孔孟思想の『陽(世俗)』の原理と老荘思想の『陰(脱俗)』の原理1:儒学と君子・官吏のエートス

孔子(B.C.551-479頃)孟子(B.C.372-289頃)によって布教された儒教(儒学)孔孟思想と呼ばれ、儒教の徳治の政治思想と仁義の道徳規範は東アジア各地に非常に大きな影響を与えました。近代以前の東アジアには中華思想に基づく冊封体制があり、日本国では士農工商の身分制による封建主義体制がありましたが、天命を拝受した君主(天子)が諸侯を取りまとめて国家(天下)を統治するという政治の枠組みが共有されていました。儒教はそういった封建的な社会秩序(定常的な社会構造)を正当化する政治思想として機能するだけでなく、『孟子』の易姓革命のように民本主義(民意に基づく政治)の原理に成り得るような考え方もありました。

また、『仁・義・礼・智・信』などの儒教の徳性は、アジア的な謙譲の精神を持つ人格者のイデア(原型)を形成しています。仁徳を兼ね備えた天子(君主)に天命が降り、天子による国家統治を学識ある有徳の君子(為政者としての官吏)が補佐することで理想的な政治が行われるという基本思想が儒教にはあります。儒教的な徳治政治のシステムは、倫理規範(徳)と学識教養(文)を備えた君子が為政者となり、人民に模範を示すというある種の選良主義(禁欲的なエリート主義)に貫かれています。

しかし、実際に儒教道徳を重視した過去の政治体制を振り返ると、『孔孟の教え』の禁欲道徳(君子の徳性)を有効に機能させる具体的方法がなかったこともあり、明・清や李氏朝鮮などでは官僚独裁制の腐敗・不正を強めた側面もあります。孔子や孟子は、有徳の君子が私心を捨てて民衆のために全身全霊を投げ打つような徳治政治を思い描いていましたが、現実の政治では、当然ながらそこまで高度な禁欲道徳を為政者に強制することはできません。古代~近世の中国では行政ポストが既得権益化して贈収賄や売官・横領が横行し、時に朝廷(後宮)の雑務を司る宦官(かんがん=去勢官僚)が国政を専断するような危機的状況も生まれました。

孔子や孟子は、民衆を統治する権限を持つ天子(皇帝)・諸侯(君主)・士大夫(官吏)が、『政治権力を民衆の幸福・利益のためにしか使わない』という性善説に立っていますが、実際には『力(権限)のある者が、自分や近親者のために力(権限)を使わない』という禁欲道徳が機能することは(歴史上にランダムに現れる特殊な道徳主義者を除いて)殆ど期待できないわけです。前近代的な官僚制と近代的な官僚制を比較すると、前近代的な官僚制は『個人の人格・倫理・資質』に大きく依拠する部分があるという意味で儒教的であり、近代的な官僚制は行政ポストに権益があってもそれを事前に法制化して『個人の人格・倫理・資質』に余り期待していないという意味で非儒教的なのです。

現代の公務員(官吏)にも収賄や横領などの問題はありますが、そういった不正行為を行った場合には『道徳規範からの逸脱』というよりも『法律に反する違法行為』という文脈で認識されることが多いと思います。現代の公務員(行政担当者)は法律で定められた『全体(国家・国民)の奉仕者』であって、儒教が規定する『禁欲的な道徳主義のエキスパート(君子)』では当然ありませんから、法律の範囲内で行動する限りにおいて道徳的な非難を受ける謂われはないのです。もちろん、各種の官民格差に対して国民の側から批判が起こることはあり得ますが、近代的官僚制度の下では『道徳規範を守るべき個人としての官僚(公務員)』というのは恐らく存在しないのではないかと思います。

既存の法律を遵守して法令で定められた各種の賃金・手当・年金を受け取る限りにおいて、近代的官僚制度の構成員は『個としての倫理性・責任性』を問われる場面はまずないですし、その意味では『道徳的な官民格差』は近代社会において消滅したと言えます。民間の会社員も官庁の公務員も、特別な道徳的義務を負わないという意味で等しくサラリーマンになったとも解釈できます。特に、政権中枢との関係が薄い末端の公務員になればなるほど特別な利権や厚遇とも無縁になるので、組織を構成するサラリーマンとしての自己規定が強くなるでしょう。

事の善悪は別としても、近代的な行政システムは『個人の人格・倫理・資質』に依拠する儒教の君子モデルを離脱して、法律の規定のみに依拠するサラリーマンモデルに移行したと考えることが出来ます。『聖職者』という言葉が死語化してきたことと、道徳的な官民格差が消滅したことは同じ状況を別の言葉で言い換えているだけですが、現代社会では、公共性や利他性が必要と考えられていた職業の従事者(専門家)の大半がサラリーマン化しています。何故、かつて特別な道徳性や人格性が求められていた『聖職の領域』が無くなりつつあるのかというと、価値判断の多様化によって、聖職(禁欲的修身)に対する他者の敬意や感謝・憧れが過去の時代よりもかなり小さくなったからだと思われます。

更には、道徳的義務を禁欲的に果たすほどの魅力と評価が、かつて聖職と呼ばれていた職業に無くなってきたからであり、模範的な行為規範に対する社会的な共通認識が薄らいだことで、善悪や礼節に対する受け取り方が個別化してきたからです。人権思想の普及と誤解によって個人間の倫理的な振る舞いの優劣が意識化される機会が減ったことも関係しているかもしれません。

人権思想に対する誤解とは『人は生まれながらに平等である』というフレーズを『人はどのような行動や態度を取っても、その人間的な価値に影響しない』と拡大解釈することで、全ての倫理規範を陳腐化して、あらゆる他者に尊敬の念を抱けなくなるような自意識の肥大のことを指しています。言い換えれば、『法律と公権力のみに私は仕方なく従うが、それ以外の規範や意見には一切耳を傾けるつもりはない』という法一元主義的な行動様式を選択するということです。

究極的には、抵抗し切れない強制的な権力と暴力以外には、絶対に自分の考えや行動を変更しないということですが、この立場が極端になると対話や議論の余地さえ全く成り立たないという状況になるかもしれません。普遍的な人権思想は『個人の相対評価を無効化する平等』を肯定するものではなく『生存権・社会権・自由権・名誉権・社会参加の機会』など権利の平等を生得的に肯定するものだと思いますが、『権利面における全ての人間の平等』『評価面における全ての人間の平等』を混同することで独我論的な世界認識(自己を絶対視する世界認識)に陥ってしまうことがあります。


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■書籍紹介
儒教と近代国家

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