村上春樹『海辺のカフカ』の書評:1

村上春樹の筆が描く世界は、何処か儚く、今にも壊れてしまいそうな脆さに満ちていながら、人間の精神と世界のあり方を細くしなやかな鋼線で結び付けている。
その鋼線は冷たくしなやかに私の心を縛り、実存の彼方へと解き放ち、自己と対象の間で親和反応を起こす愛を性のヴェールの中で表現しようとする。

私が村上春樹の作品を初めに読んだのは『ノルウェイの森』であり、今から10年以上も前のことで、奇妙な内的世界のリアリティの強度と救いの乏しいニヒリスティックな世界観が印象に残っている。
永遠に充足されることのないワタナベ君の直子に対する対象愛は、結局のところ原初的な発達早期の自己愛へと回収されて、ワタナベ君も直子も死せるキズキの亡霊としての表象にとらわれ続けるのである。

それは、愛情の対象を喪失した底深き悲哀を、性の快楽で埋め合わせようとして埋め合わせ切れない徹底的に冷厳な心の空隙である。
それほど強靭な精神力を持っていない人間の多くは、絶望的な対象喪失や圧倒的な苦悩を前にして、ワタナベ君のような呪文を唱えるだろう……『あらゆる物事を深刻に考えすぎないようにすること、あらゆる物事と自分の間にしかるべき距離を置くこと』といった呪文を…。

私の原風景の中で静かに流れゆく村上春樹の小説の通奏低音は、恋愛感情と分離したリビドーの充足であり、世界や他者に適応し得ない青年の煩悶なのである。
しかし、『海辺のカフカ』の主人公である若干15歳の田村カフカは、ワタナベ君のような自己愛の殻に閉じこもる類の呪文を唱えることはない、何故なら、彼の精神は、彼の異性へと差し向けられるリビドーはまだ自分の外部へと十分に溢れ出ていないからだ。
あらゆる意味において、『海辺のカフカ』は『ノルウェイの森』という過去の著作なくして誕生し得なかった作品だという思いが私にはあるし、私はこの二つの作品の人間関係に相似性を見出す。

『私の原風景の中で』という上記の文章を指先で叩くとき、ふと、村上春樹の世界の中に登場してくる主要な男性のキャラクターはほとんど、自分のことを「僕」という一人称で呼ぶことに気づいた。
村上春樹が書き表す小説世界はある意味で、現実世界との接点を失っている、その仮想と現実の境界線上に位置どる登場人物はやはり自分のことを「僕」とナルシシスティックに内省的に語るべきなのだ。

おしなべて彼の造形する登場人物が、外向的ではなく内向的であり、社会に親和的でなく異和的なのは、「俺」や「私」ではなく「僕」だからなのかもしれない。
多くの男性は、一人称をあるときから「俺」に変え、あるときからパブリックな「私」に変えていく。
そして、そんな社会の中で「僕」という一人称を敢えて選択することは、青年期的な感傷や懐疑や内省を完全には捨てていないということを示すのだ。特に、村上春樹的な世界では、「僕」は成熟しきれないアンビバレントで不安定な自我の状態を示唆しているのではないか、そういう風に私は感ずるのである。

村上春樹自身がフロイトの精神分析を意識しているのかいないのか私には知る由もないが、今回、感想を書こうとしている『海辺のカフカ』は明確にエディプス・コンプレックスというタームを用い幻想的な家族関係に翻弄される物語の基盤を提示している。

まだ義務教育も終えていない15歳の少年田村カフカは、精神内界に存在するカラスという少年の人格と語らいながら、一人で家を出て自立的な生活をしようと決意する。
両親の庇護を離れて厳しい社会で生き抜く為にカフカは、己の精神を強靭に保ち、己の身体を頑強に鍛えていかなければならない……カラスという別人格の少年は囁く……『君はこれから世界でいちばんタフな15歳の少年にならなくちゃいけないんだ。なにがあろうとさ。そうする以外に君がこの世界を生きのびていく道はないんだからね』と。

この場面に象徴されているように、この物語の一つの主題は、少年の精神的身体的な成長なのである。
田村カフカは、平均的な少年よりも早熟であると同時に繊細で敏感であり、この『世界の内部での居場所』を妥協なく探し求めている神経質なところがある。強迫的な完全主義と依存的な母親の心情があるが故に田村カフカは家庭から自分の意思で離れなければならなかったし、母親から見捨てられたという虚無感が「自立的なタフな精神と困難に負けない強靭な肉体」をカフカに希求させたのである。

少年の精神的成長とは、言い換えれば、家族内部への愛着関係からの離脱であり、社会的アイデンティティの確立に向けて試行錯誤し逡巡して葛藤する早熟な少年の姿を、現代の若者像に重ねているものということができるだろう。
『海辺のカフカ』のストーリーは、15歳の少年が誕生日の日に家出をして遠い四国の町へと旅立っていき、そこにある図書館で魅惑的で不安な日々を過ごすという話であり、フロイトのエディプス・コンプレックスを超克して母親への愛情を断ち切り、父親への憎悪を乗り越えるという話なのである。

精神分析で男根期(4~6歳)に見られるとされるエディプス・コンプレックスでは、近親相姦願望が前提されている。現代の実証性を重視する発達心理学では『母親への性的な欲求や関心』という意味でのエディプス・コンプレックスはリアリティをおおかた失っているが、『海辺のカフカ』ではそのリアリティがソフォクレスのギリシア悲劇『オイディプス王』の鮮やかなシミュラークル(模倣)として保障されている。

『海辺のカフカ』の書評を離れれば、エディプス・コンプレックスは家族へ向けられる性的衝動を抜きにして考えるほうがより現実的であるし、その事については過去に『社会的アイデンティティ確立の為に家族内部への情緒的葛藤を乗り越え、社会規範や倫理規範を内在化する時期がエディプス期』であるという話をした。


“包み込む母性原理”と“切断する父性原理”:エディプス・コンプレックスと阿闍世コンプレックス

三者関係のエディプス・コンプレックスの葛藤を経験する意義は、『母親への性的関心の断念』と『幻想的な母子一体感を切断する父親の登場による超自我の芽生え』である。
近親相姦禁忌や母親の性的関心というと非現実的な感覚に襲われますが、エディプス期は母親への強固な依存と愛着を弱めていく時期と解釈すれば分かりやすい。

それは、親密な閉じた家族内関係を克服して、見知らぬ他者との社会関係へと自分を開いていくという意味を持ち、心理的自立の小さな第一歩とも言える。
見知らぬ他者とは、単純に家族外部の人間という意味ではなく、『一方的な甘えや依存によって自分に対する世話や愛情を引き出す事が不可能な他者』という意味である。

社会環境で自立して生きていく為には、人間関係を家族から家族外への他者へと発展させていくことで『家族の一員』であると同時に『社会の一員』とならなければならない。
社会の中で生きていく為の相互利他的な“社会規範・倫理規範”を学習して内在化する時期が“エディプス期”であり、社会の中で出会う他者の原型を模範的に示すのがエディプス・コンプレックスにおいて去勢不安をもたらす“父親(父性的な厳格性・規範性・現実性)”なのである。



『オイディプス王』の家族神話的な物語の概略や『父・母・子の三者関係の情緒的葛藤』については、過去に“『オイディプス王』の悲劇と家父長的な家族神話の観念的葛藤”という記事で詳細を述べているので興味のある方は読んでみて欲しい。
この記事で、私はギリシア悲劇に共通する主題は『決定論的な運命と自由意志の相克』であると考えたのだが、『海辺のカフカ』も最終的には『決定論的に下された父親の予言』の超克に挑むドラマといった様相を呈している。

話の途中で田村カフカのカフカは、実在した作家フランツ・カフカから拝借したのであり実名ではないという事が明らかにされる。
チェコのプラハに生まれたフランツ・カフカ(Franz Kafka,1883-1924)という作家を簡潔に語るのは難しいし、何故、主人公の少年にカフカという名前を冠したのかという村上春樹の意図は想像するより他にない。

カフカはその代表作『変身』でグレゴール・ザムザの理由なき不幸な虫への変化を描き、『城』で目的を達することのできない官僚主義の冗漫性や社会の混沌を記したように、カフカは生涯続けた執筆という作業を通して一貫して「生の意味の無根拠性」「世界の事象の不条理」を実存的な生の形式に結びつけようとした。
不条理な現実世界の中で、非現実的な混沌とした作品を書き続け、まさに唐突な病によって天命を待たず死んでいった不思議な人物である。

カフカは結婚をしなかったし、幾度かの恋愛に挫折し続けたし、民族的なアイデンティティも絶えず不安定であった。オーストリア=ハンガリー二重帝国に帰属した19世紀当時のチェコで、マジョリティであるチェコ人はマイノリティであるドイツ人に支配されていたし、カフカはその作品を日常会話に用いる言語であるチェコ語ではなくドイツ語で書いたのである。

その上、カフカはユダヤ人であり、帰属すべき約束の土地から追われた民族として国家と自分を結びつける近代的な民族アイデンティティの確立も非常に難しかった。
田村カフカとフランツ・カフカの共通点とは、二人とも『私がこの世界において何者であり得るのか』というアイデンティティ獲得の問いかけを真摯に行い続けている探求者であるということである。

田村カフカの父親は、古代ギリシアのデルフォイ(デルポイ)の神殿の巫女のように、カフカに向かって冷徹で残酷な予言(託宣)を下す。
『お前は、父親である私を殺し、母親や姉と交わることになるだろう』というエディプスの予言は、奇妙な現実世界での巡り合わせの中で実現していくように、田村カフカには見えるのだけれどそれが本当に現実の出来事なのか物語の中で確実に判断することは出来ない。

母親は、血縁のない姉を連れて家を出て、血のつながったカフカを捨て、カフカは父親のいる家を捨てて、遠い四国の土地へ旅立ち、そこの歴史ある不思議な図書館で寝起きするようになる。その甲村記念図書館では、不思議な魅力を持ったユニセックスな人物・大島さんが受付をしていて、若かりし頃に『海辺のカフカ』という象徴的な歌を作曲して歌った佐伯さんが館長をしている。
佐伯さんは、学生運動が盛んだった全共闘時代に青春時代を過ごした女性で、幼馴染だった最愛の恋人を無意味な内ゲバで殺されてしまう……その後、一時期行方知れずになっていたのだが、四国の故郷に戻ってきてからは、恋人が残した図書館の業務をこなしながら静謐で植物的な生活を淡々と送り続けている。

ここでは、田村カフカのストーリーを中心に書評を書いたが、もう一つのメインストーリーとして、戦時中の子供時代に、女教師の性的な羞恥心に触れてしまい、平均的な知能を喪失したナカタさんの話がある。
カフカとナカタさんの話は交互に同時並行的に語られるのだが、テンポよく読み進められる小説のストーリーとしては、猫の言葉を理解しておしゃべりできるナカタさんの物語のほうが面白いかもしれない。

ナカタさんは、突然、何かの啓示を受けたかのように四国の高松に行くと言い出すのだが、ヒッチハイクをしていてトラック運転手の星野青年と出会う。
特に、ナカタさんを死んだ爺ちゃんの生まれ変わりのように慕う心優しい星野青年と知り合ってからの二人の珍道中では、いろいろな出来事が次々と起こって退屈する暇がまったくない。

ナカタさんと星野青年が出会う以前の最大の事件として、ジョニー・ウォーカーという連続猫殺しの犯人とナカタさんとの対決がある。迷子の猫探しをしているナカタさんが、その猫殺しの人物と極限状況において対峙し、文字通り虫も殺せないようなナカタさんが悲壮な決断をする。
この場面は非常に残酷で血なまぐさいもので、カフカのような年代の少年がこの小説を読むべきなのか否かを考えさせられるような場面であるし、人間が歴史的に繰り返してきた生存や利害を巡る闘争のラディカルなメタファーになっている。






■書籍紹介
海辺のカフカ (上)

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