聖徳太子の『三教義疏』が説く勝鬘教の捨身思想と古代日本における怨霊信仰の影響力

過去の歴史記事の続きになりますが、武断派としての横顔も持つ聖徳太子は、新羅に525年頃に侵攻された任那(加羅,369-562)の日本府(内官家,うちつみやけ)を奪還するために、600年と602年に新羅征討の軍事活動を起こしました。562年に、残っていた任那の利権を完全に失った欽明天皇が必ず内官家を回復するように遺言して死んだように、古代日本の天皇家にとっては、任那(加羅・伽耶)はかなり重要な領地あるいは特殊なこだわりのある地域だったようです。しかし、聖徳太子の新羅征討は朝鮮半島に軍隊を送る前に中絶します。602年の新羅征討計画では、聖徳太子の実弟の来目皇子(くめのおうじ)を総司令官として2万5千人の軍勢を送ろうとしましたが、九州の筑紫で来目皇子が病死した為に新羅遠征は中断されました。

聖徳太子以前にも蘇我馬子によって暗殺された崇峻天皇も、591年に任那奪還のための新羅遠征計画を立てていました。崇峻自身が暗殺されたことにより新羅遠征は取りやめとなりましたが、古代の大和王権の朝鮮半島南端(任那)に対する領土的固執の強さを窺わせるエピソードです。聖徳太子も皇族の一員ですが、古代の皇族はかつて朝鮮半島に領有していた任那日本府の回復を悲願としており、任那に勢力を伸ばす新羅を敵視していました。天智天皇までの大和王権は、遂にその念願を果たすことは出来ませんでしたが、天武天皇の時代になってからは『唐(中国)の軍事的な拡大戦略』に対抗するため反新羅から親新羅への外交方針へと転換します。

聖徳太子の最大の功績は、地方豪族が群雄割拠していた日本を『中央集権的な法治国家(律令国家)』に改変する足がかりを作ったこと、国家の基本制度を確立する中で『日本国(大和朝廷)の自主独立性』を中国(隋)や朝鮮半島に明確に示したこと、『国家鎮護を目的とする仏教信仰』を日本に根付かせるために四天王寺や斑鳩寺(法隆寺)などの寺院を建立したことです。しかし、聖徳太子が病没すると太子の子・山背大兄王(やましろのおおえのおう,?-643)は、朝廷の有力豪族である蘇我入鹿と対立して殺害されることになります。聖徳太子の子孫一族は、結局、蘇我氏によって悉く打ち滅ぼされますが、山背大兄王は軍勢を集めなおして徹底抗戦すれば蘇我氏に勝利できる可能性もあったと言われます。

しかし、聖徳太子と同じく仏法を篤く敬っていた山背大兄王は、敢えて、武力による闘争を選ばずに蘇我入鹿に自分の生命を潔く与えてやったという側面があります。山背大兄王は、蘇我入鹿の襲撃を受けて『われ、兵を起して入鹿を伐たば、その勝たんこと定し。しかあれど一つの身のゆえによりて、百姓を傷りそこなわんことを欲りせじ。このゆえにわが一つの身をば入鹿に賜わん』と語ったとされますが、これは(本人自身の言辞ではない可能性も多分にありますが)聖徳太子の『三教義疏(さんきょうぎしょ)』の一つ勝鬘教(しょうまんきょう)の「捨身行」に依拠した振る舞いとも解釈できます。聖徳太子の著作と言われる『三教義疏(さんきょうぎしょ)』とは、法華教(ほけきょう)、勝鬘教(しょうまんきょう)、維摩教(ゆいまきょう)の三教の注釈書のことですが、勝鬘教で最も重視されている教えは『捨身行』です。

勝鬘教の説く捨身行とは、端的には『大慈悲心をもって他人のために死ぬこと』ですが、太子が建立した法隆寺にある国宝・玉虫厨子(たまむしのずし)の彩色画のモチーフは、釈迦本生譚(ジャータカ)にある『捨身飼虎(しゃしんしこ)』『施身聞偈(せしんもんげ)』になっています。ジャータカというのは釈迦が前世で積んだ功徳の逸話を集積したものであり、捨身飼虎と施身聞偈というのは釈迦が行った捨身行のことです。捨身飼虎とは、苦行に精励していた釈迦が、飢えた虎のために自分の身体を食糧として差し出したという捨身行であり、施身聞偈というのは、仏法の精髄を示し仏の功徳を讃美する言葉である『偈(げ)』を知るために、釈迦が悪鬼に自分の生命を差し出したというエピソードです。

勝鬘教の捨身思想では、『自分自身の生命・身体・財産』を他人のために進んで喜捨することで、悟りを開き一切の苦悩や迷いを克服した仏陀になることが出来ると説きますが、聖徳太子の子の山背大兄王も蘇我入鹿に対して、正にこの利他的(自己否定的)な捨身行を誠実に実践したと見ることができます。仏教経典の勝鬘教の重要教義である捨身は、世界の他の宗教にはまず見られない『無抵抗主義(絶対平和主義)・自己犠牲精神・子孫繁栄の否定』などの要素が内在しており、日本の伝統的な『和の精神』と合わせて『捨身』は極めて利他的で非攻撃的であり、特異な思想であると言えます。

涅槃寂静の悟り(解脱)を目指す仏教が、キリスト教やイスラム教などの世界宗教と比較して、いまいち影響力をもてなかった理由として、『捨身の思想』に代表される徹底した利他主義の要素があるかもしれません。キリスト教やイスラム教は博愛主義を掲げながらも『家族愛の肯定や共同体の繁栄』といった利己主義を肯定する部分があり、仏教と比較すると『共同体(宗教・家族)のための戦争』を正当化するような現実的合理性があります。

そもそも、一切皆苦を前提とする仏教の捨身行や即身成仏のような『自分で自分の生命を投げ出す修行』を功徳として認めるような教義が、人生(生命の連鎖=輪廻)を肯定的に解釈する他の世界宗教にはありませんから、涅槃寂静を目指す自己犠牲が徳になるという発想は生まれようがないでしょう。しかし、涅槃寂静(絶対的な静寂)の彼岸を目標とする仏教では、煩悩を完全に断ち切った状態としての『死』がイメージされやすくなり、そういったペシミスティック(悲観的)な抹香臭い要素は、俗世で何とか生き抜こうとする一般の人々を遠ざけてしまい不人気になりがちです。四法印の『一切皆苦』や『諸行無常』は確かに真理の一片ではあるのですが、どうしても『現世の生そのもの・何かに執着せざるを得ない人生』を否定的に見る感覚がつきまといます。仏教にはキリスト教の『原罪』の観念とはまた異なったある種の重苦しさ、現世における諦観があり、あるいは、努力して手に入れた成功や快に対する虚無感(無意味さ)を誘ってしまう部分があります。

聖徳太子はもっとも身分が低い妻であった膳部妃(かしわでひ)と共に合葬されており、『殯(もがり,遺体を墓に埋葬する前に棺の中で一定期間にわたって安置しておく宗教儀式)』の期間が一ヶ月未満と非常に短くなっていたといいます。古代の王朝では、身分が高貴な人であればあるほど殯の期間が長くなり、天皇や皇子では一年以上の期間にわたって殯が行われることも少なくなかったといいますが、聖徳太子の殯が何故異常に短かったのかについては、太子暗殺説や政治謀略説、膳部妃との心中説など様々な説があります。聖徳太子は『日本書紀』などの正史では、病死(自然死)を遂げたということになっていますが、殯の期間の短さや膳部妃夫人との合葬など、標準的な皇族の葬礼とは異なる点があり何らかの謀略に巻き込まれたか捨身的な自殺(心中)をしたのではないかという見方もあるようです。

梅原猛氏は、著書『隠された十字架-法隆寺論』の中で法隆寺を聖徳太子一族の鎮魂の寺として位置づけていますが、古代日本のアニミズム(精霊崇拝)から発展した怨霊信仰にこだわっている逆説の日本史シリーズの井沢元彦氏も『“徳”の付く諡号(しごう)』からの類推で、聖徳太子は非業の死(自殺)を遂げた怨霊であるとしています。“徳”の付く諡号を持つ聖徳太子の死の真相は、未だ実証学的に確認されたわけではありませんが、井沢氏の『逆説の日本史2 古代怨霊編』によると、徳の付く諡号を持つ6人の天皇すべてが怨恨や無念を残す異常な死に方(古代信仰で怨霊になると恐れられていた死に方)をしていたり、天皇に相応しくない不徳な行いをしたり屈辱を受けたりしているようです。

その6人の天皇というのは、『第36代孝徳天皇・第48代称徳天皇・第55代文徳天皇・第75代崇徳天皇・第81代安徳天皇・第84代順徳天皇』ですが、崇徳天皇や崇道天皇(早良親王)などに代表されるように“祟(たたり)”を連想させる“崇”の文字を諡号に持つ天皇も無念や怨恨を残して死んだ人物が多いようです。孝徳天皇は中大兄皇子(後の天智天皇)の傀儡として使われ皇后を奪われて首都に置き去りにされるという屈辱を受け、称徳天皇は皇族ではない僧侶の弓削道鏡を天皇にしようと画策し、文徳天皇は排除しようとした藤原氏に逆に天皇位を簒奪され、崇徳天皇は保元の乱で政権を奪回しようとして失敗し『万世一系の天皇制を滅亡させる』という呪詛をかけて死にました。

しかし、『逆説の日本史2 古代怨霊編』の中でもっとも面白い仮説は、第38代天智天皇(中大兄皇子)・第39代弘文天皇(大友皇子)・第40代天武天皇(大海人皇子)の人間関係に関する考察であり、天武天皇が天智天皇の弟であるという通説を否定して、天武が天智の兄であるかあるいは、二人は兄弟ではないという非兄弟説を提唱しているところです。更に、天智天皇の死因が不明であり突如、京都の山科で沓(くつ)だけを残して失踪していることから、天智天皇が天武天皇に暗殺されたという異説を主張しているのですが、天智と天武の諡号の由来の考察はなかなか説得力があると感じました。

大海人皇子(天武天皇)は672年に壬申の乱を起こして、天智天皇の子の大友皇子(弘文天皇)を滅ぼすのですが、井沢氏はこれを天智系が天武系の血統に取って代わられた易姓革命として解釈しています。諡号の由来ですが、天智天皇の『天智』とは殷(商)の紂王が身に付けていた天智玉(てんじぎょく)という宝石の名前に由来しており、天智天皇とは暴君として知られる殷の紂王のメタファーになっています。一方、天武天皇とは乱世を武力で安定統治して帝王に贈られる『武』の諡号に由来しており、天武天皇とは殷の紂王を放伐して天下を掌握した『周の武王』のメタファーという説明が為されています。中国の古代史では、殷の紂が天命に背いた酒池肉林の悪政を行って民衆を苦しめたので、周の武王が紂王を打倒して易姓革命を実現していますが、日本でも天智(殷の紂王に由来する諡号)と天武(周の武王に由来する諡号)の間で易姓革命が起こったのではないかというわけです。

天智天皇-大友皇子と天武天皇の対立は、皇族・貴族の一族間の権力闘争という側面だけではなく、唐・新羅・百済との外交関係にどう対処していくのかという国際政略としての側面も併せ持っているので、一概に血統が異なる皇族間の易姓革命であるとは断言できないと思いますが、『天智天皇の死の不可解さ・天智天皇の陵(墓)の所在や殯の期間が不明であること・大友皇子が大海人皇子よりも先に即位しようとしたこと』『天武天皇の生年の怪しさ・仏式の祭祀から天武系が除外されていること・壬申の乱の真相』などを説明する仮説としては面白いと思います。

中臣鎌足(藤原鎌足)中大兄皇子(天智天皇)と協力して大化の改新(645)を成功させ、藤原摂関家隆盛の基礎を築きます。蘇我入鹿を殺害した大化の改進は、『天皇による中央集権体制』と『藤原氏による摂関政治(外戚政治の間接統治)』を生み出し、天皇家(男系)と藤原家(女系)が手を携えて日本の政治の主導権を握ることになります。藤原氏の独裁的な専横を快く思わない天皇家の皇子や家臣によって、藤原摂関家の政治的な影響力を削ごうとする動きも何度か起こりますが、平安時代までの貴族政治(公家政治)は藤原氏を中心にして運営されることになります。


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■書籍紹介
逆説の日本史〈2〉古代怨霊編 (小学館文庫)

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