言論・表現の自由と公共の福祉による人権の制限1:個人の自由(権利)と主体的倫理のバランス

インターネット上の有害情報から青少年を保護する目的を持った『青少年ネット規制法』が衆院を通過して『言論・表現の自由』を巡る議論が活発化しています。最近の日本のウェブやマスメディアでは、精神的自由(言論・表現・思想信条の自由)とアクセスの自由(知る権利)についての意見を目にする機会が多いですが、日本では自然権に由来する個人の自由権(自由主義)よりも社会秩序(公序良俗・公共の福祉)を優先すべきだという意見も少なくありません。

国家が強制力のある制度や法律によって『個人の自由』を規制するには、具体的かつ現実的な『他者の自由・権利の侵害』が想定されていなければなりませんが、判断能力・責任能力が未熟な青少年のネット規制(フィルタリング)は例外的な教育的・保護的配慮の元に情報規制が認められる可能性があります。国民の安全や健康を守るために国家(政治)がどこまで個人の生活行動に干渉して規制すべきなのかという判断は、『自由主義的(個人主義的)な価値観』『保護主義的(共同体的)な価値観』のバランスによって導き出される判断ですが、自由な行動の責任を取れない未成年者の場合には保護主義(行動の規制・権利の制限)による対応に一定の合目的的な説得力が生まれます。

今回、衆院を通過した青少年ネット規制法は、『国(政府)が有害情報の認定に関与しない・民間の自主規制(情報の評価)とフィルタリングが中心・親の許可によって子どものフィルタリングを外す選択肢がある』という内容になっており、国(政府)による事前検閲や強制削除といった情報規制の色合いは殆ど無くなっています。国(政府)による強制力のある青少年保護のためのネット規制を望んでいた人には不満の残る内容、言論・表現の自由を重視して国が情報の価値判断に関与すべきではないという人には妥協可能な内容になっていると思います。

現段階では、民間の自主規制・努力義務に重点が置かれる規定となっていて、一般ユーザ・ISP(サーバ管理者)に直接的な影響の出る情報規制はほとんど導入されない流れになっています。一方で、『青少年保護の枠組み(例外的な保護規制・教育的配慮)』とは別に、ウェブ上の有害情報や誹謗中傷、不快度の高い表現に対してもっと規制(外的な秩序形成力)を強化すべきだという声もあり、ウェブ上の言論・表現の自由を巡る論点は多面的な様相を見せ始めています。青少年に対するインターネット規制やフィルタリングの問題については過去に幾つかの記事で取り上げたので、今回は立憲主義や法哲学の視点から自由権(基本的人権)と法規制について少し考えてみたいと思います。

日本では『言論・表現の自由』の定義や価値についてのコンセンサスが得られていない状況がありますが、日本国憲法21条が保障する言論・表現の自由は『言論の検閲(事前規制)の禁止』を前提としています。この憲法の条文は、精神的自由の発露である表現活動(意見や主張・出版や報道・コミュニケーション)そのものを、国家(政府)が事前に検閲して規制することを禁じる規定であり、思想信条・良心・信教・出版(情報公開)の自由とも関係しています。言論・表現の自由は過去の人類の歴史を鑑みて、政治権力による言論統制(思想統制・情報規制)を不可能にする目的を持って制定されている自由権ですが、現代のインターネットでは国家の政策的意図(情報統制の懸念)とは無関係な『個人の権利対立・精神的なダメージ』を根拠にした言論・表現の自由の部分的な規制(誹謗中傷のシステム的な排除)が議論されていることもあります。

現代日本では国家(権力)と国民の間の権威的な主従関係を意識する場面が減ってきたこと、国家が国民の精神的自由(思想信条・価値観)を侵害しない戦後の歴史が長くなってきたこともあり、『個人間の権利衝突・言葉の表現に対する感受性(傷つきやすさ)の違い・コンテンツの有害性に対する認識の違い』を根拠にしたインターネットの情報規制(有害情報の検閲や削除・有害情報公開者の処罰)に賛同する意見も見られるようになっています。

自由権や人権の観点からは、表現行為(言論活動)の事前規制や検閲行為は認めるべきではないと思いますが、日本国憲法の規定する表現・言論の自由は『国家対個人の図式(国家の言論統制からの自由)』に偏っていたり、『インターネット時代の到来』を想定していなかったりといった限界もあります。個人が自分の思想(知識)・主張・価値観を公開したり他者とコミュニケーションしたりする自由そのものは、現実社会でもインターネットでも事前規制(検閲)されるべきではないと考えますが、『他者の自由(権利)・名誉・プライバシーを侵害する表現行為』については、現在の法体系でも『公共の福祉(自己と他者の公正な権利保護)』を前提とする刑法・民法・著作権法によって規制されています。

言論・表現の自由は無制限な自由権というわけではなく、具体的に他者の自由(人権)と名誉、物理的安全を侵害する言論・表現は『公共の福祉』によって制約されます。個人の基本的人権(自由権)は原則的に不可侵のものですが、不可侵である『自己の人権(自由)』『他者の人権(自由)』の衝突を調整する公平原理として『公共の福祉』『司法権(刑法を根拠とする刑罰による自由の制限)』があります。現代社会で立憲主義が保障する人権・自由権とは、『他者の自由(権利)を侵害しない限りにおいて、自由に行動・発言することができる権利』であり『刑法に違反して有罪判決を受けない限り、行動・身体の自由を不当に奪われない権利』ですが、言論・表現の自由の場合には個人の受け取り方や法的対処の有無によって法的責任が変わってくるという問題もあります。

自由権と基本的人権は『公共の福祉』によって制限されますが、公共の福祉というのは通説では社会全体(多数者)の利益や国家全体の秩序という意味ではなく、『他者危害原則(他害行為禁止の法理)の実現』を目的とした『人権相互間の調整原理(公平原理)』のことです。国民個々人を本人の意志・思想を無視した社会全体の道具としない立憲主義に基づく憲法は、西欧の啓蒙的な近代思想の成果であると同時に、ヘーゲル哲学が演繹した『絶対精神(国民国家の必然的な発展プロセスとその倫理性)』がもたらす全体主義(個人の抑圧)のリスクを回避するための仕掛けを持った基本原則です。

つまり、第二次世界大戦後の惨禍を踏まえた近代国家では、『個人の自由(基本的人権)』の不可侵性を高めることで、国家(全体)が国民(個人)の生命・身体・思想・財産を合法的に侵害(コントロール)する危険を抑止したわけです。その一方で、『共通の価値規範・一元的な道徳教育・義務的な社会奉仕』が衰退して、『特定の価値観(善悪観)の客観的優位性』を社会的(間主観的)に確認しにくくなったので、個人間の感情対立(常識のズレ・道徳的な不満)が表面化しやすくなった部分もあります。


第11条(基本的人権の普遍性・永久不可侵性・固有性)
国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる。

第12条(自由及び権利の保持責任と濫用禁止)
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う。

第13条(個人の尊重・幸福追求権・公共の福祉)
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。


公共の福祉は基本的人権の制限基準ですが、全体の公益(国益)や公共の秩序(多数派の価値観)によって『個人の自由・権利』を一方的に制限して良いという集団主義的(外在制約的)な基準ではなく、『個人の自由・権利』を保護する目的を持つ個人の権利対立の調整原理として認識されています。過去の最高裁の判例では、『個人の人権(自由)』よりも『社会全体の利益(秩序)』を優先する美濃部達吉の一元的外在制約説の基準が採用されたこともありますが、現在では『個人の人権(自由)』は『他人の人権(自由)の侵害』か『個人の主体的倫理(自己規制)』によってしか制限されないとする一元的内在制約説が通説となっています。






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