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help RSS 山口県光市母子殺害事件の死刑判決・“当事者の応報原理”と“社会的な秩序維持”を代理する死刑制度の考察

<<   作成日時 : 2008/04/25 07:23   >>

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1999年の山口県光市母子殺害事件の被告に対して広島高裁の差し戻し控訴審で『死刑判決』が出されたが、前回の最高裁審理における差し戻しの理由が『特に酌むべき事情がない限り、死刑を選択するほかない』とするものだったので今回の判決は十分に予測されたものであった。現行の刑法規定のみから考えると18歳以上の殺人犯には死刑が科されてもおかしくはないが、日本の判例から考えると20歳未満の少年が起こした被害者二人の殺人事件としては異例の判決であるとされる。犯行当時18歳になったばかりの少年だった被告(27)は、1審・2審では無期懲役の判決を受けていたが、最高裁からの差し戻し控訴審で死刑となり恐らく上告しても『今までにない新たな有利な証拠』などが提示されない限り判決内容が覆ることは考えにくい。

少年事件の判例において厳罰化の流れが明確化した格好となったが、母親と乳児を殺害・陵辱した犯行の罪質と動機、犯行後の被告の発言内容などを考慮すれば、苦痛と怒りに満ちた被害者感情の立場からは死刑を望むのが当然の事例であったと言える。一方で、今回の死刑判決を導くために果たした被害者遺族の本村洋さん(32)の言論活動と極刑を求めた世論・メディアの後押しを、『刑事裁判の公正性』の観点からどう考えるべきなのかという問題は依然として残っている。広島高裁の裁判官の最終的な判断は法理・判例に基づいたものであったとは思うが、最近の裁判では被害者感情や世論の影響を無視することが難しくなっていて、どこまで被害者感情や国民世論を判決(量刑水準)に反映させれば良いのかの基準が曖昧である。裁判の公正性は、遺族・世論の処罰感情の対象となる『加害者側の問題』であると同時に、遺族・世論がどれくらい熱心に処罰を求めてくれるかという『被害者側の問題』でもある。

刑事裁判の判決は第一義的には、『制裁感情・共感感情・数の論理(世論)』ではなく『法理原則・罪刑法定主義・判例』に従って下されなければならないが、『厳罰化・軽罰化の契機(起点)』をどこに見るのかというのは非常に難しい問題だと思う。応報刑を重視した厳罰化の流れにもっていってはいけないわけではないし、その反対に、教育刑を重視した刑罰の軽減が認められないというわけでもない。過去の被害水準が同等の事件・被告と比較して『この被告だけは特別に許されない・この被害者だけは特別に同情すべき』という理由に基づいて大きな量刑の変化があることは望ましくないが、世論の大きな流れとして『被害者感情』を『加害者の更生・情状』よりも優先すべきという主張が強まっているのは確かだろう。死刑肯定論者の中には、長期懲役刑(終身刑)の経済的コストを嫌って死刑の合理性を唱える人もいるが、死刑の問題を単純に財政的なコスト問題に還元させられるのかは極めて慎重な議論を要する。

現行の刑法体系が加害者を保護して被害者に冷たいという感想を持っている国民は多いが、近代法の刑罰は、(最近は被害者感情への配慮が為されてきてはいるが)基本的には『国家(社会)対加害者』の図式であり加害者の更生を目的とする教育刑を主軸としている。近代法では『被害者(遺族)対加害者』の図式で応報刑的な刑罰を科すことは原則として出来ないし、近代法の枠組みでは死刑でさえもその主眼は『代理的復讐』ではなく『社会的排除』なのである。法原理的には、国家権力が被害者の代わりに復讐して死刑に処するのではなく、いかなる手段を用いても更生不可能であると法的に判断された社会的危険性の高い死刑囚を永久的に排除する手段として死刑は存在している。

反省の情や改悛の可能性が刑事裁判において重要視される理由の一部には、確かに被害者遺族への謝罪を促す意味もあるが、被害者への謝罪意識(人間的な共感感情)も含めて社会復帰ができるか否かの更生可能性について吟味されている。日本で執行されている死刑は『絞首刑』であるが、厳密には『他害的な絞首(復讐)』の手段をもって行われるのではなく、自分が歩く階段からの天板の踏み外しという『自発的な縊死(いし)』の形式をもって行われている。誰も加害者にはなりたくないし、刑務官も死刑囚に対して直接的な報復感情があるわけではないのだから、現代社会における死刑のぎりぎりの妥協ラインが絞首刑に行き着くとも言える。日常的な殺生を専門とする武装階級が存在しない文明社会における『代理的な報復行為の限界』が、死刑という極限の刑罰において垣間見えている。しかし、社会世論が秩序維持システムとしての死刑を支持する限りは、誰かが法制にのっとって社会的排除(応報行為)を代理しなければならないという実務問題の解決は容易ではない。半ば自発的な縊死による刑罰形態は、死刑執行の役務を担う刑務官の罪悪感の軽減を意味すると同時に、国民福祉(国民保護)の体現者たる国家が加害者ではないという免責の意図を含んでいるのではないかとも思う。現代社会の司法・国民は『現実的な犯罪の不安』と『致命的な刑罰の必要性』の間で深い葛藤に絶えず晒されているのである。

死刑存置論と死刑廃止論との対立というのは、感情問題(尊厳問題)であると同時に国家(人間集団)が今まで歩んできた残虐刑の歴史問題であり、冤罪の恐れや人権保護、社会防衛(再犯可能性)といった観点だけからでは十分に論じつくすことは出来ないのではないかと思う。日本では個人対個人の犯罪における復讐原理の観点と、凶悪犯罪者の更生可能性を否定(悲観)する社会防衛の観点から『死刑存置の根拠』が語られることが殆どであるが、成熟した近代国家の多くが死刑を廃止した理由の一端は『暴力的な威圧装置(支配機構)としての国家からの脱却』であろう。人類(民族・宗教・国家・個人)の悲惨と災厄の大部分は“やられたらやり返すの復讐原理(同害復讐法の原則)”によって引き起こされてきたが、国家が集権的な暴力装置として応報刑(国民の復讐感情の代行)を執行するということは、『復讐としての殺害』を間接的あるいは道義的に承認することにつながる。強制力を持つ国家の法規は『理想的・道義的な秩序』を志向するものでなければならないが、社会的排除・代理的復讐の手段たる死刑は『人類・人間社会の原罪(アウトサイダーの抹殺による秩序確立)』を深くその内部に胚胎するものであり、私たちが生きている世代ではとてもその難産の終結を眼にすることは適わないのではないか。

悪人を殺害することによって溜飲を下げ、精神的なカタルシスを得るという状況を公的に認可することの意義がここに問われることになるのだろう。かつて明治以前の時代には、罪人は様々な苦痛を与えられ死罪に処された後は公共空間において晒し者(晒し首・磔・獄門)にされたが、前近代社会における死刑は公開性の強い娯楽(大衆層の不満のガス抜き)としての側面を濃厚に持っていた。現代社会における極端な死刑讃美者の中には、凶悪犯罪を犯した悪人であればどんな酷い目に遭っても因果応報なのだ、可能であれば残酷な拷問にでもかけてやれと言わんばかりの『刑罰の祝祭の狂気』に酔いかかっているような危うさを感じることがある。中世・近世においても現代においても、犯罪者(戦争の敗者となった指揮官や知能犯罪・経済犯罪を除く)の大半は社会的弱者であり、主体的な選択の結果として悪事を選んだ人もいるだろうが、過半の人は環境要因的・人格形成的にその生まれ落ちた不可避のプロセスの中で落ちるべくして落ちたという状況の中にあった。

死刑には太古的な社会正義(同害復讐)の実現という側面が確かにあるが、それと同時に人間の加虐性を促進する非日常的な祝祭の狂気の恐ろしさがあることも忘れてはならないのではないか。つい数百年前の近世までは娯楽としての処刑が洋の東西を問わずに確かに存在したのであり(あるいは現在でも多くの地域で残酷性・恣意性・娯楽性の強い処刑が執行されているのであり)、人間の無意識的な欲望には『正義に基づく残酷な仕打ち=絶対安全圏からの悲劇の観察』を心のどこかで楽しむような冷淡な一面があることに自覚的でありたい。『私個人の被害における憎悪・怒り』に基づく復讐の要請であれば一定の倫理性がそこに宿ると感じるのだが、『他者の憎悪・怒り』に煽り立てられた復讐感情(傍観者的な死刑の待望)には倫理性の中に娯楽性・観衆的視点が混在してしまう危険が高い。

平時において、犯罪者であれば何をされても仕方がないというロジックは、戦時においては敵であれば何をしたって構わないというロジックとの親近性を強く持っているが、『自分自身の被害の外部』において制裁感情を高ぶらせることの持つ意義についてはもう少し考えを深めてみたい。山口県光市の母子殺害事件においても、本村洋さんが死刑を求める怒りの感情と、直接的な被害者ではない人(支持的な社会世論)が積極的に死刑を求める怒りの感情とでは、倫理的にも法理的にも全くその意味合いが異なってくる。過剰な正義感と復讐心は『集団的サディズム』を生み出す魔力を持ち、自分が絶対的に正しい審判者としての立場に立っているような高揚感・攻撃性を強めやすいが、2009年5月からスタートする裁判員制度では個人的な復讐感情と刑事裁判の持つ意味を混同しないような理性が求められるように思う。






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死刑制度の歴史 (文庫クセジュ)
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