を鏡だけが静かに写し取り続けているような面白さを感じる。わたしはわたしの意識や視線を介在しない『ありのままの客観世界』を永遠に知覚できず、『わたしのいない世界の像』は想像するしかないのだけれど、『わたしのいない部屋の鏡』は確かに実在していて現象的にはいつもと同じ部屋の写像を映し続けている。生物の意識や視線が介在しない純粋な客体(物そのもの)に接近する道具としての『鏡』、日常の部屋の風景にありふれた鏡から哲学の『主客問題』にまでイマジネーションを広げていける人間の心の働きが面白い。

文章量が少なくて読みやすい短編として『義足』『一枚上手』という作品も収載されているが、『一枚上手』のほうは携帯電話が普及した現代の夫婦関係の中でいかにもありそうな紋切り型のやり取りを描写した作品になっている。紋切り型の夫婦のコミュニケーションで小説としてはどうという感想もないのだけれど、『わたしね、考えたんだけど、今日から三日間、お互いの携帯電話、交換しない?』と妻や彼女に提案された時に感じるであろう男性側の動揺は、後ろめたいことをしているか否かに関わらず意外と普遍的なものだろう。

携帯電話の通話とメールに集約されている現代を生きる私たちの人間関係のネットワーク、『誰』が自分の携帯に言葉やメールを発信してくるのかを『他者』にすべて知られてしまうということは、何となく気恥ずかしい。夫婦や恋人の間ですべての『秘密・私秘性』を無くしてしまうことがすべての『隠し事・知られたくない事』を打ち明けることと同義なのかと言われると微妙な感じもするが、仕事上の知人や自分の友人を配偶者(恋人)と共有していない・共有するつもりがないことを理由に携帯電話にロックをかけたり自室にこもって電話(メール)をする行為は何らかの疑惑を生むものなのだろう。大切な相手に隠すつもりはないけれど『自分だけの私的領域』を確保したいという欲求は、家庭・夫婦というプライベートの中に更に小さな自分だけのプライベートの場を築こうとするような営為なのかもしれないが……。

内戦で片足を切断された兵士「白靴下」を主人公とする『義足』という作品は、物語の最後の光景からどことなく『鏡』と似通った思考感覚を喚起される作品だが、切断された脚の代替となる義足の棒切れの存在感が際立っている。粗末な布の塊で自分の脚につないだ『義足の棒切れ』が存在することによって、自分自身の脚が既に存在しないことがより明確化される。

生まれつき膝の下から先だけが『真っ白』という白靴下は、左足を切断される前にも切断された後にも『異質性』を身体に抱え込む存在として描かれる。『不在の証明』としての棒切れと歩く度に棒から伝達される激しい痛み、黄熱病に罹患した白靴下はマンゴーを食べるために出かけて、左足の義足を地面に深く突き刺して抜けなくなってしまう。力いっぱい脚を引き抜くと義足だけが地面に突き刺さったまま残る。兵士の男が死んだ後にも地面に突き刺さった棒切れはそのまま残り、『人の骨』のように静かに時間に侵食されて朽ち果てていく。幻想的でエロティックな情景の描写と設定が魅力的な『モノクロウムの街と四人の女』、家庭生活での金銭感覚と世界の紛争・テロリズムをふとしたきっかけで結びつけてしまったことから生まれるヒューマンな苦悩を描いた『慈善』も短編としてはまとまっていて面白い。

『あなたが、いなかった、あなた』に収められた作品の中で一番長くて読み応えがあるのが、フランスに滞在したことのある平野啓一郎のフィクショナルな日記であるかのような体裁を取った『フェカンにて』である。『フェカンにて』の文体は少し硬質で話の流れが緩やかなので他の作品と比べると読みにくさを感じるかもしれないが、平野啓一郎の過去の作品である『葬送』『日蝕』を読んで彼の創作手法やテーマの定立、日々の仕事環境などに興味がある読者であれば興味深く読むことができるだろう。『フェカンにて』の主人公はフランスのパリに文化交流事業の名目で滞在する大野という小説家なのだが、大野が作中で書こうとする『フェカンにて』の主人公はKHというイニシャルを持つ私立大学生という設定になっていて『作中作(作品の中の作品)』の構成を取っている。

そのため、平野の読者は必然的に実在の平野啓一郎と作中の大野とをオーバーラップさせながら『フェカンにて』を読み進めることになるのだが、作品の中では『葬送』『葬儀』に、『日蝕』『太陽と月の結婚』にそれぞれタイトルが置き換えられている。小説というフィクションの形式をとっているので『フィカンにて』で書かれた小説家大野の人生遍歴や創作の意図がどこまで実際の平野に忠実に描かれているのかは想像の域をでないが、フレデリック・ショパンとウージェーヌ・ドラクロワの芸術と人生・交流を題材にした『葬儀』についての記述は実際の『葬送』にほぼ忠実に為されている。平野啓一郎の『葬送』は非常に重厚で長大な大作であるが、作品のクライマックスは天才音楽家フレデリック・ショパンのリアルな『死』の過程の描写、そして、ショパンの凄絶な死を取り巻いた複雑な人間関係の再現にあった。

『フェカンにて』で大野は『葬儀』で詳細かつ正確に描写することに努めたショパンとドラクロワの真摯な交遊と誠実な友情、最期の別れについて、以下のような創作時における考察を述懐している。芸術家として稀有な歴史的才能を相互に認め合い、個人的にも深い交友関係にあったショパンとドラクロワ、しかし、ドラクロワは然して重要とも思えない理由で危篤に近いショパンがいるパリを立ち去りノルマンディへの旅路に向かった。遂に、ドラクロワは敬愛するショパンの臨終の瞬間に立ち会うことができなかった。大野は『死に目に遭えぬと云うのは、所詮は已むを得ぬことである』と述べながらも、実際の歴史ではショパンの臨終に居合わせなかったドラクロワを、『創作の小説』では居合わせたことにしても良かったのではないかと思い悩んだ経緯について告白する。


ショパンの死は、題名にも見えている通り、当然に小説の最も重要な局面となる。その時に、そこに他方の主人公であるドラクロワが不在であると云う事が可能であるかどうか。彼ら二人の生は、必ずしも同じ軌跡を描く訳ではない。常に自由である。その過程で、幾度となく交わり、時に一本の線となる。しかし、終局に於いては、一方が絶頂に達する時、他方はその同じ高みに於いて必ず交わるべきではあるまいか。楽曲が最も昂揚した数小節へと至ろうとする時、それがただピアニストの右手にのみ委ねられて、左手が遊んでいると云う事が、果たしてあり得るであろうか。

また一つに、大野は、その不在であった理由を量りかねていた。彼がこの二人の交流に注目したのは、高校生の頃に学校の図書館で、カシミール・ウィエルジンスキの『ショパン』と云う本を読んで以来である。アルトゥール・ルービンシュタインの序文がついたこのポーランドの詩人による伝記は、悪名高いデルフィーヌ・ポトツカ宛の贋作書簡を大胆に資料として用いている為、今では評判が良くないが、それさえ注意して読めば十分に魅力的であり、彼はあんまり気に入っていたので、卒業前に借りたまま、到頭それを返さずに済ました。尤も彼以前の十年間にこの本を借りた生徒は皆無である。


『あなたが、いなかった、あなた』のp60-61より引用


こういった『フェカンにて』で示される創作活動にまつわるフィクショナルな思索や回想を読んでいると、再び『葬送』の関連部分にも目を通したくなってくるが、少し前に刊行された『決壊・上下』という現代日本を舞台にした長編小説のほうも近いうちに読んでみたいと思う。






■関連URI
平野啓一郎『葬送 第二部』の書評1:終わりなき「制作」に取り組む芸術家たちの生

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■書籍紹介

あなたが、いなかった、あなた
新潮社
平野 啓一郎

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