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zoom RSS 議会制民主主義における“国民主権の実感”とロベルト・ミヘルスの“民主制の寡頭支配の原則”

<<   作成日時 : 2007/08/13 00:10   >>

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前回の記事では、政治統治における『貴種崇拝(伝統尊重)の原理』について取り上げましたが、人類が形成してきた集団国家(共同体)の歴史を振り返ると、少数者(君主・貴族・官僚)が多数者(大衆・人民)を支配するというのはおよそ普遍的な原則であり、アメリカ独立革命(1775)やフランス革命(1789)以前には、最高権力である『主権』は絶えず人民の手から遠い場所にありました。普通選挙が実施される民主主義国家でも、一般市民が『国民主権(主権在民)』を実感できる機会は少なく、その事が『自分が投票しても政治や社会は全く変わらない』という参政権放棄の誘引につながっていますが、確かに間接民主制の代議制では『自分が主権者であるという意識』は弱くなりがちな面があります。

民主政体の議会政治において、果たして実質的に無力な国民ひとりひとりは、本当に『国家の主権者』であり『国家の従属者』ではないのかという疑念がそこにはあります。フランス革命やアメリカ独立革命の歴史的意義は、市民ひとりひとりを『専制権力の従属者』から『国家権力の所有者(分有者)』に変遷させたことにあるわけです。しかし、実際の日常生活の中では、現代の民主的な先進国に生きる人であっても、権力を国家(政府)に委譲しているというよりも、権力に従っているという意識のほうが強いかもしれません。

人民主権(国民主権)の実感の弱さに対する『社会契約説』からの解答は、『“数千万分の1の力”へと希釈された国家主権』は確かにあなた(国民ひとりひとり)に帰属しているが、人民主権の原理は飽くまで『権力の起源としての個人(社会構成員)』に関するものであって、『自然状態から離れた個人(政府に全権力を委譲してしまった社会契約後の個人)』には実質的な権力は残されていないということになるのではないかと思います。

民主主義社会における国家権力の正統性は、人民(個人)の自然権の放棄とそれの政府(国家)への委譲によって支えられていますが、市民革命成立以前の専制主義(絶対王政)の権力の根拠は『王権神授説(唯一神の君主への権力の付与・承認)』にあると考えられていました。封建主義的な貴族政(領主制)の支配の根拠は、過去の昔から身分秩序と文化規範が継承され続けているという『伝統主義(慣習法・歴史性)』にあり、「永遠に繰り返される過去」を未来へと延長して安定した定常型社会を維持することが正しいとされていました。

実際の権力を行使する政治家(立法機関)や行政機関・司法機関も『国民による権力委託(国民との社会契約)』に究極的な根拠がありますが、民主主義国家における国家権力は、ジャン・ジャック・ルソー(1712-1778)の言う『一般意志(公共の福利・国民全体の幸福)』の実現を目指しているということになります。ルソーは主権者である人民の意志を『特殊意志(私利私欲を追求する意志)』『一般意志(公共の利益を追求する意志)』に分類し、有効な人民主権の政治体制(民主主義)を確立するためには人民全体の意志が一般意志に合致しなければならないとしました。

ルソーは、『人間不平等起源論』において私的所有権の発生(土地の区画と占有)が人間の社会的不平等の起源であるが、社会成立以前の『自然状態』にある人間は『自由・平等』な状態にあると考えました。『自然に帰れ』を一つのスローガンとしたルソーには、原始共産主義的な素朴な理想を抱えている側面が無かったとは言えないと思いますが、ルソーが最終的に理想としたのは人民の啓蒙教育による一般意志の形成であり、人民が政府や為政者(権力者)に一方的に従属することのない『統治者・被統治者の一致=直接民主制の実施』でした。イギリスの哲学者・政治思想家であるトマス・ホッブズ(1588-1679)は、著書『リヴァイアサン』の中で、国家(社会)のない自然状態の人間は『万人の万人に対する闘争(狼)』の状態にあり、『本能的・動物的な衝動(欲求)』に突き動かされる危険な存在だといいます。

人間は自己保存(生存)の可能性を高めて安全に生活するために、自衛的・略奪的な暴力を振るえる『自然権』を放棄して、自然権を合理的に制限する自然法に従うようになるというのがホッブズの考えです。ジャン・ジャック・ルソーは『個人の自由・平等』が存在する自然状態において、既に自然法がある程度機能しているとしたので、自然状態を悲観的に仮定しているホッブズよりも、むしろ自然状態を肯定的に捉えているジョン・ロックの社会契約説の考え方に近いと言えます。

ホッブズやロック、ルソーが理論モデルとして想定した『社会状態(政治機構がある状態)』に対立する『自然状態』は、国家権力や政治体制がアプリオリ(先験的)に与えられたものではなく、人間が人工的に社会契約で創造したものだという啓蒙的な直観を与えました。個別の人間が、所与の自然権を国家(社会)に全面的に委譲することで『正統な政治権力』が生まれるというロックやルソーの啓蒙思想は、人工的に新体制を確立しようとするアメリカ独立革命やフランス革命に思想的な基盤を与えたといえます。

ルソーは一般意志を発現する政治体制によって、自然状態にあった『自由と平等』をより良く守ることを最良の政治としますが、ルソーは代表者(議員)を選挙で選んで議会に送り込むようなイギリス流の議会政治(間接民主制)には批判的で、『イギリス人は自分を自由だとおもっているが、それは大きな間違いである。彼らが自由なのは議員を選挙する期間だけで、議員が選ばれるや否やイギリス人は奴隷となり、無に帰してしまう』と痛烈な皮肉を述べています。しかし、ルソーの民権思想に大きく影響されたフランス革命と、ロックの立憲主義や革命思想を取り入れた二つのイギリス革命(清教徒革命・名誉革命)を比較すると、『被害者の数・市民の暴動の激しさ・旧体制の破壊の程度』などの点において、イギリス革命のほうが最小限度の被害で、大きな議会主義政治の成果を上げた部分があります。

イギリス国内の内戦(イングランド・スコットランド・アイルランド)でもある清教徒革命(1642-1649)では、護国卿オリバー・クロムウェル(1599-1658)が、専制君主のチャールズ1世を処刑しましたが、この事によって絶対王権を適度に抑制し、議会と王権が共存できる立憲君主制の道筋を示すことが出来ました。無血革命とも呼ばれる名誉革命(1688)では、議会に圧力をかけた専制君主のジェームズ2世が追放され、「議会の決議」を「国王の決定」に優越させることを認めたウィリアム3世とメアリー2世がオランダから迎えられ、『君臨すれども統治せず』の近代的な立憲君主制がイギリスに根付くことになりました。

1689年には、イギリスの不文憲法の法典となる『権利の章典(Bill of Rights)』が作成され、イギリスの伝統的君主政の長所も取り入れた立憲主義政治が確立されていきました。イギリスの歴史性や慣習法の良さも出来るだけ生かして旧体制(アンシャン・レジーム)を必要以上に破壊しなかったイギリス革命(清教徒革命・名誉革命)は、旧体制の全てを粉砕しようとしたフランス革命と比べると不徹底な部分がありました。しかし、逆にそのことによって『統治の安定性(保守と革新のバランス)』を保つ事ができ、『革命の犠牲者の抑制』につなげることができました。

議会制民主主義では直接的に政治を動かすのは、選挙で選ばれた大統領・首相や代議士(国会議員)であり、その実務を担うのは専門分化した行政の官僚機構ですから、人民主権(国民主権)といっても『国民個々人の意志』が政治判断に反映するという実感をなかなか持つことが出来ません。誰でも議員(代表者)に立候補する被選挙権を持っているのだから、本当に国民主権の実感と責任が欲しければ、自分自身が議員になれば良いという正論も有り得ますが、誰が議員になっても『少数者支配の原則』は揺るがないという意味では同じです。

政党社会学の研究で知られるロベルト・ミヘルス(1876-1936)は、『主権者である国民(市民)』の政治への影響力(主権行使の実感)という意味では、「民主主義」「君主政(専制主義)・貴族政(封建主義・寡頭政治)」の間に『本質的な差異』はないと考えたユニークな人物です。

ロベルト・ミヘルスは、ジョン・ロックやジャン・ジャック・ルソーなど近代啓蒙思想が前提とする『人民主権(国民主権)の原理』は、議会制民主主義のもとでは『時々、自分が支配される代表者(政治的な主人)を選ぶだけの権利を与えられたに過ぎない』というように批判的に捉えました。『民主主義の寡頭制化・権威主義化・支配層の固定化』によって国民の主権は実質的に無効化(無意味化)されると考えたミヘルスは、民主主義は必然的に『社会的優位者の少数支配・人民全体を代表することの不可能性』に帰結するという意味で、『寡頭支配の原則(鉄則)』が議会政治には働くとしました。

現代の民主的な先進国でも、実質的に国家権力を発動できる人物は非常に限られており、国民主権は原則として『投票権(選挙権)』という形式でだけしか行使できないものになっています。ミヘルスの言う『寡頭支配の原則』による実際的な弊害としては、国民主権の原則が骨抜きになることで『固定的な政治階層の分化』が進むということを指摘できます。

『国民の政策議論への無関心(消極的な参政権の放棄)』によって行政・立法・司法の権力の濫用・不正が起きやすくなったり、『個人の無力感や虚無感の増大』によって民主主義国家であっても実質的な寡頭制(少数指導体制)になってしまう可能性があります。『人民全体を代表することの不可能性』は、自由主義社会における価値観の多様化や問題意識の複雑化、道徳規範の相対化によって起こってくる問題です。即ち、「数千万人の個別的人間」の利害関係や公共的な関心事を、限られた数の代表者(議員・行政担当者)によって私的利益(圧力団体・ロビイスト・地域利権・個人的コネクション)を交えずに、ルソー的な一般意志のレベルで議論することはほぼ不可能であるということを示唆しています。

しかし、『民主主義政治の寡頭制化(少数者支配の構造・政治や行政の特権化)』に対する有効な対処法は、(あまり現実的ではない)直接民主制や国民動議以外には思いつかない状況にありますし、個別的なすべての民意を重視し過ぎると衆愚政治化の懸念も生まれてきます。アメリカや日本のような大衆社会(消費文明)では、必然的に大衆は娯楽や消費に流されるので、政治・経済・軍事の中枢権益から遠ざかる宿命にあるという主張もあります。

とはいえ、存在するかしないか分からない綿のように軽い政府こそ至上の政府であるという東洋的な言い伝えもありますから、政治・経済・軍事の権力を掌握するパワーエリートが、充実感の高い幸福な人生を送れるのかといえば必ずしもそうではないでしょう。歴史的には政治権力に深くコミットした人物は、天寿をまっとうできずに非業の死を迎えていることが多いですから、政治や軍事・監視を意識せずに気楽に生活できる社会が一番暮らしやすい社会(安定統治が実現した社会)であるとも言えます。また、近世の専制主義の時代までは、一人(専制君主・皇帝・第一人者)か数人の個人(代表貴族・評議会)に国家の全権力が委譲されていたわけで、社会秩序を維持して効率的な国家運営をしていくためには、『少数者(パワーエリート)による多数者(大衆)の統治』しかないというのが現時点の政治の限界なのかもしれません。


■関連URL
政治支配の正統性(レジテマシー)を支えてきた貴種崇拝の原理と『政治とカネ』の問題

中世ヨーロッパの貴族階級の没落とローマ・カトリックの東西分裂

マックス・ヴェーバーの『支配の社会学』と政治権力の正統性の根拠:伝統・法・大衆の生み出す力


■書籍紹介
民主主義対民主主義―多数決型とコンセンサス型の36ヶ国比較研究 (ポリティカル・サイエンス・クラシックス)
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