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共産主義国家を目指す『中華人民共和国』を1949年に建設した中国共産党のリーダー、毛沢東。日本人であっても近代中国の絶対的独裁者として君臨した毛沢東(1893-1976)の名前を知らない人はまずいない。毛沢東が指導して膨大な数の犠牲者を出した無謀な生産倍増計画の『大躍進』や原理主義的な思想改革運動の『文化大革命』についてもよく知られているが、毛沢東がどのようにして中国共産党のトップに上り詰め、蒋介石率いる国民党に勝利したのかの詳細を知っている人は少ないのではないだろうか。本書は、物語形式で読める毛沢東の伝記であり、中国共産党とコミンテルンが用いた脅威的な政治戦略の履歴でもある。 毛沢東は人権思想や自由民主主義(議会政治)が普及した近代国家では登場しないタイプの独裁者であり『中国最後の皇帝』と揶揄されることもあるが、毛沢東は家族や同志も含めて『他者に共感すること・情(義理)に動かされること』を知らない徹底した合理的なエゴイスト(利己主義者)であった。国民党も抵抗勢力を弾圧する苛烈な支配を敷いたが、中国共産党が戦前戦後にもたらした余りに甚大な災厄と搾取・恐怖を思えば、圧政の被害に遭った中国人民の不幸は、蒋介石に戦略的な先見性が無かったこと(国民党内部に共産党のスパイが多く潜伏していたことも含め)と毛沢東が戦後も長命だったことに由来しているのかもしれない。 1930年代には、100万を遥かに越える軍を擁する蒋介石の『国民党(南京政府)』にとって、せいぜい数千〜数万程度の軍しか持たない『中国共産党』は全く脅威ではなかったのだが、この大きな勢力の格差が10年余りで完全にひっくり返されたのが歴史の怖さ・不可思議というものでもある。蒋介石が中国共産党と張学良の謀略によって拉致・監禁される『西安事件(1936年)』が起こるまでは、中国共産党は国民党に敵対する非合法な政治組織として『共匪(きょうひ)』と呼ばれているに過ぎなかった。しかし、西安事件後に国共内戦がいったん終結して、中国共産党は国民党から正式な政党として認められることになる。 本書『マオ 誰も知らなかった毛沢東 上』では、毛沢東が中国全土を支配するまでの前半生が書かれているのだが、毛沢東自身は共産党に入党してからも筋金入りの共産主義者(マルキストの理論家)ではなかったし、中国本土から日本軍を追い出そうとして熱心に『抗日戦争』を戦ったわけでもなかった。 毛沢東は中国共産党の公式見解では、『抗日統一戦線』を組織して勇敢に戦った救国の英雄とされているが、毛沢東は国民党と日本軍を衝突させて両軍の勢力を削ぎ落とし『漁夫の利』を得ることに専心することで、中国征服の足がかりを築いたのである。何より毛沢東が本当に軍の最前線に立って指揮するような勇敢なリーダーだったのであれば、1930〜40年代のどこかの紛争・内乱であっけなく落命していた可能性が高い。 毛沢東は『危険な戦地・前線』に自ら率先して乗り込んで兵士の信頼を得るようなリーダーでは無かったし、どちらかというと同志にも兵士にも敬遠されて嫌われるタイプの『保身に抜かりのない権力家・策謀家』だった。毛沢東は巧みに自分よりも強大な共産党幹部の軍を次々乗っ取ることによって勢力を拡大し、『レッテル貼りに基づく非難決議・自己批判の強要』によって他の共産党幹部の自尊心を打ち砕いて自分と対等な地位・功績を奪っていった。モスクワの支援を受けながら党内部の権力闘争で圧倒的な勝利を得たことが、その後の毛沢東の国家主席に向かう地盤を固めることになる。 毛沢東よりも兵士に慕われて支持されている中国共産党の実直な幹部として朱徳(しゅとく)や彭徳懐(ほうとくかい)、張国Z(ちょうこくとう)などがいたが、彼らは陰湿さや計算高さ、人心操作を要する『共産党内部の権力闘争』において、毛沢東の冷徹な策謀・計略に対抗できるだけの狡知を持ち合わせておらず、次第に毛沢東の下位に位置づけられていく。 毛沢東の腹心となって中華人民共和国の首相として活躍した周恩来(1898-1976)などは、元々、共産党内部では毛沢東よりも序列・経歴ともに上位であったが、ナンバー1として党を牽引する権力欲や野心(自信)に欠けていたため、毛沢東の性格的な押し出しの強さに圧倒されて精神的に服属するようになってしまう。周恩来は毛沢東よりも格段に生真面目な共産主義者であったので、ソ連のモスクワ(コミンテルン)の意向に従って毛沢東に権力の座を率先して明け渡した面もあるが、性格や野心において毛沢東に対抗できるだけのタフネスが無かったのも確かだろう。 毛沢東にとって『危険な戦争事態』は、自分のライバルとなり得る共産党幹部の軍事勢力を削減する好機でしかなく、自分よりも優勢と見られる勢力同士をぶつけ合わせる謀略を巡らせることに抜きん出た才覚を持っていた。同志からも部下からも嫌われたり恐れられたりすることが多かった毛沢東がなぜ中国共産党の絶対権力者になれたのかの理由は色々あるが、第一はモスクワのコミンテルン(第三インターナショナル)が貪欲な最高権力への欲望を持っている毛沢東を『指導者の器(権力奪取のために何でもやれる男)』として認めていたことがある。 そのため、他の中国共産党幹部が『毛沢東には権力を悪用する個人独裁の志向性がある・コミンテルンの指示に従わず勝手に独走している・革命根拠地で行き過ぎた暴動や虐殺を煽動している』とモスクワ(コミンテルン)や上海(中国共産党本部)に通報しても、モスクワは毛沢東に『懲戒・降格・追放』などの指示をせずに幹部としての地位を追認していた。どれだけ規則や指示を破っても自分はモスクワ・上海から非難されることが無い(自分は共産主義運動に必要な人材と認識されている)と知った毛沢東は、ますます権力者としての野心を露わにして党内での権力基盤を固めていく。 中国共産党は『資金・武器の供与』をソ連のコミンテルンに全面的に頼っていたので、中華人民共和国が成立するまではモスクワの指示・命令に逆らうことは基本的にできなかった。1930〜40年代のソ連から見ると中国は『日本の軍事進出に対する防波堤』の役割を果たしており、『世界同時革命』を遂行するための重要拠点(衛星国)に位置づけられているに過ぎなかった。 本書は『虚像としての共産主義指導者・毛沢東』とは対照的な『実像としての徹底した利己主義者・毛沢東』の歴史を再構成している書籍であるが、中国全土を征服する以前の段階から、毛沢東が『極端な恐怖・粛清・暴力』を人民統治の手段として非常に好んでいたことが繰り返し描かれている。享楽的な特権を享受することを好んだ毛沢東は、『貧しい農民・兵士・労働者への共感』を全く持たなかったが、『階級闘争』を大義名分とする無益な略奪や暴行をアジテートする才能には優れており、人間の暴力的な本能と利己的な欲求を利用して支配体制を固めた。 1920〜30年代に毛沢東が指導者となった江西省・井岡山などの革命根拠地では、地主・資本家・クラーク(富農)・AB団(アンチ・ボルシェビキ)を制裁・粛清するという『名目』の元に、実際には単なる私利私欲と嗜虐趣味のための『略奪・拷問・暴行・放火・公開処刑』が繰り返されて、裕福でも何でもない一般の農民も焼き打ち・略奪・暴力の被害に遭った。毛沢東が支配した革命根拠地は、『一般庶民からあらゆるものを奪う無秩序』の中に『圧倒的恐怖による秩序』が暫時的に築かれるだけの無惨な状態に陥っており、貧しい農民や労働者の大半も、共産党ではなく国民党に味方する始末であった。 1931年11月7日に、中国中東部を拠点(首都・瑞金)として一時的に成立した『中華ソビエト共和国』は、人民のすべてを『金銭・労働力・軍事力・食料の道具的な供給源』と見なして恐怖政治・密告政治で搾取し尽くす極めて悪質な政権であった。1934年10月に、蒋介石の『第五次圍剿(いそう)』によって中華ソビエト共和国は瓦解し、根拠地を捨てて逃走した毛沢東らの中国共産党は伝説的な『長征(ちょうせい)』に取り掛かる。 1934年〜1936年に掛けての逃避行である『長征』は、江西省瑞金から陝西省延安まで行軍する過酷なもので、数万人の死者と大勢の脱走兵を出しているが、この長征の過程で毛沢東が政治的な指導権を確立したため、中国共産党の公式見解では長征は近代中国の始点として高く評価されている。本書では、その長征の虚構性と毛沢東の私欲のための兵士の膨大な犠牲が暴露され、『長征の成功』は国民党の蒋介石が仕組んだ地方支配のための謀略が裏目に出た結果としている。蒋介石の謀略というのは、共産党の紅軍を貴州省・雲南省・四川省を引き込んでから、国民党がそれらの省の軍閥の要請を受けて紅軍を叩き省の支配権を握るというものであった。 日中戦争が勃発した時点の毛沢東が、まったく抗日運動家(反日主義者)などでは無かったことを明確に示している点が興味深いが、その理由は『抗日戦争』よりも『国共内戦』のほうが中国共産党にとってのメリットが大きかったからで抗日戦争に熱心だったのは国民党であった。 蒋介石率いる国民党が共産党に敗れた背景には、蒋介石の妻とその親族(宋子文・孔一族)が引き起こした政治腐敗・不正蓄財によって、国民の信頼と支持を一挙に失ったことも関係しているが、共産党は『組織拡張力・諜報戦(スパイネットワーク)・情報戦』において国民党を圧倒しており、終戦以後(1945年以後)の国民党は裏切りと政治腐敗によって半ば内部崩壊したようなものだったとも言える。 そして、中国の絶対的権力者となる毛沢東は、自己の特権には甘いが家族親族にも特権を分け与えることは無く、モスクワに息子の蒋経国(しょうけいこく)を人質に取られて身動きが取れず、妻の宋美麗の不正蓄財を看過したりする蒋介石のような『親族に対する情緒・甘さ(中国人特有の血縁主義)』と無縁であった。毛沢東は自身の子に対しても特別な愛着を持たず極めて冷淡であったが、毛沢東の妻になった女性(楊開慧・賀子珍)もことごとく見捨てられて悲惨な境遇に陥っている。 毛沢東の自分以外の誰も心から信用せず、家族であっても他者の苦痛や不幸には共感しないという特異なパーソナリティは一貫して際立っており、『家族・配偶者・血縁者』さえも基本的に特別扱いしないというのは、歴史上に出現した他の独裁者を見てもかなり珍しいタイプの人物ではないかと思う。 権勢への野望と自己顕示欲が強い4番目の妻・江青(こうせい)だけは、思想統制・権力闘争・人民弾圧の『文化大革命』を4人組の一人として主導するなど、一時的にだが権力のもたらす毒に酔った。しかし、毛沢東の死後にケ小平・華国鋒ら反文革派の反撃を受けて、江青は1981年に犯罪者として死刑判決を受け1991年には自殺に追い込まれた。中国最後の皇帝とも言うべき絶対権力者の毛沢東であるが、恐怖政治で統制・搾取を受けた中国人民のみならず、毛沢東の周囲にいて一定の恩恵を受けたはずの家族・側近でさえも、(毛沢東本人を除いて)その多くが幸福で安心な人生をまっとうすることが出来なかったのは象徴的である。 ■関連URI 清王朝における儒学的な中華思想(華夷秩序)の変質と雍正帝による中外一体(一君万民)の原則 ローマ帝国の皇帝権力の変質:元首政から専制君主政への移行 中国王朝の中華思想・易姓革命による歴史観と満洲族(女真族)による“清王朝”の建国 ■書籍紹介 マオ―誰も知らなかった毛沢東 上 講談社 ユン チアン ユーザレビュー: 今の中国を作った男を ... 三文小説本書は200 ... インテリジェンス(国 ...Amazonアソシエイト by ウェブリブログ 中国がわからない! (ナレッジエンタ読本16) メディアファクトリー 青木裕司(河合塾世界史講師)×片山まさゆき(漫画家) ユーザレビュー: とにかく分かりやすい ... 漫画から故に、歴史に ... 自虐史観主義なら…。 ...Amazonアソシエイト by ウェブリブログ |
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尖閣諸島沖の中国船衝突事件のあらましと戦後日本の領土問題1:残されていたフジタ社員の釈放
尖閣諸島沖で起こった中国船衝突事件では、中国の外交圧力に押されて公務執行妨害容疑で逮捕されていた中国人船長・セン其雄が釈放され、菅政権への国民の批判が強まった。菅政権の仙石由人官房長官は、中国人船長釈放は沖縄県の那覇地検の外交的配慮を伴う判断であって、政府は検察に介入すべきではなくこの判断を了とすると延べ、主権と軍事緊張の関わる重要な外交問題で『中国との正面衝突』を回避する軟着陸を選択した。 ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2010/10/11 03:26 |
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