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help リーダーに追加 RSS 個人の権力(暴力)を禁止する法治主義国家における加害者と被害者:アメリカ国民の武装権の問題

<<   作成日時 : 2007/04/26 11:28   >>

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前回の記事で、アメリカ国民の自衛(犯罪への抵抗力)と革命(政権との対等性)を担保する武装権(自衛権)について考えたが、銃所持に肯定的なアメリカの保守層は、アメリカの伝統的な価値観を守ろうとするパトリオティズム(愛国心)と主権者としての自負心が強い。

国家が軍隊や警察という合法的な暴力機関(強制力)を持っていなければ、一部の無法者の国民が政府(国家)の制定した法律に服従しないかもしれないという予測は妥当なものである。良識(倫理観)と教養、生活能力を備えた国民は、正当な法手続き(due process of law)を経て議会で制定された法律であれば、その法律の規定に従うと考えられる。国民国家の義務教育と家庭教育(しつけ)の目的の一つが、大まかな善悪の区別に関する共通認識を培い、常識的なレベルの遵法精神(道徳意識)を身に付けさせることである。個人単位の実力行使が完全に禁止される法治国家において、事前に犯罪を抑止するにはそういった道徳的な良心や法規範を尊重する遵法精神に依拠するほかはない。

事後的な裁判と処罰しかできない法治国家でも、犯罪を未然に抑止しようと思えば、結局、徳治政治(悪いことをしてはいけないと思う国民を増やす統治と教育)や地域コミュニティの充実に行き着くしかないのである。悪いと分かっていて処罰覚悟で犯罪を犯す人間はどうしても法律では止めることができない。教育としつけを受けた大多数の国民は共感的な道徳観や一般的な遵法精神を持つに至るが、全ての国民が性善説的に遵法精神(道徳的な意識)を持つとは考えられない。残念ながら国民の一部には、罰則や処分さえなければ他人の権利を侵害しても構わない、自分たちよりも強大な権力がなければ何でも好き放題にやって良いという考えを持つ人(組織)が出てくる。

法律や規則さえ制定しておけば、全ての人が条文(条項)に書かれた罰則や処分、制止命令(注意)を受け容れるかというと必ずしもそうではなく、個人では太刀打ちできないと思えるレベルの『権力(強制力)』の裏づけがないと法律(規則)は有効に機能しない。一般的に法律は国家権力によってその実効性が担保されているが、それはどんなに危険で凶暴な個人でもどんなに大人数の反社会的組織でも、全国民から権力を委託されている国家という余りに巨大な権力機構には手も足も出ないことが分かっているからである。

強制力が弱いために法律が有効に機能しない端的な例として、法的な裏づけのある権限を持たない民間人や警備員などの注意や指導に対して、その内容が適切であっても非常に反抗的かつ攻撃的な態度を取られてしまうというケースがある。例えば街中に駐車違反をしている車を見つけて、『ここは駐車違反だから、停めないようにして下さい』と民間人が注意しても、『何で、お前なんかに言われなきゃならないんだ。お前に何の権限があるんだ?』というような感じで相手に恫喝される場合もあるだろう。民間の駐車場には『違法駐車を発見次第、金10万円を頂きます』などといった警告が良く書いてあるが、恐らくこういった民間企業(個人の不動産所有者)が定めた規則では、法的裏づけが弱い為確実に罰金の10万円を徴収することは到底できないだろう。

権利において対等な個人対個人では、容姿や服装、言葉遣い、雰囲気などである程度は強制的な雰囲気を醸し出すことはできるが、それでも、最終的に、『俺が悪いとしても、絶対にお前の言うことなど聞くつもりはないという相手』を無理やりに従わせることはできない(ひどい迷惑行為をしている相手や非常識な態度を取っている相手でも、個人の実力行使で無理やりに従わせれば、自分が暴行罪や傷害罪に問われる恐れがあるだけである)

民主的な法治国家では正当防衛や偶然の過失などの場合を除いて、「一般の民間人」が迷惑行為や嫌がらせ行為を行う「他の民間人」に対して「強制的な対処(懲罰・暴行・拘束)」を行うことは原則として出来ないので、どうしても法律を無視する非常識な人物や逮捕を恐れない暴力的な人物のほうが有利な状況が生まれやすい。勿論、事後的に法律に基づいて処罰したり司法に訴えて賠償や権利を得ることは可能だが、リアルタイムで展開する対立状況(喧嘩や紛争)になると、絶対に手を出さないという遵法精神が強い人のほうが怪我や損をする危険性が高くなる。

民主主義国家では、国民個人は自分自身の強制的な権力(暴力)をほぼ全面的に国家に委譲しているので、国民個人が“合法的に他人を攻撃(懲罰)できる権限”は非常に小さいか殆どないのである。犯罪は被害者の受けるダメージや不利益のほうが罰則を受ける加害者よりもどうしても大きくなりやすいが、『社会に暴力がないもの(個人の暴力は全て悪)』という前提から始まる民主主義や法治主義、人権思想の必然的な限界として『遵法精神を無視する者に対する社会の脆弱性』というものを挙げることができる。

何故かというと、民主主義社会や法治主義国家で犯罪を行う者は、『その場における致命的な反撃』を殆ど心配することがなく、武装(訓練)していない一般人は激しい暴力に対して極めて脆弱だからである。脆弱というよりも基本的に一般市民は、致命的な突然の暴力(通り魔やテロリズムなど)に対しては抵抗手段を持たないので出来るだけ遠くに逃げるしかない。

一般市民が反社会的な組織やチンピラの集団を恐れるのは、その場における決定的な反撃ができないからであり、失うものが何もない無法者には最終的に『警察を呼んで捕まっても、後で必ず探し出して復讐してやるから覚悟しておけよ(俺以外にも幾らでも仲間がいるんだから逃げられないぞ)』といった脅迫の手段が残されているからである。家族や恋人、仕事など失うものがある人間は、究極的には全てを捨ててかかってくる危険な相手に十分に対処することが出来ず、上記したような執念深い逆恨み(意趣返し)のようなものに対する恐怖が、傷害事件や暴行事件などに対する個人的な救助行動への消極性にもつながっている。

前置きが長くなったが、銃を所持する自衛権(武装権)にこだわるアメリカ国民というのは、原始的(野蛮)ではあるけれど普遍的な『力の論理』が構成する政治原則を忘れていない人たちともいえる。軍事的なパラダイムや警察権の執行に象徴される『力の論理』は原始的(であり普遍的)な政治原則であり、依然として現代の自由民主主義国家でも力の論理を完全に無視することは出来ない。強制する権力のない正義や法律は全く無力であるし、国家間の問題はおろか国内の個人間の紛争・対立でも、強制力がなければ無秩序な状況(悪いことをやったもん勝ち)が生まれるリスクが高くなる。

私は銃を所持して武装する自衛権には賛同できないが、その心理についていえば『先に理不尽な犯罪をした者が有利な状況』や『先に暴力的な脅迫をした者が得をする状況』を許さないという正義心であり、『その場における致命的な反撃』を相手に意識させることによる犯罪抑止効果を狙うものではないかと思う。冷静に考えれば、不当な攻撃や強奪などを仕掛けてくる相手も拳銃で武装しているので、相撃ちになる恐れが高いような気もするが……既に銃が大量に出回っているので今から規制しても隠し持たれたら怖いというのもあるのだろうか。合衆国憲法の条文にあるように、『規律(良識)のある国民』しか国内におらず、ほぼ全ての国民が不正行為に対してだけ個人的武力を行使するという理想状態が実現しているのであれば、(フィジカルな体力や腕力の差を埋めるという意味で)銃武装にも秩序維持の実際的意義があるとは思うが、実際には銃を持つ人の全てが規律や道徳、良識を持っているわけではないだろう。

不当行為から自分と家族を自力弁済で守るという根拠とは別に、社会契約説や立憲主義を提唱したジョン・ロックが言及した革命権の根拠もある。もし自分たちアメリカ国民の自由を弾圧したり権利を搾取したりする悪しき政府が出てくれば、アメリカ国民は武器を取って立ち上がり革命を起こす権利を持つというわけである。国家権力というのは、社会にあるあらゆる強制力の中で最も強力なものであり、国民の大多数がその政権に不信任を突きつけない限りおよそ普遍的なものである。その為、国家権力の暴走や濫用を制限し国民の自由と権利を守るために、最高法規である憲法によって国家権力が有効な範囲と限界を規定しなければならないとするのが立憲主義である。

社会契約説的な国家観において、何故、主権者である市民に革命権や武装権が認められるのかというと、国民の自由・権利を侵害し出した国家権力を停止する実効力を潜在的に保有するためである。主権者である国民(市民)の側から、国民を抑圧する政府の側に『政府に権力を委譲していた社会契約を破棄する』という宣告を為すことが出来ても、国民があらゆる武装を放棄していれば軍隊と警察を擁する強力な政府に、数(国民決議の得票数)で勝る国民が全く対抗できない恐れがある。

無論、現代のアメリカで個人の武装権を主張する人でも、本気で革命の可能性などを信じている人はいないだろうし、人権に配慮した民主的な先進国では、生存権や自由権など基本的人権に反する立法行為や警察権の発動(国民の権利の制限)を行うことがそもそも出来ない。その意味では民主的な先進国においては、社会契約や国家からの自由を必要とするリヴァイアサン的な国家(絶対権力で国民を支配する国家)は衰退しつつある。社会保障や福祉政策を実施する政府は、国民の利害や権利を無視した政治を行う権力機構ではなく、国民の権利や安全を保障する義務を負う福祉機構としての様相を見せてきているのである。


■関連URL
JR北陸線の電車内で起きた暴行事件・バージニア工科大学の銃乱射事件・アメリカ合衆国と武装権:1
国家権力の行使と目的を問う憲法改正論の本旨:“固有の意味の憲法”と“立憲的な意味の憲法”
日本国憲法の改正議論と国際社会の紛争・テロや教育の問題

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孤独なボウリング―米国コミュニティの崩壊と再生
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