パロール(話し言葉)とエクリチュール(書き言葉)の本質的差異が生成するジャック・デリダの『戯れ』

人間は、言葉とジェスチュア、表情、雰囲気、状況判断によってコミュニケーション(意志疎通)を行うことが可能だが、やはり、他者と意志疎通し意見交換する場合に中心となるコミュニケーション手段は『言葉(language)』である。

世界に存在するありとあらゆる事象を細分化して分節する精緻な言語体系によって、私たちはエクリチュール(書き言葉)パロール(話し言葉)による相互的コミュニケーションを行うことが出来る。

複雑な言語機能と言語体系を高度に発達させたホモ・サピエンスは、言語による正確な相互的コミュニケーションが可能です。
しかし、この場合の『コミュニケーションの正確さ』は、『意識内容と言語表現の一致』を前提とすることで成り立っていると考えられます。

過去に『構造主義の始点となったソシュール言語学』という記事で、プラグマティズムのパースと並ぶ近代言語学の始祖であるソシュールの言語観について触れました。

ソシュールは言語記号(シニフィアン)と対象(シニフィエ)の結びつきは恣意的なものであり、『音韻の組み合わせの差異』によって『言葉の意味の差異』が生まれると考えました。

音韻(phoneme)というのは母音・子音の音声記号で表現できる分節可能な『音声言語の構成単位(構成要素)』のことで、言語は音韻の組み合わせの差異によって、ある単語とそれ以外の単語を識別し意味を生み出します。文字言語の場合にも、記号(文字)の組み合わせの差異によって、それぞれの単語や文章の意味が形成されます。


ソシュールの言語観に依拠すると、『言語・イメージ(観念)・事物(実在)の普遍的な一致』は原理的に不可能となり、言語と観念(思惟)、言語と事物(実在)との結びつきは恣意的で相対的なものになってしまいます。

自然界の事物や人間世界の現象に内在している秩序のようなものが言語以前から整然としてあるのではなく、言語によって世界秩序や事物の関係が形成され共有されていくことになります。


言葉に、書き言葉と話し言葉という区別があるように、人間が使用する言葉には『時間軸上で音(聴覚刺激)として意味を認識されるパロール(音声言語)』『空間軸上で文字(視覚刺激)として意味を認識されるエクリチュール』があります。

伝統的な西欧哲学では、言語を考察の対象とする場合に、書き言葉(エクリチュール)よりも話し言葉(パロール)としての言語が重要視されていました。ソシュールが構築した記号学もその例外ではなく、音声中心主義(フォネセントリスム)に基づく音韻研究に根ざして展開されたものでした。

何故、西欧哲学(形而上学)や言語学では伝統的に、文章(エクリチュール)よりも音声(パロール)を研究対象として重視してきたのでしょうか。何故、階層的な二項対立構造を言語研究の基盤に置いていたのでしょうか。

それは、パロールのほうがエクリチュールよりも、『発話者の意識内容(思考・意志・感情・欲求)』をよりありのままに表現できると考えられていたからです。

文字言語は、発話者が表現しようとする内容を代理的に指示して再現する『記号』としての特徴を持ちますから、発話者が表現したい内容を間接的にしか再現できません。
発話者が言葉を用いて表現したいと思っていた意味(事物・意見・感情)そのものを『起源』とすると、文字言語は音声言語よりもそのありのままの表現内容の起源から遠ざかっていると判断された為に、音声中心主義の言語観が歴史的に隆盛したわけです。

エクリチュールは、パロールの写像であり起源から遠ざかった間接的な表現方法であるという言語観が音声中心主義ですが、音声中心主義では『起源(原初的な純粋な意味)・話し言葉(パロール)・書き言葉(エクリチュール)』シニフィエ(指示される意味)は基本的に一致しています。

しかし、人間の言語機能の正確さを保障するこの『起源(真理としての原初的意味)‐パロール‐エクリチュールの意味の一致』を批判した人物に、ポストモダンの哲学者ジャック・デリダ(Jacques Derrida,1930-2004)がいます。

デリダは、言葉を話してコミュニケイトする『パロール』と文字を書いて意味を伝達する『エクリチュール』は、本質的に異なる行為であると主張しました。

例えば、『僕はこの世界で、あなたのことだけを愛している』という言葉を相手に伝える場合に、音声と文字で伝える場合の違いを考えてみます。
音声であるパロールの特徴は『時間的・直接的・主体的・特殊的』という部分にあり、文字であるエクリチュールの特徴は『空間的・間接的・非主体的・一般的』という部分にあります。

『僕はこの世界で、あなたのことだけを愛している』と肉声(パロール)で発話する時には、その声質はあなた固有の特殊的なものであり、あなたという主体が発話している事は明らかであり、直接的に相手の耳にそのメッセージの意味が届けられます。

偶然、自分の声と判別不可能なほどよく似た声の持ち主がいて、その人があなたに成りすまして電話で愛の告白をする可能性は0とは言えませんが、基本的に、音声言語とはその個人に特有のものであり、その人以外の誰かが声のメッセージを代理することは出来ません。

反対に、『僕はこの世界で、あなたのことだけを愛している』と文字(エクリチュール)で表現する時には、特定個人の特定の愛情表現である真理性(起源性)を喪失します。文字は音声のように時間経過によって消滅しませんから、何度でも繰り返し確認することができ、(筆跡を相手が判別できない限り、あるいは、メールやワープロなどで表現する場合)他の誰かがそのエクリチュールを書いても同一の意味内容を複製することが出来ます。

特定個人が伝達しようとした『起源としての意味』は、主体的なパロールと一般的なエクリチュールという伝達手段の差異によって、全く異なる意味作用を持つものとして現前してしまいます。

パロールとエクリチュールが『起源としての意味=初めに言葉で表現しようとした事物・心理』を表現できるという前提が崩れた結果、伝統的な西洋の形而上学が保障していた『言語による真理(起源)の再現』は不可能となります。

言語(シニフィアン)が指示する『超越論的なシニフィエ=起源』は存在しなくなって、そこにあるのはただ『言語構造が生み出す諸差異の諸差異、(起源の)諸痕跡の諸痕跡』だけとなってしまうのです。

ジャック・デリダは、著作『グラマトロジーについて』において、言語による真理の再現が不可能な状態、超越論的なシニフィエの不在の事態を『戯れ』という独特のテクニカル・タームで表現しましたが、言葉で様々な事象や心理の本当の意味を慎重に表現しようとしても『戯れ』の影響から逃れ出ることは出来ません。


■関連URL
言説のパラドックスを指摘するデリダの脱構築

■書籍紹介
デリダ論―『グラマトロジーについて』英訳版序文

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