パトリオティズムとナショナリズムの愛国心2:平和主義の理想と宗教倫理の愛

前回の記事の続きで、戦争放棄の平和主義と自他を分別しないキリスト教的なアガペー(博愛)について少し付け足しておきます。

日本の憲法や教育基本法の理念に宿る終戦当時のアメリカの思惑を好意的に考えると、自分達が実現不可能な『平和と愛のイデア』への普遍的憧憬を、日本国憲法の原文や教育理念に投影したと解釈できます。
諸外国の信義則と平和外交を無条件で信頼できる国際情勢は、当時においても現在においても、十分に整っていませんから、国益・国防というリアリズムよりもイデアリスムの理念が優先されているきらいはあるでしょう。

また、アメリカは他国の憲法だから、現実を軽視した極端な理想主義を盛り込むことに余り葛藤を感じなかったという『憲法押し付け論』の論拠にも合理性はあると思いますが、結果として平和憲法を世界に先駆けて持てたことは戦後日本の歩みを見ると僥倖だったともいえます。
平和主義教育をアメリカの占領政策の一環として利用したという側面も確かにあるでしょう。
教育基本法や日本国憲法を制定した戦後間もなくの時には、戦時中に敵対国を恐れさせた日本のナショナリズムや復讐戦争の為の再軍備につながる価値観を教育段階でスポイルする意図もあったと思います。

実際、戦後の平和主義教育によって、国家に無条件の忠誠を誓うような国体中心のアイデンティティを持つ国民は殆どいなくなり、戦争や専制(独裁)は絶対悪であるとする価値観が一般化しました。
戦時中にあった拡大志向(五族協和のアジア主義)や皇国史観(儒教的な王道楽土)の政治イデオロギーはその影響力を急速に失い、価値観の多様性を容認する自由主義と対等な個人(議員・国民)の議論に基づく民主主義が中心的なイデオロギーとなりました。

個人の自由を最大限に認める自由主義や他人の行動や価値観への介入を制限する個人主義を抑制することが、未来の日本の発展には必要だという主張もあって良いとは思いますが、児童期から思春期の教育段階では、多様な意見や価値観に触れることは大切なことです。
千差万別の人間の個性と向き合い、様々な論拠を持つ意見や考えに触れて自分の価値観を模索する機会を剥奪することがないようにと願います。

日本国憲法や教育基本法に通底する平和主義精神は、実際的な国家の利害や他国の予期困難な悪意を想定しなければ、自他の徹底的尊重を基盤とする普遍的な正しさを持った法と言えます。

愛の概念について、普遍的な愛とキリスト教教義を結びつけて考えるのも興味深いのですが、愛(アガペー)と恋(エロス)の最大の違いは、対象を愛する利他的な行為に見返りを求めるか求めないかというところにあります。
愛に基づく自他の徹底的尊重とは、『自分と同じように他者(隣人)を愛しなさい、自分のして欲しいと思うことを他者にもして上げなさい』とするキリスト教精神にも通底するものです。

日本国憲法の平和主義理念は、主観的な自国の立場と利益に終始するのではなく、客観的な視点からの調和と正しさが考慮されているという意味で、未だ人類の歴史過程で実践された例のない(キリスト教会や宣教師自身が違背することの多かった)キリスト教的な愛の精神が宿されていると考えることも出来ます。

ただ現実社会では『正しい理念』は、正しさが説得的に論証できるというだけでは実効力を発揮できず、『正しい理念』を意欲的に採用する国家の数を増やすか、圧倒的な実力でその理念を無理強いするかしなければ『正しい理念』の実現はまず不可能です。
アメリカは、後者の圧倒的な実力(軍事力)を持って、自らが正しいとする民主主義や自由主義の理念を世界に広めようとしたが、その外交政策と戦争の成果は大きな反発と非難に直面して泥沼に陥っています。

戦後の日本は、ただ自国だけで憲法に刻まれた『正しい理念』を掲げてその基本ラインを守り、経済中心に波風を立てずに戦後の歴史をやり過ごしてきました。
日本の場合は、日本国憲法の平和主義や人権思想の理念を他国に強制しなかったので、大きな対立や反発を招くことはこれまでなかっただけです。

もし、平和主義や戦争放棄、軍備縮小、他国尊重の教育理念を客観的に正しいという理由で諸外国に強制すれば大きな反発や敵意を招くだけだろうし、実力(軍事力)のない日本が正しい理念を強弁しても適当に受け流されるだけだったでしょう。

自国防衛の軍事力を持たない国家が非現実的であるとか、国際社会はそもそも平和を希求していないとか、ナショナリズムの熱狂は原理的な悪だとかいった解決困難な議論もありますが、平和主義や人権尊重という理念的な正しさが国際社会で通用しないのは、時代がその理念に追いついておらず、その理念を採用するメリットを感じている国家と人々の数が少ないことが最大の原因だと思われます。

あるいは、個人間の社会生活においてさえ、他者を完全に信頼すると裏切りや出し抜きによる不利益を蒙るリスクがあるように、他国を一方的に信頼することによる裏切りや不意打ち、謀略のリスクが予測不可能であり、文明や教育の成熟度が落ちるほど他国(他集団)に心を許すことが出来ないということがいえます。

歴史の事例でいえば、戦争する意図がなく平和外交を展開しようとしたアステカ帝国にインカ帝国、ネイティブ・アメリカンの首長部族社会などは全て一方的に白人社会からの支配侵略を受けました。
もっとリアリスティックな事例でいえば、文明度や技術力に決定的な格差のない未開民族同士であっても、平和主義を唱えながら一方的に惨殺され奴隷化された部族が無数にあったと考えられます。

ニュージーランドの先住民であった農耕部族のマオリ族は、19世紀前半にニュージーランド全土を勢力圏に収める過程で、平和主義と対話外交を旨とする無抵抗の狩猟採集部族モリオリ族を一方的に不意打ちで虐殺しましたが、この場合には、モリオリ族は如何なる交渉や対話をもってしても自部族の滅亡を抑止することが出来なかったでしょう。
実際、モリオリ族はマオリ族に対して、土地や資源の分配(納税)や友好関係の維持を申し出ていて、その申し出は、マオリ族にとってそれほど悪い条件ではありませんでしたが、一方的な殺戮を交渉段階で抑止することに失敗しました。

同じような社会集団の歴史的発展過程は、世界各地にあり、日本の古代史においてもあります。古代日本の地方部族であった九州地方の熊襲や東北地方の蝦夷などは明確に大和朝廷の中央政権に対する侵略の意図を持っていなかったと推測されますが、野蛮な異民族の夷狄として征伐され同化されていきました。
明文化された法律や条約のない古代の世界での対立闘争は半ば動物的なテリトリー拡大の本能に基づくものですが、遵法精神や契約履行、倫理規範を文明社会の尺度とする社会集団が誕生するには相当に長い歴史的時間を必要としました。

キリスト教神学を体系化して『神学大全』を著したトマス・アクィナス(1225-1274)は、いみじくも人間の倫理的な不完全性と善行からの逸脱を示唆してこう述べています。

『我々は善の方向への努力を繰り返すが、常にそこから落ちる。しかし、それら諸々の指差す方向に神が実在する』

私は有神論者ではありませんので、絶対的実在者としての神が如何なるものか想像の域を超えませんが、無数の過ちと悪行を繰り返す人間が試行錯誤を繰り返す中で見えてくる、確からしい倫理や政治の方向性というものがあるように思えます。

近代主義と愛国心との相関を考える場合には、ニッチ(生態的地位)を得る為の環境としての郷土や国家を愛する自衛的なパトリオティズム(愛国主義)を、排他的なナショナリズム(民族主義)侵略的なファシズム(全体主義)と混同しないことが大切になってきます。

戦争や攻撃と結びつきにくいパトリオティズムの場合には、自分が生まれた郷土や同胞の防衛や郷土の伝統や文化の尊重という事が前面に出てくるので、今回の教育基本法改正案は基本的にパトリオティズムの自然感情を強調した語彙を選択している雰囲気は何とか感じ取ることが出来ます。
ただ、近代の国民国家から民族国家の側面を完全に切り離すことが難しく、自分が直接的に生まれ育った郷土を愛するパトリオティズムの段階で愛国心が認識されることは少ないと考えられます。

つまり、近代国家である日本では、かつての幕藩体制の時代のように自分の生まれ育った薩摩藩とか会津藩とかへの素朴な自然感情としてのパトリオティズムを抱くことは難しく、必然的に愛国心は自分の居住地や人間関係を超えた観念的な国家全域や日本国民全員への愛着や発展を意味するようになります。

近代民族国家の発展推進の原動力となったナショナリズムが現代の個人主義が浸透した先進国で異常に加熱することはないとしても、これから先進国の仲間入りをしようとする国家では経済発展や国威発揚の原動力としてナショナリズムが利用される機会がまだまだあると考えられますので、その点が日本の愛国心以上に不安といえば不安です。

経済や国力が成熟段階に入った日本やヨーロッパでは拡大志向や民族独立を内在したナショナリズムが大きく台頭することはありませんが、これから更に大幅な経済成長や国家の発展をしようという途上国では、ナショナリズム(国家主義)と愛国心(パトリオティズム)の差異は殆どないと考えられます。

中世(近世)から近代への移行期には、『地域限定的だった愛国心』が国民の組織統合の原動力として活用され『統一国家に対するナショナリズム』へと発展するわけですが、日本の場合にはナショナリズムの台頭を終えて、戦後に自由主義と個人主義の全盛を迎えた後に、素朴なパトリオティズムへの回帰を模索しているという事になるのでしょう。

祖国を自然に愛し、伝統や文化に対して誇りを持つという健全な愛国心は、理念的な正義や国際協調の精神を併せ持つことで育まれるものだと思いますが、排他的でなく膨張的でない愛国心の節度を守る為には民主主義と平和主義、自由主義の尊重を前提とした祖国を愛する態度を身につけることが必要です。

しかし、そういった健全な祖国防衛の愛国心を実現する為には、市民社会の成熟度と経済社会の発達度、価値中立的な教育制度、民族独立と領土保全の達成など精神主義では解決できない歴史的政治的条件が揃う必要があるのもまた事実であり、排他的なナショナリズムを自然感情的な愛国心と分離するのは難しい課題ですね。

幾つか教育基本法改正のテーマを取り扱っているブログや記事を見ましたが、行き過ぎた自由主義の抑制として公共性を意識する愛国心の教育が必要とする伝統回帰の論調がある一方で、国家の側が能動的に愛されることを望む法制化に抵抗感があるという論調が多くみられました。

憲法改正問題はともかく、教育基本法改正については一般国民が議決過程に関与できる部分は極めて限られているので、冷静に改正議論の事態を見つめていきたいと思いますが、実際この改正が成されたとして教育現場にどのような変化が起きるのかというのは分かりにくいですね。

かなり、教育基本法や愛国心のテーマから文化人類学の集団発展過程などの話題に拡散しました。
人類が形成する集団・国家と愛国心(集団的な自己防衛本能)とを切り離して考えることが難しい以上、人間社会や歴史事象を、『集団と個人の間にある心理的距離や相互依存性』の観点から読み解くことも出来るのでしょう。


■書籍紹介
アガペー―愛についての倫理学的研究

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 1

なるほど(納得、参考になった、ヘー)

この記事へのトラックバック