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前回の記事で書いた現代社会の潮流を踏まえると、社会共通の道徳原理(善悪の評価)が大きく揺らぎ他者の言動への関心が減ったことにより、道徳的な規範を遵守して正しく振る舞うことのインセンティブ(誘因)が格段に小さくなってきています。『倫理的な振る舞い』と『実際的な対人評価』の正の相関が崩れ始めたことにより、医療・教育・政治など各種の専門領域のサービス業化が一段と進みましたが、過去の聖域がサービス業化することの利害については一概に言うことが出来ない部分もあります。 例えば、以前に書いた『ひと相手の仕事はなぜ疲れるのか―感情労働の時代―』の書評のように、現代社会では他者の気分や情緒に配慮して自分の感情状態をセルフコントロールする『感情労働のストレス』が強くなっていますから、聖域がマニュアル的なサービス業化することで、『物心両面の報酬の少ない感情労働』に伴う精神的負担が和らげられる利点があります。 儒教的な人治から近代的な法治に移行することで、結果的に『官』の不正や横暴は劇的に減りましたので、『個人の倫理(裁量)』に期待せずに『法律の規定』に依拠して人材をシステムに組み込む近代的な行政機構が必ずしも非効率的なわけではありません。しかし、『法律の規定に守られた行政機構』や『経済のグローバル化による競争原理の先鋭化』『情報公開(行政の透明化)を推進する情報化社会(ネット社会)の発展』などによって、官民格差が目立ちやすくなったことや内部告発が起きやすくなったことが指摘できます。 官僚政治の問題に限らず、ミートホープの食肉偽装や少し前の住宅業界の耐震偽装問題など、各業界のモラルハザード(倫理的危機)が指摘されるシーンが劇的に増えましたが、こういったモラルハザードは最近になって急速に増えたわけではなく『モラルハザードが指摘されやすい社会的条件(権益に対する利害対立・社会格差・ウェブの匿名メディア)』が整ったというのが実情に近いと思います。 『私利私欲を抑制して他人の喜びや幸福のために奉仕することが正しい』とする禁欲道徳は、儒教だけでなく仏教やキリスト教、イスラム教など世界各地のあらゆる宗教に見られます。実存主義の先駆であるフリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)は善悪の彼岸(原点)を見据えて、社会的強者の力を抑圧しようとする禁欲道徳(僧侶道徳)をルサンチマン(弱者の強者に対する怨恨)であるとしましたが、キリスト教神学では世俗の権力や欲望を『罪悪』とすることで聖職者の宗教権威を高めました。 その意味では、資本主義や自由主義が拡大する以前の伝統社会では、『欲望を満たす者(力のある者)より、欲望を抑制する者(力のない者)のほうが道徳的価値が高い』とされていたのですが、それが謂わばキリスト教カトリックの建前でしかないことは半ば暗黙の了解でした。イタリア・ルネッサンス期のアレッサンドロ6世やジュリオ2世を筆頭として、歴代のローマ教皇には強い世俗的野心や物理的欲望を持つ者もいて、宗教権威を背景に武力を蓄えてイタリア全土を支配するような政治権力を求めたものも少なくありませんでした。確かに、ローマの都会から遠く離れたベネディクトゥス派やフランチェスコ派の修道院のような場所には、徹底的に身体的な欲望を削ぎ落としたストイックな修道士がいて『祈り、かつ働け』を実践していましたが、キリスト教会の歴史は戦争や欲望と無関係であるとは言い難い部分があります。 その意味では、あらゆる宗教と国家(社会)において、社会的強者(貴族階級・神聖階級・富裕階層・権力者層)の自発的な禁欲道徳が歴史上で大きな力を持ったことは未だかつて無いと言えます。シニカルな生の哲学者であるフリードリヒ・ニーチェは、その事を暗示的に指して、世俗的欲望(利己的欲求)を罪悪視する伝統道徳が社会的弱者(聖職者階級)の権力欲や承認欲求の投影に過ぎないのではないかと喝破したわけです。つまり、儒教では禁欲規範が社会の統治階級である『君子の道徳(ノブレス・オブリージュ)』として説かれていますが、ニーチェは禁欲を強制する倫理は『権力者に保護して貰いたい民衆側の欲求』の投影に過ぎず、『力のある者(世俗の権力者)』と『力のない者(宗教の権威者)』の道徳的な力関係を逆転させるトリッキーな観念装置と見なしたのでした。 しかし、ニーチェ思想の欠点として、『力のある者』の社会的責務や民主主義社会の秩序を定義できないことがあり、現実社会が弱肉強食の悲惨な闘争の場や専制的な支配‐隷属の場となることをやむなしとするような冷淡な部分があります。『力への意志』と『他者への共感』をある程度均衡させないと、社会秩序が維持できないだけでなく『強者の心理的充足』も実現できないという意味で、宗教的(伝統的)な禁欲道徳には『弱者の救済願望』だけでなく『強者の理想(自発的な義務履行)』も投影されていると考えて良いのではないでしょうか。何より自由主義と資本主義によって運営される現代社会では、強者と弱者の立場は極めて流動的・可換的ですから、誰もが明日は我が身という意味で『他者への共感性・自発的な社会貢献』というのは欠かすことの出来ない重要な社会的セーフティネット(社会保障の原点)になります。 隋の文帝が始めて唐の時代に普及した官吏採用試験である科挙は日本には導入されませんでしたが、世襲の貴族階級に依拠しない官僚機構を世界に先駆けて確立したという意味で画期的でした。中国皇帝の死後に贈られる諡(おくりな)で最高に価値があるものは、「武帝」ではなく「文帝」とされますが、これは明らかに儒教の文民優位主義に基づくものでしょう。しかし、『儒教の文治主義』を反映した科挙は、『儒教の修己治人』の理想までを実現することはできず、過酷さを極める受験競争を潜り抜けた『進士(官僚)』はエリート意識を強めて次第に特権階級化していきます。 文民優位が爛熟した宋の時代になると、儒教の基本教典を勉強することが贅沢三昧な生活をする為の立身出世の道具となり、中国の官僚制は腐敗と不正の温床となっていきました。儒教(儒学)の究極的な目標は『仁(忠恕)』の徳を身に付けた君子(為政者)となることですが、孔子や孟子から時代が下って世俗化した儒教は『徳治主義』から『文民専制(官僚専制)』へと変質したとも言えます。 現代社会において儒教を学ぶ意義を考えると、シンプルに孔子が最も重視した『仁(忠恕)』の徳と孟子が人間の倫理の原点に置いた『惻隠の情(忍びざるの心)』に行き着くのではないかと思いますが、偽りのない真心としての『忠』や温かい思いやりとしての『恕』というのは、現代社会における処世訓や人生の指針としても十分に役立ちます。先ほど、かつて聖職とされた業種がサービス業化しているという話をしましたが、教育者である教師の理想像について『論語(述而篇)』では『学んで厭わず、教えて倦まず(学び続けることを面倒臭がらず、教え続けることに飽きることがない)』と言っています。 自分自身が生涯を通してコツコツ勉強し続けるのも大変なことですが、さまざまな個性や性格を持った生徒に勉強を教え続けるというのも大変な苦労を伴う作業です。教師(先生)という職業は、生徒と一緒になって学び続ける楽しさを忘れない人でないと勤めることが難しいものですが、その根本には『学問に対する意志』以上に『子どもに対する愛情(関心)』が必要だと思います。 ■関連URL 孔孟思想の『陽(世俗)』の原理と老荘思想の『陰(脱俗)』の原理1:儒教と君子のエートス 人は何故、神(超越者)になれないのか?高貴なる精神の限界と実存主義 『孟子』の性善説に基づく徳治主義と混迷する現代社会の道徳教育:1 『孟子』の性善説に基づく徳治主義と混迷する現代社会の道徳教育:2 『溢れる余剰としてのエロス』を消尽する生の歓喜と充溢 ■書籍紹介 そうだったのか現代思想―ニーチェからフーコーまで
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”世俗の儒教思想”と“隠遁の老荘思想”の中庸を探った古代中国の処世術
過去の記事で、 孔孟思想の『陽(世俗)』の原理と老荘思想の『陰(脱俗)』の原理について対比的に考えてみましたが、儒教思想と老荘思想というのは個々バラバラなものというよりは、一人の人間の内部に矛盾を抱えながら存在するものです。長い歴史を持つ中国文化では、官界(政治の世界)で可能性が開けた時には『儒家の道理(処世)』に従い、俗世界の重圧に打ち負かされそうな時には『道家の道理(処世)』に従うというような『儒道互補の処世術』が上手く用いられてきました。 ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2007/08/17 22:24 |
世俗と宗教の“ダブルスタンダード(二重基準)”によって支えられた前近代の秩序と近代国家の政教分離原則
過去の記事では、孔孟思想と老荘思想の違いについて考えましたが、儒教とはアニミズム(精霊信仰)と祖先崇拝から派生した一つの宗教であり、基本的には『今よりも昔を尊ぶ』という保守的な伝統復古の教えです。近代日本では儒教道徳(忠孝・仁義の徳)が大きな力を持った時期もありましたが、孔子という個人が創始した思想体系に過ぎないので、逐語的に『論語』や『孟子』の文章を規範化して受け止めても得るべきところは少ないでしょう。自分の日常生活や人間関係を豊かにするために儒教的な世界観や徳目を振り返ってみる場合には... ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2007/10/31 13:30 |
宮城谷昌光『管仲 上下巻』の書評2:“人の己を知らざるを患えず”の精神と自己の人生の肯定的受容
管仲が人民の生活を重視した善政を実際に敷くまでには、天才的な知性を現実世界とリンクさせるために『人間そのものへの関心』と『明るく闊達な人格』を取り戻す必要があった。そして、管仲の遁世的な憂鬱の陰と人格の暗さを晴らしたのは親友の鮑叔と妻の梁娃であった。最後に『母親からの愛情欠損』というトラウマティックな過去と訣別することにより、管仲は生身の人間が織り成す世俗の政治と軍事に真正面から対峙することが出来た。 ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2008/02/24 04:53 |
近代社会(資本主義社会)における非生産的な『高貴性』と『聖性』の消滅:無欲・貧困の怠惰への転落
『前回の記事』の続きになるが、仏教思想では『煩悩(欲望)』によって人間の心が曇り汚れるという人間観が前提にあり、俗世間は人々の無数の不浄な煩悩に覆われた『穢土(えど)』と仮定される。穢土(俗世)から離れて煩悩を断ち切った禁欲生活(修行・学問・布施の物乞い)を静かに続ける出家者や隠遁者、巡礼は、世俗に生きる人たちよりも道徳的に尊い存在(聖なる存在)であると考えられていたが、近代社会では基本的にこの道徳的価値判断が労働規範によって転倒されることになる。 ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2009/01/29 06:46 |
絶対王政・幕藩体制による“平和な社会”の実現と戦士階級(武士階級)の支配の揺らぎ:戦闘と労働の義務
前回の記事の続きになるが、近代産業社会では仏教世界のパラダイムにおける『悟り・解脱』などには一銭の価値もないと見なされ、キリスト教世界で世俗の経済生活からひきこもっていた修道院も批判に晒されることになった。寺院に篭もって仏教の学問や修行を禁欲的に死ぬまで続けたり、俗世の欲望を捨てて布施を求める乞食坊主になられることは、国家・産業社会にとっては労働力・納税者の損失という好ましくない事態を意味することになるというわけであるが、科学精神と理性主義、資本の力によって『静謐な聖性の幻想』のヴェールは... ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2009/02/18 22:47 |
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