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help RSS 中国王朝の中華思想・易姓革命による歴史観と満洲族(女真族)による“清王朝”の建国

<<   作成日時 : 2008/05/01 23:36   >>

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中華思想とは、中原を抱えた中国こそが最も先進的な文化文明の中心地であり、完成度の高い漢字文明(儒教文化)と安定性の高い農耕文化を持つ漢民族こそが世界で最も優れた民族であるという自画自賛的・唯我独尊的な思想です。中華思想は前近代的な朝貢貿易・王道教化に象徴される儒教的な冊封体制との関連が深いため、近代国家として成立した中華人民共和国にそのまま当てはまるものではありませんが、現代のチベット問題をはじめとする中国周辺部の統治を巡る問題にも、清王朝の時代からの歴史的・思想的な関わりを持っています。『中国史』という中国人(漢人)の一貫性のある歴史を観念的に想定する時には、そもそも清王朝末期までは『中国人』という統合的な国民アイデンティティが存在しなかったことに留意する必要があります。

少なくとも漢人と満洲人の心理的対立が多く見られた清王朝の時代までは、中国人という自己認識を持った民族が一貫性・連続性のある『中国史』の歴史過程を生きてきたという認識は無く、中国史とは『易姓革命(武力による王朝交替)を繰り返す歴代王朝の個別の歴史=二十四朝史』に他なりませんでした。逆に言えば、中国が『個別の王朝史』の段階を抜け出して古代から連綿として続く『中国人(漢民族)による中国史』という認識を持ち始めた時に、歴史性・物語性に根ざした中国人の国民アイデンティティが確立し始めたと考えることができます。

モンゴル人や満州人といった『異民族による中国統治の歴史(中華的観点からは屈辱の歴史)』を、正統な主権者である『漢民族の歴史』に一元的に包摂させる為に、中国の伝説上の聖王・黄帝(こうてい)の即位を元年とする『黄帝紀元』が創始されました。一般に言われる『中国4000年(5000年)の歴史』というのはこの政治的意図を持つ黄帝紀元に基づくものであり、近代中国の国民アイデンティティとナショナリズムを漢民族の悠久の歴史を通して物語的に補強する意味合いを持っていました。天命思想・中華思想に支えられた中国王朝の易姓革命による歴史観は、西欧列強と日本の軍事的伸張によって一気に揺らがされ、清王朝は国境線を明確化した近代国家としての変容を迫られることになります。つまり、天命を拝受した超越的君主(並び立つもののない天子・皇帝)という中華思想の前提が、近代的軍備と植民地主義による西欧列強・日本の脅威によって力づくで崩され、改めて現実的な不利な立場から『対等な立場に立つ主権国家』として外国を認識し直さなければならなくなったのです。今までの政治状況とは違い、どのような恩恵(回賜・利益)を与えても共同幻想的な中華世界(華夷秩序)を承認しない強力な西欧諸国(中国の言う夷狄)との遭遇……それが中華文明圏の外部を無視していた中国王朝が初めて体験する『近代国家との危機的な出会い』でした。

『天下の普遍的中心』であることを自認していた歴代中国王朝は、近代的な主権国家や国際関係に対応するための“世界観・国境線・主権感覚”を持っておらず、広義には世界の全ては天子(中国皇帝)の支配権に属するという独我論的な中華思想を持っていました。その意味では、清王朝までの中国王朝は『世界の一部分としての中国(自分と対等な主権国家が存在する世界)』という近代的な視点を持つことができず、『中国から始まる王道教化のための世界(天下)』という中華的な視点からしか世界情勢を見ることが出来なかったといえます。この中華的な視野狭窄は、19世紀当時にアジアよりも先進的だった西欧諸国から知識・技術(軍事)・制度を真摯な態度で学ぶことが出来ないという夜郎自大的な弱みにつながりました。

清王朝末期の李鴻章・曽国藩など洋務官僚による中体西洋論的な『西欧文明の摂取』も遅きに失したという観があり、文明開化・脱亜入欧を精力的に推進した明治日本との近代化競争で大幅な差をつけられることになりました。清と日本との最大の違いは『自分たちの方が欧米の軍事戦略・技術文明よりも何倍も遅れているという危機意識』をどれだけ早い時期に持てたか、どれくらいのスピードで近代化を進めることができたかの違いでした。『官僚制度の腐敗と財政悪化・軍事部門の脆弱化・地方都市の反乱(庶民の困窮)』などのマイナス要因を抱えた清が近代化に失敗したことにより、近代日本のアジア・太平洋地域における軍事的プレゼンスが強固なものとなりました。

中華思想では中国と『対等な独立国家』というのは原理的に存在せず、中国王朝の権威や武力に服従しない異民族(異国)は、すべて文化文明の恩恵を受けられない『野蛮な夷狄(蛮族)』として片付けられてきました。中国王朝は中華文明圏の教化や中国皇帝の権威に、粗野な武力で抵抗して服属しない地域のことを『化外(けがい)』と呼んで放置し、日本のように明確な朝貢・帰属はしないが冊封体制の外部で小規模な貿易を行う地域を『互市(ごし)』と呼んで一定の距離感を保っていました。中華思想に基づく異民族に対する王化政治(徳治主義)の限界をマテリアルに示すのが、世界遺産にも指定されている『万里の長城(ばんりのちょうじょう)』という壮大な防衛目的の建築物です。北方遊牧民族の夷狄の侵攻を防ぐ万里の長城は、秦の始皇帝により建造され明代に大幅な修復再建がされましたが、各時代における王朝の興亡の生命線になることが度々ありました。万里の長城は中国王朝の潤沢な経済力と漢民族の国防意識を想起させるものであり、中国共産党の指導者・毛沢東(1893-1976)は万里の長城を中国人民の歴史的統合性の象徴として賛美しました。

しかし、その一方で万里の長城は『中国の歴代王朝の影響力(王化・防衛)の限界』『騎馬軍団を擁する異民族に対する恐怖心』を直接的に示唆するものでもあります。騎馬軍団を擁する異民族に対する恐怖心というのは、言い換えれば、内陸アジア(チベットを含む中央アジア・ロシア方面・インド方面)に対する中国王朝の防衛力の弱さに根ざした慢性的な侵略被害の不安でした。漢民族(漢人)の王朝である『明(1368-1644)』の滅亡も、農民反乱である李自成の乱(りじせいのらん)と万里の長城の東端(山海関)をホンタイジ率いる満洲軍(女真族)に抜かれたことで決定的となりました。李自成率いる反乱軍に北京を陥落させられた明の崇禎帝(すうていてい,1611-1644)は、紫禁城近郊の景山で自害して明王朝は滅亡します。

その後、農民反乱の指導者である李自成(りじせい)と四川省で予防的(被害妄想的)な大規模の民衆虐殺を行った張献忠(ちょうけんちゅう)によって北京の治安は大いに乱れます。しかし、李自成と張献忠の軍勢は極短期間(約40日間)のうちに、ドルゴンの清軍と呉三桂の明の遺臣軍に敗れて地方へと落ちていきました。1616年に太祖・ヌルハチによって『後金』に統一された女真族は、1636年に太宗・ホンタイジが大清皇帝となった時に民族名を女真から満洲族へと改めます。そして、ホンタイジの後継である順治帝(フリン)の時代に北京へと進軍し、李自成の乱で滅んだ『明』の後を継いで『清』を建国しました(1644年)。

歴代中国王朝は、野蛮な夷狄と見なした異民族を積極的に討伐して服従(朝貢)させることもありましたが、武力で打ち勝てないと判断した時には『優れた中国文明の恩恵を受けられないのは相手の自業自得である』という中国に有利な恣意的解釈で放置してきました。いずれにしても、広大な領地を保有していた中華帝国にとって『周縁部における異民族(異国)』は、国王(皇帝の臣下)に封じるか朝貢(儀礼的に服従)させるか無視するかといった存在であり、対等な独立国家として条約を結ぶような相手ではありませんでした。アジアの大国であった清王朝が政治・経済・軍隊の近代化に失敗して、西欧列強と近代日本から領土・主権をあっけなく侵害された背景には、他国の実力を客観的に評価できない中華思想的なエスノセントリズム(自文化中心主義)があり、満洲人の為政者と漢人の科挙官僚が『国家存亡の危機感』を適応的に共有できなかったということがあります。






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■書籍紹介
紫禁城の栄光―明・清全史 (講談社学術文庫)
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