ジャック・ラカンの『現実界・象徴界・想像界』の視点から見た人間の欲望・言語活動と信頼関係の本質

S.フロイトに還帰しようとしたジャック・ラカン(1901-1981)は、『すべての人間は神経症者である』という命題を現実界を言語化することの不可能性の中に求めた。なぜ、人間は神経症(neurosis)と呼ばれる広義の精神疾患に苦悩するのかというと、『他者の不可知の内面』を推測する関係性の中で展開される『人間の欲望(desire)』が決して全的に充足されることがないからである。『不完全な欲望の充足』を求めざるを得ない人間の存在形式を前提とすれば、どんなに幸福な人生の外観を持っていても、どれほど素晴らしい成功と安心を獲得していても、人は潜在的な神経症者であり『欲望の抑圧』によって生じるトラウマ(自己否定の傷)から自由になることはできない。

ラカンの欲望(desire)とは『他者の欲望を欲望すること』であるが、確実に充足させられる生物学的な欲求(need)とは違って『自己完結性』によっては解消できない反復的・継続的な問題であり、人間の幸福実感を規定する基本条件である。大半の人間がトラウマを原因とする神経症症状に苦しまずに日常生活に適応できるのは、フロイトが『断念する術を心得れば人生も結構楽しい』と述懐したように、適度に現実界から目を逸らす忘却と諦観、視野狭窄(生活への集中)の技術を身に付けているからである。

『現実界』をありのままに直視すれば人間の心は精神病理に捕われることになるが、ここでいうラカンの現実界というのは無論、一般的な『知覚・体験される現実世界』のことではない。現実界とは『言語化・イメージ化することのできない欲望』が無限回にわたって反復する場所であり、どこまでいっても他者と同一化することのない『固有の私』が部分的(一面的)にしか体験できない現実のことである。『客観的な現実』そのものを人間が直接的に理解したり接触することはできず、現実界における出来事は必ず『言語』によって媒介されるが、他者に現実を伝達しようとする言語には『現実を部分的・断片的・概念的に切り取る機能』しか与えられていない。

『言語では現実を語ることはできない』『言語でしか現実を語ることはできない』のであり、人間は本質的に『他者との関係性』において言語的存在なのである。こう書くと『言葉にしなくてもお互いを理解できる関係性はある』という反証もでてくるが、他者の心情の共感的・同一化的な推測の部分的妥当性はあり得ても、『自己の現実』『他者の現実』の全面的な同一化と完全理解はあり得ないということである。細部における現実界のニュアンスは、いずれにしても言語化のプロセスを経由せざるを得ない。現実界の情動的苦悩に『言語化の能力』『他者の理解(推測的共感)』が追いついてこなければ、人間は『自分のことを誰も分かってくれない・私は孤独な存在だ』と思い込み不適応状態に陥ったり逸脱行動に及んでしまうこともある。『恋愛・友情・信頼』という人間関係をより強固に接合する情緒の働きは、究極的には『現実界の不可能性』を補完するものであり、“私”の現実を理解してくれる誰かがこの世界に存在することを概念化してくれるものである。

配偶者・恋人・親友・家族などさまざまな『言語の記号』『共感・共有の連鎖(実体験による確信)』によって、私たちは現実界を忘却して断念する技術を獲得するわけであるが、現実界に対する防衛が不完全だったり実存的な孤独にセンシティブだったりする人の場合には、『記号の欠落(孤独感・疎外感の切実化)』によってアイデンティティ拡散による精神病理が形成されるリスクもある。精神疾患や病的心理の状態では『解決不可能な欲望の原型』が語られることが少なくないが、統合失調症の代表的症状である幻覚・妄想の陽性症状においても、『他者が自分に潜在的な敵意(悪意)を持っていないことの証明』という原理的に解決が不可能な欲望がむきだしの形で語られることになる。精神分析では脳の神経学的・内分泌的な障害については言及しないが、他者を信頼するか信頼しないかという問題は『科学(立証)の問題』ではなく『信念(確信)の問題』であり、行動の履歴(実績の積み重ね)や言語ゲーム(経済ゲーム)以上の形で他者の信頼性を証明することは原理的にできない。

人間は多かれ少なかれ他者を信頼しなければ『機能的な社会生活』『安定した精神生活』を送ることができないが、他者を信頼するための要因の多くは『言語活動』に依拠しており『言語的な約束・感情表現・意思表明』『他者(社会)に対する行動・取引・実績』が補足していくという形式を取っている。『言葉の内容』『行動・現象』によって確認すること、原理的にはその繰り返しによって『人間の信用・信頼』が担保されているというシンプルな仕組みである。

しかし、人間の『言語(ことば)』『内面(意図)』は絶えず食い違う可能性がある、つまり、人間は意図的に他者に嘘をついたり騙したりできる『潜在的・形式的な可能性』を留保している。そう考えると、『自己と他者の信頼関係』を絶対的なものとして認識する共有感覚はあっても、信頼の客観的な証明手段はこの世界には存在しないので、『他者の言語に隠された真意(意図)』を疑おうと思えば幾らでも疑うことができる。私たちは『他者の現実』を前後の文脈や過去のやり取りから合理的に推測することはできても、『他者の現実』を直接的に知覚することはできないからである。

他者への不信や懐疑が正常ラインを超えれば、通常の社会生活や人間関係に適応することが困難になってくるが、大半の人は『他者の言語に隠された真意(意図)』を徹底的に追求することを自然に断念することで『適度な他者との距離感・安心できる関係性のあり方』を掴み取っている。それは経験的に『人間関係の相互性』を学習することで、自己の好意(悪意)には他者の好意(悪意)が返ってきやすいことを知るからであり、そういった『好意の返報性・社会的信頼の慣習』に違背する不誠実・無責任な人から遠ざかろうとする自己防衛本能が働くからである。人間は『他者の言語に隠された真意』を必要以上に探求しようとしなくても、『信頼できる他者・安心できる相手』を普段の言動や対応を見ながら大まかに取捨選択することができるのだが、良好だった人間関係が崩れかけた時には強迫的に『言語に隠された真意』を読み取ろうとするようになる。

相手の言葉や行動だけでは『相手が本当は何を考えているのか分からない(相手の真意を知りたいのにそれを知ることができない)』と思い始めた時には、人間関係における信頼はかなり揺らぎ始めていることが多い。また、精神的に依存している度合いの大きい相手(配偶者・恋人・家族)との言語ゲームで『不利な立場(自分だけが相手の真意を推測する立場)』に立たされ続けると、人間の心理は自己否定的あるいは将来悲観的な方向に傾きやすくなり情緒面の精神障害が発生するリスクが高くなる。ジャック・ラカンは『言語』を本質とする人間の精神構造や欲望のあり方について深く考えた精神分析家だが、人間は『鏡像段階(生後6~18ヶ月)』を経ることによって言語に依拠する主体性を獲得することになる。乳幼児は鏡に映る自己像を『他者の像』から『自己の像』へと転換して認知するようになるが、鏡像段階は『分断された身体』を身体的統一性や自我意識に統合していく発達段階であり、『他者とは異なる唯一の自己(継続的な統一体としての自己)』を鏡像に見出すことによって主体性が形成されていく。

自分と他者が分かれていない自他未分離な発達早期の乳幼児は、幻想的な母子一体感に自己の生存と保護を全面的に依存しているが、鏡像段階による『自我・自己の発見』によって自分は母親とも父親とも異なる独自の存在であることをぼんやりと認識してくる。ラカンはこの自我の発見のプロセスをイメージ(イマージュ)に支配される『想像界』からの離脱といった形で理解するが、自我を意識する必要がない想像界では、自己の生存や活動の全責任を母親(保護者)に全依存して逃れることができる。

しかし、人間はいずれ『父の名』によって幼児的な全能感を去勢されることになり、『自己の現実における限界・主体的な責任』に直面させられるようになるのだが、この段階をフロイトは『エディプス期(男根期)』と呼んだ。精神分析ではエディプス・コンプレックスの克服によって適応的・自立的な精神発達が促進されると考えたが、ラカンはエディプス期を『言語の介入が本格化する段階』と解釈して、人間の主体性(自我意識)は言語によって確立されるとした。ジャック・ラカンは、人間の精神活動が展開される領域として以下の3つの領域を仮定した。

現実界……全体の言語化・イメージ化ができない客体としての現実世界。抑圧された無意識的願望が反復する世界。

象徴界……『言語』によって構成される“他者”の存在する世界。言語ゲームで『欲望』の充足を求める領域。

想像界……『イメージ』によって構成される“他者”の存在しない世界。自己完結的な『欲求』の充足が可能な領域。

母子関係(保護的な取り扱い)によって依存的に生物学的な『欲求(need)』を満たされている乳児段階を過ぎると、人間は鏡像段階によって自我を獲得して他者への『欲望(desire)』を抱くようになる。鏡像段階以降の自我意識を持つ人間は、『想像界』における自己完結的な欲求の世界だけでは十分な満足を得ることができなくなり、『想像界のイメージ』を『象徴界の言語』に置き換えることで、自己の意志や感情を他者に伝達して『他者の承認・共感』を求めるようになってくる。『欲求(need)』から『欲望(desire)』への転換によって言語活動は促進され、他者とは異なる“私(自我)”には自律性と自己責任が求められるようになる。象徴界における『言語』は不完全な媒介手段ではあるが、『私の内的世界(想像界)』を他者に対して写像するための唯一の手段であり、他者に自己の存在や内面をアピールするためには象徴界(言語の世界)に参入する他はない。

主体の意志や感情は『言語』によって表象されるが、『言語の不完全性』によって他者とのディスコミュニケーション(相互理解の失敗)が起こることがあり、『言語化できない現実』の存在によって現実界におけるトラウマが形成されるリスクがある。人間のコミュニケーションの限界は、『主体(私)』と『主体(他者)』の間で直接的コミュニケーションが成立しているような共同幻想が破れた時に明らかになってくる。それは結局、人間のコミュニケーションの本質が『主体の言語』と『主体の言語』との間で展開される間接的コミュニケーションであることを意味しているが、『主体(私・他者)の内面世界』を代表(表象)する言語を捨象したコミュニケーションというのは想定しにくい。

私たちの精神活動や人間関係の多くは『言語として構造化された無意識(言語によって表象される流動的意味)』に支配されているが、そのことに自覚的になることは精神病理への危険な接近を意味することになる。『自己』と『他者』との安定的な信頼関係を上手く維持していくためには、『主体の言葉』を『主体の実質(心)』として素直に受け取れるような慣習的態度(経験知)が必要であり、良好な人間関係では『言葉と本心とのズレ』に意識的になることが少なくなる。

『言語として構造化された無意識』に自覚的になるということは、『言語の裏に隠された真意』を探求したくなるということだが、人間が他者の内面(心情)を知る手段は言語とイメージ以外には存在しないのであり、『信頼関係』というものを突き詰めていくと『言語・イメージ・本心を同一化させる認知(相手の言葉や態度の背後にあるものを受け容れられること)』に行き着くことになる。相手の『言葉と本心とのズレ』を必要以上に意識しなくても不安を感じないような関係というのが信頼関係の本質であるが、そこには『ポジティブな相手の心理の推測・共感』という作用が絶えず働いている。『想像界と象徴界の結びつきの不完全性』を無条件に受容できるような関係が理想的な人間関係であるが……人間は完全かつ正確に言語化できない『自己の欲望』を必死に他者に伝達しようとする本能的欲望を持っており、『自己の内面・意図・イメージ』を自分の思っているような形で他者に正しく理解して貰えたと確信できるコミュニケーション成立の瞬間を求め続けているのである。






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■書籍紹介

生き延びるためのラカン (木星叢書)
バジリコ
斎藤 環

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