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西郷隆盛は、江戸城無血開城へとつなげた戊辰戦争の軍功によって、参議・陸軍大将・近衛都督を兼務する日本の最高権力者に取り立てられましたが、廟堂(朝廷)で権勢を握っていた岩倉具視(1825-1883)や三条実美(1837-1891)と折り合わない部分があり、征韓論を巡っては親友であった大久保利通(1830-1878)や木戸孝允(1833-1877)と激しく対立しました。 西郷隆盛が明治新政府で果たした最大の功績の一つが版籍奉還(1869)と廃藩置県(1871)であり、特に、封建制度を根本から瓦解させる廃藩置県の断行は、天下に鳴り響いた西郷の武名と信望がなければ実現困難であったと言われています。旧藩を直轄統治していた藩主の所領と権限の全てを奪って、中央政府が派遣する県知事(県令)に地方統治の権限を移すわけですから、発足して間もない明治政府の首脳陣は、反政府勢力による反乱が相次いで収拾がつかなくなるのではないかという恐れがあったのです。 廃藩置県の決断がどうしてもつかない政府首脳陣は、維新後すぐに薩摩に下野していた西郷隆盛に何度も上京を促し、政府の全権を委ねるから何とか廃藩置県への助力を願えないかと懇請します。不平士族を率いる旧藩主や過激な党派の決起を恐れて優柔不断な議論を重ねる大久保や木戸、岩倉に対し、上京した西郷は『廃藩置県の実施の手順が決まれば、後は俺どんが引き受けるので、迷いなく存分に改革をおやりなさい』と語り、政府に反抗する勢力があれば自ら全軍を率いて即座に鎮圧すると力強く誓いました。 先祖伝来の土地と権限を政府に全て返上することになる廃藩置県の断行に成功した明治政府は、急速に集権的な政権基盤を磐石なものとしていきます。300年近く継続した江戸時代の封建的な幕藩体制(鎌倉幕府からだと700年も続いた二重権力の封建制度)は、西郷隆盛の声望を背景にした明治政府の廃藩置県の発令によって一夜にして崩壊しました。 しかし、強力な軍事力と維新への功績を持つ薩摩藩だけは鹿児島県になっても、暗黙の了解として治外法権的な取り扱いを認められ、日本国内における独立国のような様相を呈し続けていました。新政府は、維新の大功労者である西郷と島津がいる薩摩藩に対してだけは弱腰だったのですが、その理由は、政府樹立へ貢献した西郷や島津への配慮というよりも、日本各地の不平士族を糾合する求心力のある西郷が決起すれば、政府が転覆する恐れがあったからです。 西郷隆盛と大久保利通と並んで維新の三傑に数えられる木戸孝允(桂小五郎)ですが、国力を増強するための現実的な近代化を構想していた木戸は、西郷と性格的に折り合わない部分があったともいいます。木戸は、西南戦争の途上で日本の行く末と西郷の反乱の末路を懸念しながら病没すること(1877年5月26日)になりますが、西郷を西南戦争で自決に追い込んだ大久保利通も翌年1878年5月14日に刺客に襲撃されて暗殺されることとなり、明治政府が主導する日本国の命運は伊藤博文や大隈重信など次の指導者に委ねられることとなりました。 明治維新の最大の功労者である西郷隆盛(1828-1877)が全ての官職を返上した(陸軍大将の官位は返還が認められず)のは、大久保利通・木戸孝允・大木喬任(おおきたかとう)らの征韓論に対する反対と岩倉具視の宮中工作によって征韓論が退けられたからでした。当時、明治天皇の裁可によって西郷隆盛は韓国外交の政策判断を一任されていたのですが、韓国に開国と国交通商を求めようとする征韓論が退けられたことにより、西郷は官職を辞して下野することになります。 征韓論というのは、韓国(朝鮮半島)を武力で直接的に征服しようとする政策ではなく、日本(新政府)を主権国家として認めない韓国に主権を認めさせ、武力を背景に開国させて貿易や交流をしようとする政策です。征韓論を唱えた西郷隆盛は、軍隊を率いる司令官として韓国に乗り込もうと考えたのではなく、国交と通商を求める遣韓大使として韓国に赴きたいと考えていたのでした。 征韓論には、武士の特権である帯刀や俸禄を剥奪されて不満と怒りをたぎらせている士族の意識を、外部(西郷の韓国派遣)に逸らすというガス抜きの意図もありました。国内において居場所やアイデンティティを失いつつあった士族の憤懣を和らげ、新天地への興奮と意欲を高めるために、西郷らによって征韓論が主張された部分があったのです。しかし、新政府の政権基盤が安定するまでは外交の発展よりも内政の充実を優先すべきという岩倉使節団派(岩倉・大久保・木戸など)の意見が通り、明治天皇もその意見を承認したことから、西郷の韓国派遣は無期限延期となって見合わされるところとなりました。 征韓論の論争に敗れた陸軍大将の西郷隆盛は、明治6年11月に故郷の鹿児島県(旧薩摩藩)に下野して、健康維持のための狩猟や湯治、私学校党の教育に明け暮れる隠棲の日々を過ごすことになりますが、明治10年の西南戦争が勃発する間際まで、西郷には政府に対して弓を引こうとする意図は微塵もなかったといいます。維新の英傑であり国家の柱石であった西郷隆盛の懸命の請願を、明治政府が無下に退けたことにより、次々と薩摩出身の明治政府の高官や軍人が官職を辞して在野の士となっていきます。征韓論というのは、単純に平和か戦争か外交重視か内政注力かという問題ではなく、岩倉使節団の党派(岩倉具視・大久保利通・木戸孝允・大隈重信ら)と西郷隆盛の党派(江藤新平・板垣退助ら)の権力闘争としての意味合いも帯びていたのです。 参議として西郷の征韓論に同調していた土佐の板垣退助・後藤象二郎、佐賀の江藤新平・副島種臣(そえじま・たねおみ)も相次いで辞職し、西郷の腹心であった陸軍少将の桐野利秋や篠原国幹(しのはら・くにもと)、村田新八、別府晋介も西郷に追随し、官軍や警察に居た薩摩藩士の多くも西郷と共に下野しました。明治6年当時の明治政府の政権基盤(西郷抜きの軍事力)は未だ脆弱であり、西南戦争が明治10年よりも早い段階で他の不平士族の反乱と同期して起こっていたならば、明治政府は間違いなく瓦解していたと思われます。 しかし、西郷自身は西南戦争が始まってからも軍隊の指揮命令を直接行っておらず、新政府を打倒して自分が政権を掌握しようとする野心は全く無かったのですから、他の不平士族の反乱と協調する可能性はまず無かったと言えます。佐賀の乱(1874)を起こした司法卿の江藤新平などは、事前に指宿の鰻温泉で湯治をしていた西郷隆盛の元を訪れて、一緒に決起して上京してくれるように請願しますが西郷は決してその申し出を受けませんでした。 西郷は、薩摩で暴走して突出しようとする私学校生徒の血気や激昂を必死で抑えて、『まだ、上京する時期ではない』と言い続けましたが、本気で政府を圧倒する勢威を見せ付けるのであれば、もっと早い時期に戦争への物資面での準備(糧食・弾薬・銃砲・大砲の準備)を整え、九州・四国・中国で勃興していた不平士族の有志連合に檄文を送って決起していたと思われます。そもそも、西郷が政治権力への執着が強い人物であれば、位階(官職)を捨てずに中央政府に残って、その名声と信望を利用した軍事クーデターを起こせば確実に成功していたでしょう。征韓論に反対していた大久保や木戸、岩倉、大木といったメンバーには、西郷のような世論の支持がなく日本国中で通用するような声望もなかったのですから、首都東京で西郷が軍を率いて反旗を翻せばそれを鎮圧することは不可能だったのです。 1874年の佐賀の乱を主導したのは、中央政府で司法卿を勤めた江藤新平と明治天皇に武芸を教授する侍従と秋田県令の役職を勤めた島義勇(しま・よしたけ)でした。佐賀には征韓論を支持する反政府的な「征韓党」と欧化政策を批判する保守反動的な「憂国党」があり、征韓党は西郷隆盛や桐野利秋との連携を求め、憂国党は薩摩の国父・島津久光の支援を受けようとしていました。江藤新平は、「反政府勢力が不穏な動きを見せる佐賀の血気盛んな壮士を鎮撫するために下野する」という名目で、佐賀に戻ったのですが内心では薩長閥が牛耳る政府の転覆を企てていました。 近代国家日本の司法制度の礎を築いた司法卿の江藤新平は、新政府の中で他の閣僚が畏怖するほどの権力を保持していましたが、佐賀藩出身者はどうしても、戊辰戦争に直接的な軍功のある薩摩藩や長州藩の出身者よりも立場が弱いという状況があったのです。しかし、江藤新平は自分に天下を動乱させるほどの名声や信望がないことは十分に知っていました。 そこで、日本国中の反政府主義者と不平士族がその動向を注目している西郷隆盛を扇動して決起させることを目論みます。西郷さえ覚悟を決めて決起すれば、薩摩だけでなく長州・土佐・佐賀・東北雄藩を始めとする全国の不平士族が雪崩を打って呼応し、大久保ら薩長閥が権力を握る新政府を一瞬の内に瓦解せしめることができるという策略を江藤新平は巡らしていたのです。日本国中に新政府を憎悪する不穏なガスは十分な量が立ち込めているが、それらのガスを一箇所に集中させて爆破させるほどの求心力を持った導火線のような人物は、西郷隆盛を置いて他にはいなかったのです。 しかし、結果として、西郷は佐賀の江藤の呼びかけにも熊本の神風連の呼びかけにも答えず、『まだ時期尚早である』として不気味な沈黙を守り続けました。西郷は武力によって政権を思い通りにしようとなどとする江藤のような反政府の意志は持っておらず、自分に委譲されていたはずの韓国外交の政策を不当に退けられた為に『これ以上、政府に残る意義はなし』として鹿児島に帰ったのでした。 親西郷派で反政府の思いを抱いていた土佐藩出身の林有造(はやしゆうぞう)は、佐賀の乱を起こそうとする直前の江藤新平に対して『薩摩藩の西郷さんは、今は絶対に決起しないから、全国の不平士族を蜂起させて政府を倒すという君の狙いは上手くいかない。軽々しい挙兵は控えて、今はひたすら臥薪嘗胆すべきではないか』といった助言を与えますが、江藤新平は佐賀県の熱狂する士族の勢いを押し留めることができず、ついに自滅的な反乱へと突き進むことになります。江藤よりも一段上の計略を巡らす策謀家であった大久保利通は、江藤新平という厄介な人材が下野して反乱の準備を整えていることを知った時には、『我が意を得たり』と雀躍(じゃくやく)したに違いありません。 近代国家の法制の基盤を確立した大久保の強か(したたか)なところは、政治権力の正統性を握っていることの強みを十分に知っていたことであり、朝廷に弓引く賊軍とならない為に決して中央政府の官職から軽々しく離れなかったところでしょう。京都において長州藩が朝敵とされた禁門の変(蛤御門の変, 1864)を経験し、長州征討の征長総督参謀を務めた西郷隆盛も、何が官軍と賊軍を分けるのかという基準について熟知していたはずですが、最後は自身が鹿児島で組織した私学校党の高ぶる士気と激昂を収めることができず西南の役へと逸脱していきました。 ■関連URL 西郷隆盛(西郷南洲)の遺訓と薩摩隼人の質実剛健の気風 ■書籍紹介 江藤新平―近代日本のかたちをデザインした人
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士族最後の反乱となった西南戦争と西郷隆盛の生涯:1
西南戦争の薩軍の主戦力となった鹿児島の私学校というのは、西郷隆盛が設立した私設の教育機関であり、鹿児島県下で乱暴者(ぼっけもん)といわれる不平士族の暴走を戒めて統御し、未来の日本を背負って立つ人材を育成するという目的を持った学校でした。 ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2007/04/20 00:15 |
士族最後の反乱となった西南戦争と西郷隆盛の生涯:2
何故、鹿児島県(薩摩藩)に下った西郷隆盛が、至誠の尊王思想の持ち主でありながら、官軍と衝突する西南戦争(1877)を引き起こしたのかという理由には諸説ありますが、西郷自身には官軍と戦闘を交えてでも上京するという確固たる意志はなかったと言われます。西郷は可能であれば、1万3千人もの薩軍を率いて戦闘をしながら上京を目指すのではなく、陸軍大将である自分と陸軍少将の桐野、篠原など最小限の人員を連れて、薩摩を弱体化し西郷の暗殺を画策した(と私学校側が思い込んだ)政府や警視庁の真意を問責しに行きたかっ... ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2007/04/22 07:33 |
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