アリストテレスの『二コマコス倫理学』と実践三段論法によるエウダイモニアの追求

生理的な快(欲望)に駆動される『動物化する生』に拮抗するのは、生理的な快の誘惑に逆らって倫理的(意図的)な善を実現しようとする『人間的な生』である。人間的な生とは、端的に、『主体的な選択と決断を伴う生』のことであり、『盲目的かつ機械的な生』というある種の運命論への抵抗である。

なぜ、本能的な欲求であるエスに盲目的に従わずに、超自我(善悪を分別する当為)というような厄介な精神構造を人間は作り上げるのかと問われれば、『私は決定された運命(自然律)に無批判に従う機械ではないから(機械でないような生を実感したいから)』と答えざるを得ない。アリストテレスの倫理学では、人間のテロス(目的=幸福)の主観的側面を『物理的な快』とし客観的側面を『道徳的な善』として、その両者を究極的には同一のものと見なしていた。

アリストテレスにとって、人為的な法・慣習としてのノモスと非人為的な自然としてのピュシスは対立的なものではなかった。ピュシス(自然)に基礎付けられる人間本来の性質である理性を発現していくことが『善』の実践につながり、ノモス(人間社会の規則)の遵守につながるというのがアリストテレスの倫理観である。アリストテレスは人間の本性である理性(ロゴス)を十全に活用して、個人の幸福と共同体の利益を同時に実現する価値ある生き方のことを『エウダイモニア』と呼んだが、アリストテレスの『二コマコス倫理学』とはエウダイモニアを追求する体系的かつ実践的な倫理学の書籍である。

カウンセリング心理学の始祖カール・ロジャーズは、性善説に依拠するヒューマニスティック心理学において、『人間は成長・適応・健康・発展へと向かう本来的な傾向を有する』として実現傾向の概念を提起したが、古代ギリシアのアリストテレスの倫理原則に照らせば実現傾向とはエウダイモニアへと引き寄せられる自然的傾向(性善説的性向)と言えるだろう。

リュケイオンの学園を創設したアリストテレス(B.C.384-B.C.322)は、人間のテロス(幸福)を人間の本性の十分な展開と定義し、共同体倫理の自然な構築を人間の本来的な存在形式(政治的動物)と考えた。アリストテレスにとっての人間の本性とは、理性による『道徳的な善の実現』であったから、アリストテレスは儒教の孟子のような性善説の立場に歴然と立っていたと考えることができる。

アリストテレスは『何が善であり何が悪であるかを知っていれば、人間は善なる行為を行うはずだ』というソクラテス的な知行合一の立場に立つが、それはアリストテレスにとって『道徳的に善であること(アレテーを実現すること)』『感覚的に快を感じること』が不可分であり同一のものだったからである。自然(ピュシス)に逆らわない人間であれば、特別な努力をせずに快楽を求めるようにして善行(ノモスの遵守や利他的行為)を為すことができるという性善説がその根底にある。

しかし、『正しい行為は悪しき行為よりも、いつも大きな快の感覚をもたらす』というアリストテレス的な性善説の善悪観は、『悪しき行為をしても、感覚的な快を感じる』という現実的な人間の性質を上手く説明できない。『道徳的に正しい行為をしても快を感じない人』についてアリストテレスは、『善き生活習慣(エートス)から善き性格傾向を作り出すこと』に失敗して人間の本来的な本性(性善説的な性質)を開花させられなかったからだと説明しているが、「生理学的な欲望」と「道徳的な善性」を同根のものとして直接結びつける試みは牽強付会(こじつけ)を伴うものではないかと思う。

アリストテレスは著書『霊魂論』において、精神機能を『栄養機能(生殖機能)・感覚機能・欲求機能・理性機能』の4つに分類し、生物の形相(本質)としての霊魂を『植物・動物・人間』の3段階の序列階層に分類している。霊魂(psyche)の有無によって生物と非生物を切り分けたアリストテレスの霊魂論は、最も原初的な生物分類と言える。この階層的な分類では、植物は栄養(自己保存)と生殖(複製)の機能を持ち、動物はそれらに加えて感覚と欲求の機能を持ち、人間だけが主客(自分と他者)を分類し善悪を分別する理性機能を持つことになる。

人間の理性機能は、動物的な感覚と欲求の基盤の上に存立しているものだが、欲望と結びついた理性(思慮)は善悪を知行合一的に『選択』するとアリストテレスは考えた。アリストテレスの倫理学はメカニカルなまでに合理的なものであり、性善説に基づく人間は、善が何であるかを知っている限りにおいて、必ず『善なる行為』を「選択」するようになっているのである。厳密には、何が善であるかを知るような『性向(性格傾向)としての徳』を形成している人は、善なる行為を必然的に選択するエートスを持つ。善を知る性向の持ち主には、理性的な思慮が備わり、『性向(習慣)』と『思慮』は善を巡って相互的な循環構造を形成する。

必然的に善の行為を選択するという意味で、倫理的な善悪を現象世界で実践(行為・選択)しようとする人間の理性は受動的理性であるとされる。受動的ではない能動的理性が働くのは質料を持たない純粋形相(神)を思惟する時だけなのである。能動的理性とは何かといえば、知覚不可能な対象(観念)や非物質的(非身体的)な対象を考察する形而上学に用いる理性のことである。

理性を持つ人間の行動も理性を持たない動物の行動も、基本的には『欲求』によって引き起こされるが、動物は『欲求するものが直ちに善』であるのに対して、人間は『善であると認識するから欲求する』というように「動物の行為の発現(快を目指す欲求→善なる行動)」とは逆方向で解釈された。

アリストテレスの『二コマコス倫理学』で提示されている倫理的行為の実践三段論法とは、『善の認識(目的)→快を目指す欲求(手段)→善の行為』であり、大前提である『善なる目的』さえ認識すればそれが『可能な状態』である限りにおいて必ず『善なる行為』をしてしまうというものである。

二コマコス倫理学の実践三段論法の非現実性は、アリストテレスが人間の善を志向する本性を過剰に強く見積もり、善なる目的を認識すれば「飢えた人間が、食物を求める」ように必然的にその善の目的(行為)を実現すると考えた点にある。つまり、『~すべき』という当為命題と『実際にすべき行為をする』という倫理の実践の間にある『意志・決断の心的過程』がアリストテレスの倫理学では無視されてしまっているのである。徳が実現する為に『思慮』が必要だとはされているが、思慮は徳(善)の基準を認識する為に用いられるものであって、不決断(優柔不断)な行為を導くものではない。

『正しい行為をすれば、反撃されて殺されてしまうかもしれない』という迷いや恐怖などはアリストテレスには問題視されておらず、『正しいという認識があるならば、最終的に正しい行為が生起する』というように倫理的実践が定義されている。『善(アガトン)に関する知識』が規範性を形成し、『現実状況の認識』が事実性を形成するのだが、規範性と事実性が交錯すると必然的に『善なる行為』の選択が為されるという形式である。

各種の論理学的・倫理学的なプロセスを端折って結論を言うと、アリストテレスは、他の何かを目的として為される行為ではなく、それそのものを目的として為される行為に『善性』が宿ると考え、手段(行為)と目的(善)が同一化した行為を、単なる『運動(キネーシス)』から区別して『実現態(エネルゲイア)』と呼んだのである。

善のベクトルは、人間の本性(自然・ピュシス)の開発によって自然に示されると考えたが、アリストテレスが『人間が善なる行為を選択しないケース』として想定したのは、物理的に悪しき行為を強制されたケースと善悪について無知のケースだけであった。

結局、現代の倫理の現状から古代ギリシアのアリストテレスの倫理学を逆照射して分かることは、善悪の分別と欲求の充足が矛盾しやすいということであり、『善を志向するエートス(道徳的な行動様式)』を自然に体得するという前提が成り立ち難いということである。自分が所属する文化圏(共同体)で共有されている善を志向するエートスというのは、しつけ・教育・人間関係・苦悩・共感といった後天的な経験の要因(正と負の強化や倫理的内省)によって身に付いていく。

ロゴス(言葉)の知識を記憶して利用できるからといって『善き人』になれるわけではない。徳を志向するエートスを習慣化する過程は『自然の本性』というよりも、『他者との共生(利他的な振る舞い)』を意図する行為規範の習得過程なのではないかと思う。


■関連URL
ソクラテスの産婆法とプラトンのイデア論:ロゴス(言葉)に生命を吹き込む知行合一の生き方

■書籍紹介
アリストテレス倫理学入門

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