村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス 上・下』の書評

夢の世界と現実の世界が歪曲しながら不安定に繋がる不思議な場所、社会における関係や役割から生み出されるリアリティがぐらぐらと揺らぐ独我論的な領域……それが『ダンス・ダンス・ダンス』の主要舞台となる札幌のいるかホテルだ。

村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』は、『羊をめぐる冒険』の続編としての物語だけれど、本作品だけを読んでも物語の粗筋と内容はおおかた理解できるだろう。
でも、この物語の主人公である「僕」の喪失し続けてきた社会的環境のリアリティと人並みの生活リズム、家庭的な幸福のあり方をより的確に感傷的に追想したいのであれば、『羊をめぐる冒険』から読み始めたほうが良いかもしれない。

「僕」の精神的懊悩とカタルシスを巡るストーリー展開の滑らかさや幻想的なヴェールをまとう登場人物のキャラクター描写、会話で取り交わされるメッセージが訴えかけてくる強度、それらの観点で私は『ダンス・ダンス・ダンス』のほうが小説としての読みやすさや味わいで勝っているように感じたが、『羊をめぐる冒険』を読んだのは思い出せないくらい昔のことなので記憶が定かではない。

この小説の主人公には、一般社会で通用する氏名がなく、一人称の「僕」で初めから終わりまで一貫して表現される。キキ、メイなど物語のテーマに関係する重要な登場人物の多くも、一般社会で通用する固有名を持っていない。

姓名不肖、匿名の通り名、源氏名(仮名)、ペンネーム……それらは『ダンス・ダンス・ダンス』の世界では、精神内界に所属する名辞を意味し、現実原則が支配する外部環境との間に境界線を引く白昼夢の作用を持つ。

『性的な関係を持てる身体』という質量は確かに感覚的な記憶としてあるのに、『固有名で名指される社会的実体』を「僕」も彼女達も持っていなかった。
いるかホテルは、そういった社会的実体のない「僕ら」を引き寄せて結びつける磁場を持っている特別な地であり、あるいは、外部環境から切断されて方向感覚を喪失した「僕」の内面世界をそのまま象徴している建造物であった。

現実社会で、「私」を私として認知し、「あなた」をあなたとして確認するには『実名(戸籍名・社会的認知度の高い仮名)としての固有名』『社会環境における地位・役割・所属』が原則として要請される。

私たちは、『私という唯一無二な存在』が、現実社会で個人を特定する固有名(戸籍名)や社会的役割(所属)と無関係に確固としたものとして存在していると考えてしまいやすいけれど、実際には固有名・国籍・社会的属性・居住地を全て喪失した『むき出しの実存である私』は、既存の社会システムの外部にこぼれ落ちてしまい他者から認知され難くなってしまう。

私が社会(無数の他者の機能的集積体)に対して『私』であることを明証する為には、私が内省して「私」を認知する内的現実性を、他者が「私」を観察して認知する外的現実性にすり合わせていかなければならない。

作品中の「僕」は、小学校の先生やクラスメイトを前にして行う「僕に関する自己紹介」が苦手で不安だった。「僕」は、自分語りを恣意的な都合の良い自己評価のように感じていたし、「価値判断を含む自分語り」は架空の世界の架空の関係を作り上げるようなものに思えていた。

無機質な客観的事実だけで綴られる自己紹介に徹した学生時代の「僕」は、『他者に対して自分の存在や特徴について語る行為』が、社会的に条件付けられた『自己アピールの強迫観念』に思えて仕方がなかったのだ。

このブログで過去に書いた『 確定記述の束に還元し切れない「余剰」を内包する固有名』もこういった存在と名辞に関係した問題意識に貫かれている。

創作世界の中で「僕」の固有名は決して語られないが、名前(他者からの特定的な認知)を持たない事と自己アイデンティティが拡散する事の間には強い密接な相関がある。

まだ20代だった4年半前の「僕」は、類稀な美しい耳を持つ女性キキに導かれるようにして、古色蒼然とした、とても外見からはホテル業を営んでいるようには見えないいるかホテル(ドルフィン・ホテル)に泊まった。

キキは、地位とお金のあるハイ・ソサイエティの顧客を相手にする会員制コールガール・クラブに所属する高級娼婦であり、パートタイム勤務をする耳専門のモデルであり、幾つかのアルバイトをこなすありふれた女性でもあった。

「僕」は、不思議な預言を投げかけるようなキキと別れて以来、彼女と会うことはなかったし、運命的な一体感を感じさせるドルフィン・ホテルを後にして以来、ドルフィン・ホテルを訪問することはなかった。

「僕」は、ドルフィン・ホテルを離れている間に、現実世界の雑事を淡々とこなして、自分と社会を巧みに結びつけ、『文化的な雪かき』と称するもの書きの仕事で生計を立てて幾許かの貯蓄を貯めた。

『ダンス・ダンス・ダンス』では、『本質的に無意味だけれど、生きていく為に必要とされる行為、あるいは、社会的に要請される労働』を、雪国の生活に必須の労働である雪かきのメタファーで表現する。

「僕」に最高の非日常的な性的快楽をもたらしてくれた娼婦のメイは、屈託なく笑いながら自分の仕事を『官能的な雪かき』であると語った。

恵まれた環境で特別な不自由を感じずに育った大学生のメイは、義務的な商売として高級コールガールの仕事をしていたわけではなく、非日常的なセクシャリティの外部に、現実社会にはない陶酔と夢想を見出そうとし美しく足掻いていたのだった。

しかし、運命的な誘引力を持ったドルフィン・ホテルと人生の針路を示唆するキキが再び僕の存在を求めているという強迫観念が脳裏を過ぎるようになる。文化的雪かきで築き上げてきた人並みの新生活の終わりが近づいてくる。
「僕」は、僕なりの手段を持って何とか世間並みの新生活を始めたのだけれど、その新生活を投げ打ってでも、再びあのドルフィン・ホテルへと赴かねばならない。「僕」の進むべき針路を予見するキキと再会して、僕の存在意義とアイデンティティの基盤について語り合わなければならない。

ドルフィン・ホテルを離れた「僕」は、外見上の表面的な社会適応を獲得して、人並みの日常生活を送れるようにはなっていたけれど、「僕」は不倫をして突然家出をしてしまった妻のデジャヴュを見るように、出会う女性の全てを失い、親密な人間関係の全てを破綻させていった。
二人で過ごす時間は濃密で充足したものだったけれど継続的な関係を確保できず、社会的な関係性や家庭的な雰囲気というものへの発展の兆しは見られなかった。

電話会社に勤務していたある彼女は、「僕」といると月にいるように空気がすうっと軽くなると言い、「僕」と彼女の間には、肉体的な結合や言語的な対話では決して乗り越えられない『存在の質的な差異』の断崖が口を開いていた。

4年半の間に偶然に出会った「僕」のまともさを認めてくれる多くの人たちと、親密な恋愛関係や温かい共同生活を作り上げてみたものの、それらの関係は、例外なく、幸福感の余韻と喪失感の悲哀を残して自然に必然的に破綻していったのだった。

そう、村上春樹の『スプートニクの恋人』で描かれた回避不能の必然的別離のように、回復不可能な致命的喪失のように、「僕」の人生の物語は、半ば宿命的な愛別離苦の螺旋構造の中に取り込まれている……。

「僕」は自分と関わってきた者の多くを意図せずして傷つけ悲しませ、そして、精神的にあるいは肉体的に磨り減らせてきてしまった。
他の男と不倫をして家出をしてしまった妻からは、不倫をした相手とは別の相手と結婚をするという手紙が届いた。




彼ら/彼女たち、と僕とは、まるで宇宙の暗い空間に浮かぶ二つの遊星のようにごく自然に引き合い、そして離れていく。彼らは僕のところにやってきて、僕と関わり、そしてある日去っていく。
彼らは僕の友人になり、恋人になり、妻にもなる。ある場合には対立する存在にもなる。でもいずれにせよ、みんな僕のもとを去っていく。彼らはあきらめ、あるいは絶望し、あるいは沈黙し(蛇口をひねってももう何も出てこない)、そして去っていく。僕の部屋には二つドアがついている。一つが入り口で、一つが出口だ。互換性はない。入り口からは出られないし、出口からは入れない。

(中略)

しかしいずれにせよ、みんな出ていく。あるものは新しい可能性を試すために出ていったし、あるものは時間を節約するために出ていった。あるものは死んだ。残った人間は一人もいない。部屋の中には誰もいない。僕がいるだけだ。そして僕は彼らの不在をいつも認識している。去っていった人々を。彼らの口にした言葉や、彼らの息づかいや、彼らの口ずさんだ唄が、部屋のあちこちの隅に塵のように漂っているのが見える。

(中略)

彼らの殆どは心優しい人々だった。でも僕には彼らに何かを与えることはできなかった。もし与えることが出来たとしても、それだけでは足りなかった。僕はいつも彼らに出来る限りのものを与えようと努力した。できるだけのことは全部やった。僕も彼らに何かを求めようとした。でも結局は上手くいかなかった。そして彼らは去っていった。

(中略)

いつまでこんなことが続くのだろう?と僕は思った。僕はもう三十四だ。いつまでこれが続くのだ?




妻との離婚、親友の自殺、愛猫の死、連続する深刻な喪失体験で、日常生活を送る気力と社会的な生産をする意欲を失った。
「僕」は、社会生活から離脱して無為な日々を送り、再び社会の場に戻ってフリーライターで生計を立て直した。その過程で、幾人もの無難な女性と関係を持つことにもなったし、その中の一人の女性、電話局に勤める女性とちょっとした恋愛関係を発展させることになった。

しかし、電話局の女の子との恋愛も結局は破綻に終わり、退屈だけれど安定していた新生活のリズムが再び乱れ出す。そんな時に、「僕」の脳裏には、ドルフィン・ホテルへ「僕」を導いた名も無き高級娼婦キキの姿が浮かび上がった。

「僕」は現実生活に適応する為の文化的雪かきの営為をいったん中止して、自らの存在意義やアイデンティティの基盤とのつながりを感じさせるドルフィン・ホテルに足を運んでキキの行方を追う決意をする。
村上作品の基調に流れる深遠な喪失感からの再生をテーマにして、「僕」のドルフィン・ホテルでの滞在と捩れた人生の歴史を整理する為の非現実的な冒険が始まる。


4年半ぶりに再訪したドルフィン・ホテルは、過去のボロボロの外観で商売っ気のない「いるかホテル」の趣きを全く残していなかった。
人生の辛酸を味わいつくしたような陰鬱な中年男の支配人はいなくなっていたし、色褪せて古びた家具やまともに機能しない洗面台、使い物にならない骨董品を集めたホテル付属の博物館のような施設もなくなっていた。

前近代的な古色蒼然としたいるかホテルは、巨大資本を投下する都市開発によって全く異なる最新の煌びやかな高級ホテルにその外観を変えていた。
宿泊客の快適さと利便性を約束する最新設備に、接客技術に精通したプロフェッショナルのホテルマン、カウンターに立ち完成された笑顔でお客を迎える美しい女の子を備えた26階建ての高層建築ビルディング、それが高級ホテルチェーンの一つである現在のドルフィン・ホテルの姿であった。

しかし、外観や設備が輝かしく豪華になっても、ドルフィン・ホテルは依然として「僕」の一部であり精神内界の象徴であり、「僕」の現実感覚と夢想感覚を配電盤でつないでくれる「羊男」という不思議な生き物が住まう場所であった。
僕の自己アイデンティティとリアリティを探索する物語は、いるかホテルで始まり、いるかホテルで終わるのだ。

街で偶然に見た三流映画『片想い』に、俳優になった中学時代の同級生・五反田君(ごたんだ君)が、キキと一緒に出演していた。
秀麗な容姿に優秀な頭脳、あらゆる面で非の打ち所のない旧友・五反田君と再会し、華麗で空虚な生活を義務付けられた芸能人となった五反田君との友好を温めなおす。
離婚騒動で最愛の妻を失い、多額の借金を背負った五反田君。彼は、現在与えられる仕事、面白みも遣り甲斐もない紋切り型の二枚目の配役を適切に処理し続ける限りにおいて、贅沢で優雅な外見上の豊かさを約束されていると語った。

五反田君の必要とするものは全て事務所の経費で落ちるのだ。
イタリアの最高級スポーツカー・マセラティを経費で乗り回し、インテリア・デザイナーが人工的に構成した港区の高級マンションに住み、磨き上げられた美貌と抜群の性的技巧を持つメイのような娼婦との夜も経費で落とすことが出来る。
お金で買えるものならば手に入らないモノはないと自嘲する五反田君は、彼が本当に欲しいと思う幸福のかたちから遠ざかり続ける。唯一本心から愛しながらも離婚を余儀なくされた前妻との未来は暗く閉ざされていたし、彼が自分自身の力で現在の生活状況を離脱する方策は殆どなかった。

五反田君は、虚構の華麗なライフスタイルを継続する中で、生きているというリアリティを喪失した。本当に愛し合いたい相手との関係に未来が無くなった五反田君は、繰り返される娼婦との技巧的な後腐れのないセックスに絶望した。

他者の視線と評価を絶えず意識せざるを得なかった演技的な人生に終止符を打とうとする自滅的な激しい欲望は高まり続けた。

五反田君の価値観は「僕」の気づかない間に密かに奇妙な捩れを見せていた、反社会的な歪んだ衝動の強度も本人が意識できない間に強まっていた。
「僕」・五反田君・キキ・メイ……救いのない悲愴感と手ごたえの乏しい空虚感だけが支配する物語が紡がれ、そして、無意味な結末へと全ては頽落していくことになる。

今まで付き合った女性と比べて一番綺麗だと「僕」が感じた美少女のユキとドルフィン・ホテルで知り合い、年齢の離れた二人の奇妙な友人関係が始まる。
天才芸術家と言われるユキの母親アメは、ユキの育児に積極的に関与することはなく、有り余る写真撮影への才気と情熱に突き動かされるように子どもの気持ちや生活を省みない奔放な写真家としての人生を歩んできた。

仕事に没頭する母親との情緒的な触れ合いを失い、親子間の支え合いの心地よい体験からも遮断されたユキは、繊細な心をひどく傷つけられ、いつも一人で孤独な時間を大好きな音楽と共に過ごしていた。

両親からの愛情や関心を得られず、学校環境での友人関係にも上手く適応できなかったユキは、不登校になり自らの人生に対する意欲を次第に弱らせていく。
ユキの父親の作家牧村拓の懇願もあって、「僕」はユキと一緒に、母親が仕事をしているハワイへと旅行に向かう。

そのハワイ旅行は、ユキの衰えた生命力を鼓舞し、傷ついた心を慰撫するものとなった。同時に、「僕」にとっても落ち込んだ気分を安定させ、深い喪失感を和らげるひと時のバカンスとなった。二人には、現実世界のリアリティの持つ破壊性と影響力の磁場から逃れられる場所と時間が必要だったのだ。

僕を現実世界のリアルな人間関係に連れ戻し、雪かきとしての社会的役割に適応させるキーとなる重要人物はいるかホテルの内部に既に登場していたのだった。
ホテルの規則に忠実に従って業務をこなすプロフェッショナルに徹そうとして徹しきれないカウンターの眼鏡をかけた女性、この女性だけは生活感覚を希薄化させるファンタジックなイメージやリアリティを弱体化させる雰囲気を纏っていなかった。

現実の生活に根ざした素朴な美しさと魅力的な会話、仕事へのひたむきな姿勢を持つカウンターの女性の固有名を知る時、喪失感を刻み続けた「僕」の人生の歯車が、今までの噛み合いとは違う噛み合いを見せて回り始める。

「僕」も「彼女」も、そして、私とあなたも、数え切れない対象喪失の悲哀と分かり合えない絶望を潜り抜けて、現実世界で絶え間なく流され続ける音楽(生活課題)のリズムに合わせて踊ることになる。

誰もが出来ることならば、絶妙の巧みなステップでリズムに乗って楽しく踊りたいと思っている。自分の外部にある何かに踊らされている事に気づかないくらいに、自分の創出するダンスの快楽に熱狂できている間は、現実に適応して生きる事の難しさを感じないで済むからだ。

しかし、時には踊りたくもない不快なダンスや難解なダンスを現実社会の音楽は私たちに要求してくるだろう……それでも、ダンス・ダンス・ダンス……自分を勇気付け、他者を受容し、社会と向き合って踊り続けるしかないのであれば、出来るだけ楽しく面白く音楽(社会現実)を解釈しながら踊り続けてみようと思う。


■書籍紹介
「これだけは、村上さんに言っておこう」と世間の人々が村上春樹にとりあえずぶっつける330の質問に果たして村上さんはちゃんと答えられるのか?

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