|
何故、鹿児島県(薩摩藩)に下った西郷隆盛が、至誠の尊王思想の持ち主でありながら、官軍と衝突する西南戦争(1877)を引き起こしたのかという理由には諸説ありますが、西郷自身には官軍と戦闘を交えてでも上京するという確固たる意志はなかったと言われます。西郷は可能であれば、1万3千人もの薩軍を率いて戦闘をしながら上京を目指すのではなく、陸軍大将である自分と陸軍少将の桐野、篠原など最小限の人員を連れて、薩摩を弱体化し西郷の暗殺を画策した(と私学校側が思い込んだ)政府や警視庁の真意を問責しに行きたかったのではないかと思われます。 しかし、現実には、明治の元勲たる大西郷と雖も(いえども)、血気盛んな私学校生徒達の煮えたぎる政府への不満を抑制し続けることは不可能でした。薩摩から武器弾薬を持ち出す政府(政商の三菱会社)の行動に憤懣を爆発させた私学校生徒が、草牟田火薬庫で火薬庫襲撃事件を起こした以上、情誼と義理に厚い西郷は、私学校党と命運を共にして決起するしか選択肢がなくなりました。政府の大久保は、赤龍丸を持つ三菱会社に命じて、薩摩藩が一朝に緩急ある時のために藩士からの醵出金(きょしゅつきん)を集めて備蓄していた兵器・弾薬を大阪に運び出そうとしました。 明治政府は、武器・弾薬を運び出すことで鹿児島県(薩摩藩)の軍事力を弱体化して、薩軍や西郷が決起することを未然に抑止しようと企てたわけですが、私学校の生徒達はこれは政府が近い将来、政令に大人しく従わない薩摩を征討しようとしているのだと思い込みました。『政府に先んじられれば制せられる』という不安が私学校党の若者の暴走を招き、各地の武器庫や火薬庫を襲撃して官有物である武器と弾薬が大量に略奪されました。それを取り締まるべき県令(県知事)の大山綱良は西郷隆盛の同志であり、鹿児島県下の警察官(巡査)はその殆どが私学校生徒だったので、武器・弾薬の略奪は実質的に容認されることとなりました。 維新に最大の功績を果たした鹿児島県(旧薩摩藩)はその統治の形式が旧藩時代と殆ど変わっておらず県外から来る官員も殆どいない為、実質的に西郷隆盛の権威と私学校党の支配下にある状況でした。鹿児島県令である大山綱良は、薩摩時代に若輩であった大久保利通・内務卿の指令を軽んじ政府の命令を無視していました。しかし、治外法権の独立国としての様相を呈する鹿児島県の傍若無人な振る舞いに対して、鹿児島県だけを特別扱いせずに政府の厳正な処分を求める世論が高まってきました。 西南戦争の原因となった直接の理由は、私学校党の火薬庫襲撃事件によって反政府の姿勢を明確化してしまったことと、西郷暗殺計画の予断を私学校党に持たせるような密偵を明治政府(川路利良大警視)が鹿児島に派遣したことでした。政権中枢にいた内務卿・大久保利通と大警視・川路利良が、私学校を取りまとめる西郷隆盛の暗殺を警視庁警部の中原尚雄らに指令したのではないかという疑念があったようです。 大久保と川路は薩摩に下野した私学校党の壮士に最も嫌悪されていた薩摩人で「腐れイモ」と揶揄されたりもしましたが、それは大久保が故郷を疎かにする権力欲の権化と見られ、川路が西郷に掛けられた恩顧と情愛を忘れて西郷を暗殺しようと企てる恩知らずと見られていたからです。西郷は東京に警視庁を創設して、治安維持のために六千人の警官を配置することを決め、その警官を統率する地位に川路利良を大抜擢しましたから、本来であれば川路が西郷より受けた恩顧は一朝一夕のものではなく、今日の川路の権力は昨日の西郷によってもたらされたものとも言えるのでした。 しかし、川路や大久保が薩摩や西郷を特別扱いしようとしなかったのは、言い換えれば、出身地である薩摩藩(鹿児島県)という地方の利益(プライド)よりも近代国家である日本の国益(未来)を重視したからとも解釈できます。大警視・川路利良は、西郷が下野したのに続いて次々と重要な官職にある薩摩出身者が辞職した『明治6年の政変』を前にして、『西郷どんが辞職したからといって、何故、政府高官や高級将校までその後を追うのか。自分たちが辞めれば新政府の権威が揺らぐとでも自惚れているのではないか』と批判したといいますから、基本的に官位を軽く見る親西郷派に対して良い感情を持っていなかったようです。 薩摩藩に帰投した薩摩隼人は、権力や秩序よりも情誼を重視する人たちでしたが、大久保利通と川路利良は、国家の秩序や発展を個人的な情実・地縁よりも重視して官職や権力に強いこだわりを見せました。賊軍に陥らずに官軍の側であり続ける為には、天皇から任命される官職を決して捨てるべきではないという権力ゲームのルールを忠実に守り続けたのが大久保や川路であり、西郷や桐野は官職(官位)にこだわらずに自由無碍に政府と在野の間を行き来できると楽観したところに弱点がありました。 西郷自身は明治政府や官軍に対して直接的な反乱(クーデター)を企てる意志はなく、上京する目的は明治政府の首脳陣が発したとされる暗殺の指令(密命を帯びた密偵派遣)の疑いについて問責(糾弾)するためであったといいます。西郷らは廟堂にいる三条実美に政府尋問の問責状を送付して、西郷・桐野・篠原が直ちに軍勢を率いて上京し政府の理非曲直を明らかにする次第を述べましたが、この政府尋問の為の進軍は、田原坂(たばるざか)の戦いを頂点とする日本史上でも最も苛烈な内戦である西南戦争へと発展していき、西郷・桐野・篠原以下薩軍の大半は生きて再び東京の地を踏めませんでした。 禁門の変(蛤御門の変)や長州征討、戊辰戦争では抜群の判断力と迅速な行動力を見せた軍略家の西郷隆盛とは別人のように、西南戦争の西郷は、桐野利秋や篠原国幹の愚直な正攻法の戦略を採用し続け、城山の死地へと追い込まれていきました。そもそも西南戦争での西郷は、大将(総司令官)としての責務を果たすことを始めから放棄しているかのようであり、軍議にも参加せず部下たちが議論し終わった後の戦術を無条件に事後的に承認している状態でした。指揮命令系統の頂点としての機能を全く果たさなくなった西郷は、唯々諾々と死地に向かって進む戦局を眺め続けました。 それまでの西郷は、自らの率いる兵士と死生を共にして陣頭指揮を取ることを常としていましたが、西南戦争では最期の退却戦に追い込まれるまで直接の指揮を執らず、西郷は後衛にある本営と傷病兵が送られてくる病院を行き来するだけの日々を送ったといいます。西南戦争は、最後にして最大の不平士族による反乱蜂起となりましたが、西郷隆盛は自身の生命を国家(公益)に捧げる人身御供とすることで、日本の近代化(法の支配)の大きな阻害要因となる不平士族の問題を一度に浄化したかのようでした。 明治10年9月24日、疲弊しきった薩軍は鹿児島県の城山で官軍に全面包囲されて総攻撃を受けました。最早打つべき手もなしと観念した西郷隆盛は、避難していた城山の洞窟を出た後に腹と股に被弾すると、正座合掌して東天を拝礼し別府晋介の介錯によって自刃して果てたといいます。王政復古を成し遂げた明治の元勲西郷、51歳の死去でした。桐野利秋や別府晋介、村田新八、辺見十郎太など薩軍の誇った剛毅な将官達は、最期の最期まで官軍と激しい戦闘を展開して討ち死にし、城山の塹壕で遺骸となりました。 近代日本で最大の内戦、日本史上最後の反乱とも言われる西南戦争は、2月15日の薩軍の進軍開始から数えて約7ヶ月で完全に鎮圧され、この内戦以降日本では官軍(政府)に対抗する明確な武装勢力は姿を消し、中央集権国家としての日本の基盤は磐石なものとなったのです。 西南戦争では、皇族の有栖川宮熾仁(ありすがわのみや・たるひと)親王が東征大総督(征討大総督)に任命されて薩軍の征討に当たったので、西南戦争を引き起こした薩軍は公式に賊軍とされ西郷隆盛は賊将となり死後に官位を剥奪されました。しかし、建国の功労者である西郷に対する明治天皇の寵愛が厚かったこともあり、明治22年(1889年)に大日本帝国憲法発布に伴う大赦で反乱の罪が赦免され、正三位の爵位が贈られることで名誉の回復が為されました。 ■関連URL 士族最後の反乱となった西南戦争と西郷隆盛の生涯:1 西郷隆盛の独立不羈の精神と江藤新平の佐賀の乱 吉田松陰の生涯と松下村塾が育んだ変革期の人材:1 吉田松陰の生涯と松下村塾が育んだ変革期の人材:2 ■書籍紹介 西郷隆盛と士族
|
| << 前記事(2007/04/20) | トップへ | 後記事(2007/04/24)>> |
| タイトル (本文) | ブログ名/日時 |
|---|---|
13代将軍徳川家定・14代将軍徳川家茂の婚姻:皇女和宮の降嫁による『公武合体』の挫折と江戸幕府の崩壊
『前回の記事』の続きになるが、1787年に茂姫は徳川宗家との家格の釣り合わせのために、寧姫として近衛経煕(つねひろ)の養女となり、1789年に近衛寔子(このえただこ)として婚儀が執り行われた。11代将軍の家斉と茂姫の間には五男・敦之助(あつのすけ)が産まれるが、既に側室の子・敏次郎(12代・徳川家慶)が世嗣に決まっていたので清水徳川家の養子になった。しかし、敦之助はわずか4歳で病死した。徳川家斉は10代の頃から複数の側室を持っており、26男・27女の53人もの子を設けた徳川家の歴史の中でも... ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2008/12/05 08:11 |
| << 前記事(2007/04/20) | トップへ | 後記事(2007/04/24)>> |