村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』の書評:“走ること”と“書くこと”を継続する原動力

村上春樹が『書く人』であることに加えて『走る人』であることを初めて知った。本書は、村上春樹が『走ること』について語りながら、自分の私生活と執筆にまつわる事柄を率直に振り返っている日記形式の随筆である。自叙伝的に村上が自分の人生と執筆のあらましをラフな言葉で語っていくのであるが、村上の私生活と作家活動の根底にはフィジカルに走り続けるという単純な反復活動があった。私は村上春樹の小説はすべてとは言わないがその大半に目を通してきているものの、村上春樹自身がどういった人物であるかどのような日常生活を送っているのかという部分に興味を向けたことは少なかったように思う。

作家と作品との結びつきに対する興味の向け方は千差万別であり、読者は創作物としての作品(小説・ノンフィクション)だけを楽しむこともできるし、作品を書いている作家自身のパーソナリティやプライベートに強い関心を持つこともできる。また、作家が『作品と離れた“私”』をどれくらい積極的に押し出してくるのかの強度も違う、著者近影で念入りにポーズと服装を決めた写真を公開することを好む人もいれば、一切の写真を著作に掲載しない人もいる。雑誌・テレビでいろいろな分野についての薀蓄や見識を発表したいという作家も少なくないし、創作意欲が衰えて評論家やコメンテイターのようになってしまう作家もいる。

村上春樹は基本的に『自身の写真・プライベート』を作品のカバー裏などに公開しないタイプの作家であり、割合熱心な村上春樹の読者であっても、村上自身の写真(肖像)を見たことがないという人は少なくない。本書では村上の写真が数点収められ、普段語られることのない村上の過去の履歴や人間関係がところどころでポツポツと語られているが、村上春樹の外観は作品世界に迸る強靭な才気溢れる創作力とは対照的にごくごく凡庸なものである。彼は作品においてもありきたりの生活の貴重さ、反復される日常の意味をテーマにしていることが多いが、ひとりの人間としての彼もまた基本的に『観念の人』ではなく『生活の人』であることが本書を読めば良く分かる。村上春樹も語っているのだが、作家には大きな括りとして『健全な肉体と節度ある生活を持つ作家』と『不健全な肉体と不摂生な生活を持つ作家』の二つがあり、前者は生活・実感の人として文を書くことになり、後者は観念・思索の人として文を書くことになるのだろう。

恐らく作家にも、小説や作品を書くことが楽しくて仕方がなかったり、『書かない人生』というのを想定できないような執筆に呪縛された人がいる一方で、ある程度の財産や地位をいったん築けばそれほど『書きたいという熱意』を沸き立たせられない作家もいるだろう。爆発的に売れてから作品に精彩を欠くようになってしまった作家というのは少なくないし、一生涯にわたって走り続けることが難しい以上に、一生涯にわたって書き続ける作業は難しいに違いない。しかも、一定以上の数の読者に『面白さ・情趣的な感動・新規性・斬新さ・知的興奮・問題意識』を与える作品を何十年にもわたって書き続けなければならないプレッシャーというのは並大抵のものではない。

いつまでも涸れない才能の持ち主というのはそうそういるものではない、大抵の人は不特定多数の期待という重圧の重石から何処かの時点で逃げたいと思ってしまうだろう、それは小説家であろうとノンフィクション作家であろうと漫画家であろうときっと同じである。インターネット上のブログにしても、読者やアクセス数を意識すると途端に文章が書けなくなるという人はいるが、『他者の期待・欲望』に応えるために何かをするということは、『趣味の行為』が『仕事の行為』へと変質することでもある。

人はいろいろな行為や言葉、努力、コミュニケーションによって『他者の期待・欲望』に応えようとする、それに金銭的な対価が加われば仕事になるわけだが、確固とした『生存上の必要性』に乏しい言葉や文章、エンターテイメントによって他者の期待に応え続けるというのは二重の意味でシビアな人生である。ある程度の部数が売れなければ人並みにお金が稼げなければ職業としての作家やアーティストとは通常見なされない、職業的地位と報酬水準という二重の位相において『物語を書くという行為』に人生を委託するのはリスキーな決断であるし、社会的名声と生活水準も大きな二極化のラインを描く。

作家や芸術家、歌手といったクリエイティブという形容詞が冠されることの多い仕事の大半には安定した所得の保障がないし、それを目指しているという段階においては『趣味なのか仕事なのか分からない』という宙吊りのアイデンティティ状態に晒される。『書く・描く・歌うという行為』は仕事なのか趣味なのか道楽なのか、その境界線は曖昧であり基本的に一般社会では『知名度・社会的承認・所得の有無』によってプロフェッショナルかアマチュアかが判定されることになる。ジャズ・クラブを経営していた村上春樹は野球を観戦しているときに、『小説家になりたいという野心』ではなく『小説を書きたいという内発的衝動』の啓示を受けたという。村上は初めバーの経営と執筆を両立させる兼業作家としてスタートを切り、純粋に書く行為を楽しんだ『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』を出版した後に、『もっと大柄な長編作品』を書くために店を畳んで専業作家になった。

自分にはより魅惑的で本質的な作品が書けるという確信があったとはいえ、二作しか公表していない段階で上手くいっていた飲食店の事業をやめて、専業作家になるというのは一つの賭けだろう。しかし、その分水嶺を越える飛躍的決断がなければ、『羊をめぐる冒険』や『ノルウェイの森』といった村上の作風を確立した作品は生まれなかっただろうし、村上が毎日走るという健康的な生活習慣を身に付けなければ『ダンス・ダンス・ダンス』や『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に内在する問題意識を照射することが難しかったのではないかと感じる。
村上が専業作家になって走り始めたきっかけは、朝から晩まで時間を忘れてタバコを吸いながら原稿を書くという不健康な生活習慣を改めるためだったが、その後は朝の5時前に起き夜の10時には寝るという規則正しい生活リズムが定着したという。

作家になった村上春樹は生活パターンを『開かれた生活』から『閉じた生活』に一新したというが、種々雑多な他者と交流して夜の時間帯に働いた『開かれた生活』は村上にとって生きた世俗の経験を培うための学校だった。ランダムに他者とふれあう学校を卒業した村上は、規則正しい生活の中で自己の内面と向き合いながら『書くこと・走ること』に専念する『閉じた生活』に足を踏み入れたわけだが、彼自身は元々社交的な性格ではなく『一人でいること』に安らぎと意義を感じられる人物であるようだ。村上はここで人生の優先順位と他者との関係性について興味深い発言をしている。こういった感覚は、私も含めてブログやサイトで自分の考えや論評を公開しているような人たちに相通じる部分があるのかもしれない。



ただ僕は思うのだが、本当に若い時期を別にすれば、人生にはどうしても優先順位というものが必要になってくる。時間とエネルギーをどのように振り分けていくかという順番作りだ。ある年齢までに、そのようなシステムを自分の中にきっちりこしらえておかないと、人生は焦点を欠いた、めりはりのないものになってしまう。まわりの人々との具体的な交遊よりは、小説の執筆に専念できる落ち着いた生活の確立を優先したかった。

僕の人生にとってもっとも重要な人間関係(リレーションシップ)とは、特定の誰かとのあいだというよりは、不特定多数の読者とのあいだに築かれるべきものだった。僕が生活の基盤を安定させ、執筆に集中できる環境を作り、少しでも質の高い作品を生み出していくことを、多くの読者はきっと歓迎してくれるに違いない。

それこそが小説家としての僕にとっての責務であり、最優先事項ではないか。そういう考え方は今でも変わっていない。読者の顔は直接見えないし、それはある意味ではコンセプチュアルな人間関係である。しかし僕は一貫して、そのような目には見えない「観念的な」関係を、自分にとってもっとも意味あるものと定めて人生を送ってきた。



村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』,p58-p59



自分の文章や作品、意見を介在した『コンセプチュアルな人間関係』なんて、インターネットが普及する前には一部の特権的な作家・芸術家・芸能人・学者・評論家だけが意識するものであり、大多数の一般人には『コンセプチュアルな人間関係』を意識する時間も必要もほとんどなかった。インターネットが登場して作家でもアーティストでもない一般の人たちの間にも『リアルな人間関係』とは異なる『コンセプチュアルな人間関係』が生まれたことは興味深い現象であり、ブログやSNSに限らず人がウェブで何かの文章やメッセージを書き連ねる動機の多くは『コンセプチュアルな人間関係』に向けられている。

『(目に見えない相手に向けて)書くという行為』は本質的にコンセプチュアルな人間関係を前提として行われるものであり、特定個人に向けて書く手紙やメールを除けば、『書くという行為』は独り語りのようなものであっても不特定多数の読み手のまなざしを意図して書かれることが多いのではないだろうか。特定の誰かとのリレーションシップの多くは情緒的次元のものであり、不特定多数の相手(読み手)とのリレーションシップの多くは観念的次元のものであるが、広く伝えたい物語や主張を持っている人の多くは『書くという行為』に特別な優先順位を与える。それは無論普遍的な欲求では有り得ないが、プロフェッショナルにせよアマチュアにせよ『書くという行為の面白さ・興奮感覚』に取り付かれる人はいつの時代にも一定の割合でいたに違いない。

単純に考えても『特定の相手と話すという行為』は一時的かつ私的な傾向を持ち、『不特定多数の相手に向けて書くという行為』は継続的かつ公的な特徴を持っているが、数十人単位を超える規模の人々に何かの物語や理念、メッセージを届けようとすれば『コンセプチュアルな人間関係』に依拠して書いたり歌ったり制作したりする他はないということになる。直接的に特定の相手に話しかけるという行為はその相手との関係性を深めるという作用を持つ(その典型的成果として恋愛や友情、結婚などがある)が、いくら一人一人に向き合って真剣に話し続けても『同一の内容・理念・物語』を数百人、数千人、数万人へと伝達するのは物理的に不可能である。だから、そういった『不特定多数の人々への自分の言葉の伝達・共有』という内的衝動を抑えられない人は、必然的に書くか歌うか制作するかという創作活動に駆り立てられていく、あるいは言葉(物語)の伝達にこだわらない人であれば政治家や経営者といった集団組織の運営行為に携わることで『創作』が『政治的権限』へと置き換えられる。

さて、本書のタイトルには『走ることについて語るとき』というフレーズが含まれているが、本書では村上春樹の日課になっているジョギング、目標となっているフル・マラソンやトライアスロンについてさまざまな角度から日記的記述と心理的述懐が為されている。村上春樹にとって『書くこと』と『走ること』は切り離すことができない相即的なものになっているが、これは村上的な意味において『より善く生きるため』に集中力と持続力を切らすことができないという動因に裏付けられたライフスタイルである。人間が長い期間にわたって意欲的に働き続けるためには、あるいは精力的に書き続けるためには、コンスタントに自分の健康状態と基礎体力を維持していなければならない。



思うのだが、たとえ豊かな才能があったとしても、いくら頭の中に小説的アイデアが充ち満ちていたとしても、もし(たとえば)虫歯がひどく痛み続けていたら、その作家はたぶん何も書けないのではないか。集中力が、激しい痛みによって阻害されるからだ。集中力がなければ何も達成できないと言うのは、そういう意味においてである。

集中力の次に必要なものは持続力だ。一日に三時間か四時間、意識を集中して執筆できたとしても、一週間続けたら疲れ果ててしまいましたというのでは、長い作品は書けない。日々の集中を、半年も一年も二年も継続して維持できる力が、小説家には――少なくとも長編小説を書くことを志す作家には――求められる。呼吸法にたとえてみよう。集中することがただじっと深く息を詰める作業であるとすれば、持続することは息を詰めながら、それと同時に、静かにゆっくりと呼吸していくコツを覚える作業である。その両方の呼吸のバランスがとれていないと、長年にわたってプロとして小説を書き続けることはむずかしい。呼吸を止めつつ、呼吸を続けること。

このような能力(集中力と持続力)はありがたいことに才能の場合と違って、トレーニングによって後天的に獲得し、その資質を向上させていくことができる。毎日机の前に座り、意識を一点に注ぎ込む訓練を続けていれば、集中力と持続力は自然に身についてくる。これは前に書いた筋肉の調教作業に似ている。日々休まずに書き続け、意識を集中して仕事をすることが、自分という人間にとって必要なことなのだという情報を身体システムに継続して送り込み、しっかりと覚え込ませるわけだ。

そして少しずつその限界値を押し上げていく。気づかれない程度にわずかずつ、その目盛りをこっそりと移動させていく。これは日々ジョギングを続けることによって、筋肉を強化し、ランナーとしての体型を作り上げていくのと同じ種類の作業である。刺激し、持続する。刺激し、持続する。この作業にはもちろん我慢が必要である。しかしそれだけの見返りはある。


村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』,p108-p109



本格的に身体を壊して病気になったり動けなくなったりすれば、どんなに優れた天賦の才能を持っていても、それを力強くドライブする持続力に致命的な欠損が生じることになる……実際に走るか走らないかは別にしても、大多数の人間にとって人生というのは短く見積もっても60年以上は続くフル・マラソンであり好むと好まざるとに関わらず、何とか走ったり歩いたりしてゴールにまで向かわなければならないのである。

マラソンでなくても長い距離を走り続ければ、心臓の鼓動が速くなったり呼吸が苦しくなったり筋肉が痛くなったりして、途中で走るのをやめたいという誘惑に駆り立てられるし、普段走っていない多くの人はマラソンを休まずに走り抜けることはできないだろう。でも、途中でのんびり歩いたり休憩したり日にちをかけたりすれば、誰でもフル・マラソンをとりあえずはゴールすることができる。村上春樹のように休み無く走り続け書き続けることを習慣化することは容易ではないが……『走ること』を人生のメタファーとして捉えるならば、途中で歩いたり休んだり眠ったりしながらゴールする超長距離マラソンと解釈すると、何となくゴールできるのではないかという楽観的な気持ちにもなる。

本書の6章では『少なくとも最後まで歩かなかった』という表題になっているが、最後まで歩かずに走り続けるような持続力とエネルギーに満ちた人生を突き進んでいくことはなかなかに難しい。時には自分に大きな負荷をかけて厳しく追い込むことが必要なこともあるが、その時には『肉体の強化』と『精神の調練』のバランスを注意深くとっていくしかないだろう。そういった鍛錬や強化というのも、自分なりの目標を設定して行えばかなり遣り甲斐のある面白いチャレンジになってくる。

肉体を酷使して走るという行為を散発的に楽しむ人は多いし、肉体に負荷をかけて毎日歩くという行為(ウォーキング)を健康法の実践として楽しむ人もまた少なくないが、本書を読み終えると普段は『走るのなんかきついだけで面倒くさい』と思っているような人でも何となく普段着のままで走り出したくなるかもしれない。

人間の人生の喜びや充実には一定の比率と強度で『自分に見合った負荷』が必要なのかもしれないし、『自分にとっての目的意識』を見失うことは人をとても不安な気持ちにさせるものである。だから、多くの人は途中で歩くことはあっても、走ること自体はやめないのではないだろうか。村上春樹は肉体的には大きな負荷がかかる長距離を走ることを『それほど苦痛ではなかった』と語り、好きなことは自然に続けられるし、好きではないことは続けられないように人間はできているとしているが、好きなことが嫌いになったり嫌いなことを好きになったりしながら、人は長い長い道のりを走り続けることになるのだろう。






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■書籍紹介

走ることについて語るときに僕の語ること
文藝春秋
村上 春樹

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