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羽柴の名字を持つ“羽柴秀吉”は“豊臣”という関白家の姓を手に入れて、藤原氏を凌ぐ『(天皇由来の)律令的権威』を手中にしましたが、秀吉の最終目標は名実共に日本の最高権力者となることであり、その為には日本の伝統的権威の源泉である天皇家を何らかの手段で超越する必要性がありました。権威・権力の源となる血統も官職もない農民(百姓)の子として生まれた豊臣秀吉が一廉(ひとかど)の武将(大名)となるだけでも驚異的なことですが、全国の大名を武力で服従させる奇蹟とも言える天下一統を成し遂げた秀吉は、関白太政大臣という朝廷における人臣の位階を極めてもそれで完全に満足したわけではありませんでした。豊臣秀吉が最終的な目標としたのは、上位審級(天皇)に従属する“人臣の最高位”ではなく自らが至高の上位審級となる“独立的な君主”であり、その目標の達成のためには公的な主従関係において必ず“主の立場”に立つ天皇の権威を凌駕する必要がありました。 秀吉ははじめ京都にいる天皇を大坂に強制移住させることで自らの権威を天下に知らしめる計画を持っていたとも言われますが、秀吉は1584年の小牧・長久手の戦いで徳川家康・織田信雄の連合軍を倒せなかったために、朝廷(天皇)の権威を完全に無視して武力だけで天下を制圧することが難しくなりました。秀吉は形式的には1586年に家康を臣従させることに成功しますが、直接的な武力衝突で家康を敗北させたことがないことにより、五大老の筆頭格である徳川家康は豊臣政権下における危険因子として暗黙裡の脅威となっていました。 豊臣秀吉は臨終の間際に家康を側近くに招き寄せて、『自分の死後には、後継者の秀頼のことをくれぐれもよろしく頼む(しっかり家臣として秀頼を補佐し豊臣政権を継続させてくれ)』と遺言して後事を託したとされますが、それは秀吉が誰よりも徳川家康の軍事的才覚の優秀さを知っていたからであり、家康が幼少の秀頼に反旗を翻せば豊臣政権が継続することが難しいと心配していたからです。そして、その懸念通りに徳川家康と豊臣家は対立することになり、天下分け目の関ヶ原の戦いを挟んで大坂冬の陣・夏の陣によって豊臣家は滅亡させられてしまいました。 豊臣秀吉の晩年に決行された二度の朝鮮出兵(1592年の文禄の役・1597年の慶長の役)については、秀吉の誇大妄想の末路であるとか計画性のない無謀(非道)な遠征であるといった厳しい評価が多いのですが、明(中国大陸)征服を見据えた朝鮮出兵には複合的な要因があり秀吉単独の野心だけでは十分に説明がつかないという説もあります。李氏朝鮮と明の征服事業そのものは、織田信長が既に全国統一後の国際的な軍事戦略として計画していたとも言われます。太閤となった晩年の豊臣秀吉が朝鮮出兵を断行した理由としては、『秀吉自身がアジア全域の皇帝になろうとした誇大的な野望・天下統一後の兵力の余剰による公共事業的(失業対策的)な戦争・ポルトガルやスペインといった伝道師を派遣するキリスト教国の明征服事業(アジア進出)の可能性』などが想定されているようです。この中でも特に、イエズス会の宣教師たちの書簡によって示される『スペインによる明・日本の征服事業(宣教師の計画段階の発案)』が秀吉の朝鮮出兵の決断に与えた影響は見落とされやすい点です。 スペイン本国は日本や明(中国大陸)の軍事侵略を本気で考えてはいませんでしたが、アジア各地(日本・明)に派遣されたイエズス会の宣教師たちの一部には、トルデシリャス条約(1494年)以降の『スペインの世界征服事業(キリスト教布教事業)』の一環として明・日本を見ている者がいました。大航海時代におけるポルトガルやスペインのキリスト教の布教活動は軍事侵略の先駆けとしての側面も持っており、ラテンアメリカ(中南米)のインカ帝国やマヤ文明が滅ぼされたように、カトリックの布教活動と植民地獲得の軍事侵略が一体化した形で遂行されることが多かったのです。 『太陽の沈まない帝国』と称された最盛期(16〜17世紀前半)のスペインによる異教徒の征服(植民地事業)は、キリスト教の布教活動や異教徒の改宗と密接に結びついていました。日本にいたイエズス会のアレッサンドロ・バリニャーノはスペイン国王フェリペ2世(1527-1598)に『軍事力の脆弱な明(シナ)征服事業は容易だが、戦国時代で軍事力の強い日本征服は容易ではない』といった内容の書簡を送っていますが、フェリペ2世はキリスト教カトリックの守護者としてカトリシズム(キリスト教普遍主義)による世界統合という壮大な使命感を抱いていたと言われます。 フィリピンに駐在したマニラ司教のフライ・ドミンゴ・デ・サラサールも『インド・中国全域の支配者であるスペイン国王フェリペ2世には、明(シナ)統治の正統な権限がある・日本の軍事力を活用すれば明(シナ)征服事業は更に容易となるだろう』といった内容の書簡を送っており、フェリペ2世自身には明征服の意図はなくてもアジアに派遣されていた宣教師の中には明・日本の征服(キリスト教による教化)に意欲的であった人物が少なくなかったようです。中国帝国には中国こそが最も優れた文化文明の中心地であるという『中華思想』がありましたが、ポルトガルを制圧した最盛期のスペイン王国には『沈まぬ太陽』としてのキリスト教(一神教の神)を背景とした世界征服思想があったと言えます。豊臣秀吉が伴天連追放令(1587年)を出した背景には、キリスト教の排他的性格や寺社仏閣の破壊と合わせて、イエズス会宣教師のガスパール・コエリョが見せた恫喝的態度も関係していたとされます。幕末の史書では、秀吉が宣教師との交流によってスペインのアジア侵略(明・中国侵略)の意図を見抜いていたともされますが、伴天連(バテレン)追放以後に秀吉の『唐入り(明征服)』を目的とした朝鮮出兵の方針が固まっていきます。 そのことを考えると、イエズス会の宣教師から得た情報が秀吉の唐入り(明征服構想)の決断に何らかの影響を与えた可能性はあると思います。また、バリニャーノら宣教師が『明(シナ)の軍事力を過小評価していたこと』や対馬の宗氏が『李氏朝鮮との交渉をいい加減に行ったこと(二枚舌外交に終始したこと』によって、秀吉が『明・朝鮮の征服事業の成功』を過度に楽観してしまった面もあります。宣教師や宗氏を経由して中国・朝鮮の情報を入手していた秀吉は『朝鮮・明の軍事力・地勢・気候に対する正確な情報』を全く持っておらず、秀吉が掌握する日本の総兵力よりも明・朝鮮は弱いという思い込みの元に文禄・慶長の役へと乗り出していき手痛い大敗北を喫します。華夷秩序を乱したという意味で、朝鮮では壬申倭乱(じんしんわらん)・丁酉倭乱(ていゆうわらん)と蔑称される秀吉の朝鮮出兵(明征服を意図した遠征)は、九州の西国大名を中心に甚大な人的・経済的損失を出して挫折しました。秀吉の唐入りの構想は、朝鮮の国土と人民・財政を大きく疲弊させただけではなく、明に軍事的損失と財政負担を与えて清(満洲民族)の侵攻による明の滅亡を早めました。 豊臣秀吉の朝鮮出兵(明の征服計画)には、中国大陸の支配に向かう秀吉の野心や対スペインの外交戦略という理由とは別に、名実ともに日本の最高権力者になろうとした秀吉の『天皇の伝統的権威の超越(血統コンプレックスの完全なる克服)』という悲願が根深く内在しているようにも感じます。秀吉は日本国内で『太閤(前関白)』の地位に留まる限り、実質的な最高権力者であっても形式的にはどこまでいっても『天皇の臣下』の枠組みからは離脱することができなかったからです。農民出身の豊臣秀吉が悠久の歴史に根ざした天皇の権威の上位に立つためには、『日本の外部』に広がる東アジア世界を併呑する君主(天子)になるしかなく、そのためには中華思想・天命思想を有する明(中華帝国)を征服する必要がありました。中国では明王朝を創設した太祖・朱元璋(洪武帝,1328-1398)が、何の伝統的権威も持たない貧農(農民)の出身者・反乱軍のリーダー・流浪(根無し草)の階層であるように、『最も強い者(戦乱の最終的勝者)』が次代の皇帝(天子)として天命を拝受する儒学的な伝統が根付いていました。その易姓革命的な原理が秀吉の理想的なビジョンを刺激したとしても不思議はないように思いますが、明・朝鮮の軍事的ポテンシャルを見誤った秀吉の朝鮮出兵は悲惨な末路を迎えることになりました。 秀吉の誇大妄想的な東アジア構想と揶揄されることが多い『豊太閤三国処置大早計』では、秀吉を東アジアの中心として天皇制を包摂する『新中華体制の構想』が明確に示されており、日明交流の拠点・寧波(ニンポー)に滞在する秀吉が東アジア世界全体の君主となる計画が立てられていました。明の征服後には、首都・北京に後陽成天皇(ごようぜいてんのう)を移して豊臣秀次を後陽成の関白としてつけ、日本の天皇には皇太子・良仁親王か後陽成の弟・智仁親王を即位させ、日本の関白には豊臣秀保か宇喜田秀家を任命するとしていました。つまり、秀吉は自らが日本国を包摂する中華帝国の君主(天子)となることで、日本の伝統的権威である天皇よりも上位の立場(日本国王である天皇の地位を封ずる立場)に立とうとしたと考えられますが、気宇壮大で誇大的な遠征計画は明に侵攻する以前に朝鮮半島において無残に断絶させられる結果となりました。 しかし、中国王朝を打倒した異民族(遊牧民族)のすべてが中国文明(漢族文化)に為す術もなく同化させられたことを考えると、秀吉の唐入り・朝鮮出兵の失敗は逆説的に日本固有の伝統・文化・言語とその後の日本国の政治的独立性を守ったと言える部分があります。中国大陸を暫時的に支配した異民族は、遠からず自民族本来のアイデンティティと文化・言語を喪失していましたから、安土桃山時代の段階で秀吉が中国を支配していたとしたら現在のような日本の言語・文化・慣習の形は残っていなかった可能性もあります。秀吉の『露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢』という辞世の句には胡蝶の夢のような儚い無常観が宿っていますが、近代において東アジアにおける遠大無双な夢が夢のままで終わらなかったことに日本の歴史の奇怪妙味な因循を感じます。 ■関連URI 本能寺の変後の羽柴秀吉の地政学的優位と朝廷工作による『豊臣姓』の授与 豊臣秀吉の“刀狩(兵農分離)”と室町期の農民・国人の軍事力:武断主義と文治主義の交替史の終焉 織田政権の成立発展と石山本願寺との戦い 織田信長の天下統一の夢の瓦解:本能寺の変 ■書籍紹介 |
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千利休の茶の湯(茶道)の精神と豊臣秀吉の勘気に潜むもの:和風文化の原型を形作った東山文化
日本国王としての権勢を強めた義満の時代に豪華絢爛・華美典雅を特徴とする北山文化が花開き、将軍としての指導力を殆ど発揮できなかった義政の時代に侘び寂び(わびさび)・幽玄枯淡を特徴とする東山文化が成熟したのは興味深い。豪奢な鹿苑寺(金閣寺)と風流な慈照寺(銀閣寺)の建築物の外観の対照は鮮やかであり、義政の東山文化の潮流の中で和(日本)の文化芸能の基本的性格の多くが規定されることになった。現代においても伝統芸能・日本文化の継承として認知されている『茶道(村田珠光)・華道(池坊専慶)・能楽』の基本... ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2008/09/05 22:57 |
豊臣政権から江戸幕府への転換と『ご恩と奉公の原理』の変質:“豊臣家の断絶”と“徳川将軍家の継続”
織田信長、豊臣秀吉という日本史の上でも傑出した専制君主の時代が終わると、豊臣政権下で最大の実力者であった徳川家康(1543-1616)が台頭して征夷大将軍に就任し江戸幕府を開府する。武力で領土を拡大する戦国武将としての実力と存在感では、徳川家康は信長や秀吉よりも個としての存在感が劣っているが、武家の棟梁としての血統(家系)を約260年にわたって存続させた戦略においては数枚上手であった。家康は天下一統を成し遂げた秀吉の政権の果実を横から攫った狡猾な印象があるので大衆的な人気は必ずしも高くない... ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2008/11/15 19:37 |
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