『同じ穴の狢コミュニケーション』と『尊厳保持のコミュニケーション』:人の本能と倫理の価値承認を巡って

『九尾のネコ鞭』の「体育会系ジョークとオタクジョーク、その間にある深い溝」という記事を興味深く拝読させて頂きました。

この記事では、体育会系の人たちの自虐(本能)ネタ中心の相互的コミュニケーションとオタク系の人たちのマニアック(知識)ネタ中心の相互的コミュニケーションの比較論が実際の生活体験に基づいて分かりやすく述べられています。

私は、このコミュニケーション・ギャップを『相手の有能性を尊敬する事によって形成する人間関係』『相手の俗的欲求を暴露させる事で安心する人間関係』の違いに求めることが出来るのではないかと思います。

両者のコミュニケーション形態の差異は、厳密には、体育会系とオタク系に限定されるものではなく、仲間意識醸成(同質性を保った共同体の形成)に必要な自己開示の種類と深さの違いであり、居心地の良さを感じる対人関係の距離感の違いに基づくと考えられます。

ですから、対人関係のバランス感覚のある個人は、両方のコミュニケーション形態にある程度適応することが可能であると思いますし、相手が望まないコミュニケーション形態を強制することはないと思います。

多くの人は、時に知性的な会話を楽しみ、時にやや低劣な情欲の話題を楽しみますが、四六時中同じコミュニケーション形態を強いられる事には苦痛や不快を覚えるのではないかと思います。
いずれにしても、対人スキル、コミュニケーションスキルの高低とは、TPOに適合した言動を臨機応変に取捨選択できることであり、相手の基本的コミュニケーション形態へ譲歩した言動や配慮が出来るという事です。

体育会系であってもオタク系であってもノーマル系であってもアカデミズム系であっても、多種多様な個性や価値観を持つ他者と良好な関係を維持し、自分のいない場所で陰口を叩かれないようにする(どんな人格者でもどんな面白い人でも陰口から完全に自由にはなれませんが)コミュニケーションの基本は、『相互的な欲求や関心を満足させること』を念頭に置くことです。

『相手が選好し得意とする分野を話題にする時間』と『自分が選好し得意とする分野を話題にする時間』とを上手く均衡させて、相手の話題にどうにかして自分が言及できるポイントを模索することが必要になってきます。

その意味では、体育会系のコミュニケーションとして例示されている本能的欲望の暴露に適応するほうがオタク系のコミュニケーションとして例示されている知的欲望の相互承認に適応するよりも容易かもしれません。

それは道徳的に高潔な人や性的羞恥心が強固な人が少数派であるという事もあるかもしれませんが、一番の理由は『前提知識や学習活動を必要とせず、(禁欲道徳や自尊心を除いて)会話への参加障壁が非常に低い』からという事に帰結するでしょう。

ここで、俗的なコミュニケーションに触れたついでに、人が何故、猥談や下ネタを中心としたコミュニケーションを展開するのかについても考えてみます。

行動主義心理学で一次性強化子と呼ばれる反射的に快の反応を生じる刺激は『性欲・食欲・貨幣』にまつわるものですが、体育会系のコミュニケーションとは正に一次性強化子を相互に与え合って脳の報酬系神経活動(ドーパミンやエンドルフィンなどの神経伝達活動)を活性化させることなのです。

一次性強化子を巡る話題をコミュニケーションの場で提示する事は、相手に何らかの情動的反応を起こす事を目的としています。
恋愛や性愛の駆け引きの場で自分の予期した結果を得る為の刺激的なコミュニケーションが得意な人は、一次性強化子をウィットや知性に絡めて無意識的に自己開示しています。

異性に不快感や嫌悪感を抱かせる低劣な度合いが行き過ぎた猥談は自分への評価を下げますが、親密な関係になった異性や性的倫理観が強固でない異性に対しては相互的に性への関心や欲求を確認しあうことが高い評価につながることがあります。

とはいっても、性全般の話題を嫌悪する女性や自分に何の好意も抱いていない異性に対して、突然、卑猥な性の話題を振るのはセクシャル・ハラスメントの問題が指摘される恐れもありますので、相手との関係性や相手の性的価値観に対して十分に慎重であらねばなりません。

一般的に、一次性強化子に関する欲求を抑圧し過ぎると対人魅力を低く評価されるケースがありますが、これは男性・女性の性差に関係なくそれぞれが『自分が選好する一次性強化子の獲得戦略』を持っているからです。

完全に道徳律を遵守する禁欲主義者は、相手の卑俗な欲求に対する罪悪感を強める『心を反照する鏡』としての効果を果たすので、異性関係に限っては対人魅力を低下させる恐れが強くなります。

それと同様に、俗物根性を丸出しにして性的快楽を道具化するような発言をする人も、人間の異性に対する独占欲求の否定につながり、ロマンティックな異性関係を台無しにするので対人評価を低くします。

いずれにしても、禁欲が行き過ぎれば偽善や気取りを批判され、欲得が行き過ぎれば愚劣や浅薄を指摘されるというように、万人に好感を持たれて高く評価されるコミュニケーション形態はありませんので、適当に相手の欲望に関する基本姿勢を承認しながら、自分は自分として自己の立場をさり気なく主張していくしかありません。

正確には、人類の行動の最も根底的な動因は一次性強化子(知的欲求の快の報酬も含む)の獲得にあり、その事が関心事でないという人はまずいないのですが、あからさまに一次性強化子をちらつかせる事に対して人間の反応は『同調・迎合』『軽蔑・抵抗』の2つに分かれます。


人間の動物的側面を相互承認する『同じ穴の狢コミュニケーション』

社会的場面では、文明社会の道徳規範や常識概念を受容して禁欲しているけれど、自分もあなたも一皮向けば『性・金・快楽』に溺れる俗物ですよねという事をお互いに承認して、道徳的堕落やフラストレーションを緩和する。

お互いに本能的欲望を率直に暴露し合い、俗欲に通じる倫理的ないい加減さを認め合うことで『自分だけがこんな欲望に振り回されているわけではなく、皆、同じなんだ』という同質性の仲間意識を強めたいという意図がある。

相互の自尊心の防衛を撤去するような体育会系コミュニケーションもこの形態だが、集団生活の場で生活してプライベートの時間や空間を多く持たないことがこのコミュニケーションパターンを身につける土台となる。

倫理的な自尊心や文明社会的な思慮深さは、ある程度のプライベート領域(他者の踏み込めない領域)を持つ事によって醸成される。その為、寝食を共にする部活や軍隊などの集団生活ではプライベート領域の保持が難しく、性を中心とした俗欲を隠蔽し続けることが困難になるため、『かくしてばれる羞恥』よりも『暴露し合って笑い飛ばす安心』をコミュニケーション戦略として選択するのである。

彼らは『自他の境界線』を意識的あるいは無意識的に曖昧化することで、『同じ釜の飯を食った仲間』『裸の付き合いを経た特別な親友』という意識を段階的に強化していく為、オタク系コミュニケーションに例示されたような『本心や本能を知や道徳で隠蔽しようとする態度』に違和感や不可思議を感じる。

その違和感は、『何で自分がここまで自己開示して弱みを見せているのに、こいつは自分だけ頑なに善人ぶって自分の本性を隠そうとするのだ』という同質性を攪拌する異質性に対する違和感だと考えられる。


人間の倫理的側面を相互確認する『尊厳保持のコミュニケーション』

人間固有の尊厳は、動物と違って性行為・排泄行為・貪欲などの本能充足行為を隠蔽して行い、『俗欲の開示が許されるプライベート』『社会常識・倫理規範に従うべきパブリック』のけじめをつけるところにあると考えるコミュニケーション。

体育会系の人たちは、友人知人との仲間意識は、同じ組織集団(会社・学校・部活)に所属することによって自動的に発生するものだと考えているが、この『尊厳保持のコミュニケーション』を好む人たちは仲間意識を持つ相手を厳選する傾向があり『同じ穴の狢コミュニケーション』には抵抗感を感じる。

つまり、同じ会社や学校に所属しているから仲間という認知形式に彼らは賛同せず、『自分と近似した価値観や趣味思考、一次性強化子に対する振る舞いを持つ者』のみに仲間意識を抱く傾向がある。
また、仲間であるからといって、自分固有のプライベートに土足で踏み込むような無作法な真似には我慢できず、体育会系特有の親近感や気安さに基づく暴露トークには不快感や厚かましさを感じる。

所属組織は飽くまで学歴や生計の糧を得る為に通う場所であって、仲間を分類する基準ではないという認識があるので、裸の付き合いや包み隠さぬ自己開示を要求されるような部活や軍隊などの規律訓練組織への所属を回避しようとする傾向がある。

『尊厳保持のコミュニケーション』は、全てを包み隠さず自己開示することは人間を低レベルな本能の次元に落とし込めるという前提を持ち、相手のプライベートな時間・空間に配慮しない自他の境界の曖昧な図々しさに憤りを覚える。

今、不意に襲った着想だが、恋愛関係においても『恋人の事は細大漏らさず全て知っていないと気がすまない。秘密や隠蔽は自分を信頼していない証拠だ』という同じ穴の狢を求めるコミュニケーションと『自分にも相手にも話したくない秘密や過去の一つや二つがあって当然だし、幾ら恋人・夫婦でも自分固有のプライベートは絶対に必要だ』という尊厳保持のコミュニケーションのパターンに分かれるのではないかという気がする。


もう少し心理学的に踏み込めば、相互的な承認欲求を充足する為にはどのようなコミュニケーション戦略を取れば良いのかという認識の表れが、コミュニケーション形態の差異となって現れてくるのです。

今までの人生体験で自分はどのような自己開示を行う事で人間関係を取り結んできたのか、今までの恋愛関係で自分はどのように相手への生理的欲求や性的趣味を伝達して成功してきたのか、といった極めて常識的な経験論的検証の積み重ねがその人が中心的に用いるコミュニケーション形態の原形を形成していきます。


最後に、性的欲求の自己開示や馬鹿さ加減の表明の体育会系コミュニケーションにどうしても順応できないという人への(ちょっと不謹慎な)アドバイスをするならば、性的欲求に関しては『リビドーを一般的性欲に強引に翻訳するような俗流精神分析の猥談応用』『脳科学や性淘汰理論を流用した性行為の科学的解釈(遺伝子保存から考える性衝動や繁殖戦略と性的な快反応の関係など)』などを面白おかしく会話に持ち込むことが効果的なのではないかと思います。

あからさまな猥褻な言語を用いずして、自分のエロス(性的欲求・生の欲望)の存在をアピールして、その性的欲望の充足形式の複雑さや個性的な趣味を開示するという意味では、口愛期・肛門期・男根期・潜伏期・性器期などの精神分析用語をうまく現実的な性現象と結びつけて鹿爪らしく語る行為は、『こいつ、普段は真面目そうな感じなのに、頭の中では結構、複雑な性の欲望を抱えてるんだな』みたいな反応を惹起することが出来ます。

『知性のオブラートで原始的な本能的欲望を包んでやる』というのは、体育会系コミュニケーションに限らず、異性との楽しい恋愛トークにも応用可能な意思疎通のテクニックでもあります。
卑猥感や低俗感のある会話に抵抗を感じる人で、『その場の雰囲気』に合わせなければならない人は、『個人的体験から一般的原理(脳・心理学・精神分析・生物学)の方向へ話題を誘導』してみたり、『全ての行動の源泉は、リビドー(性的欲動)の不満足(による緊張)に還元されますからね』と何でも生理学的なリビドーで説明できる事(性一元主義)を主張すれば良いかもしれません。

毎回毎回そういった体育会系コミュニケーションへの適応に悩まされるという人は、『直接的な性欲の開示』を回避できるようなトピックが数多く収載された進化生物学や性淘汰理論の解説書が数多く出版されているので、何か面白そうな書籍を一冊購入してそういうトーク専用のネタを幾つか暗記しておいて機械的に提示するといった方法もあるでしょう。

汎用性の高い性事象に絡むトピックとして、売買春禁忌の倫理学や性や金銭の欲求に関する倫理学、結婚制度と性的パートナー固定の歴史的意義、母権主義と父権主義と宗教の変遷など、一般的な雑談としても多くの人が興味を持ちやすいトピックは数多くありますので、このテーマなら何十分でも語れるというトピックを幾つか持っていると『体育会系コミュニケーションへの適応性』は高まるかもしれませんね。

セクシャリティと金銭に関係するあからさまな欲望の暴露と伝達というのは、最も根源的な人間の志向性と社会的な倫理観とが相克するものですから、どうしても快と不快の反応が複雑に交錯してしまう難しい話題ではあると思いますが。


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はてなダイアリー―プライバシーとは

プライバシーの起源としては、1890年にアメリカのS.D.WarrennとL.D.Brandeisが論文『The Right to Privacy』(プライバシーの権利)の中でプライバシー権とは「the right to be let alone」(一人にしておいてもらう権利)であると定義したのが始まりといわれている。


■書籍紹介
恋人選びの心―性淘汰と人間性の進化 (1)

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