元農水事務次官が44歳の息子を刺殺した事件:中高年ひきこもりと自己アイデンティティ拡散

農林水産省の元事務次官・熊澤英昭容疑者(76)が東京練馬区の住宅で長男の熊澤英一郎さん(44)を刺殺した事件では、「川崎市無差別事件を見て、息子も他人に危害を加えるかも知れない」と思ったことが動機の一つとして語られました。国家公務員の事務方トップだった元事務次官が直接、子の殺人に関与した事件として特異な事件ですが、この事件は他のひきこもり事件とは異なり「経済的困窮がないのに引き起こされた事件」としても注目されます。

英一郎さんは中学生時代から両親に対する家庭内暴力が見られたということですが、中高一貫校を卒業して私大に進みその私大を中退しています。その後、専門学校に通っていた期間があり、再び私大受験をして大学院にまで進んだと報じられていて、大学院修了後は勤続期間は不明ですが、一時就職していたとも言われています。

その仕事を辞めてから長期間のひきこもり状態に入ったと推測されますが、父親の熊澤英昭容疑者がハードワークの国家公務員・事務次官であったことを考えると、どれくらい英一郎さんの子育て・教育に関わってきたかは分かりません。ただ同人誌(自分で描いた漫画)を販売するために英一郎さんがコミケに出店した際、父親の英明容疑者も同行して販売を手伝っていたとの報道もあり、父子関係や親子間のコミュニケーションが完全に断絶していたとまでは言えないように思います。

殺人事件が起こる以前、英一郎さんは両親の元から離れて十年以上にわたって一人暮らしをしていたとも伝えられていますが、5月末に本人の希望によって自宅に戻ってから今回の事件が起こってしまったようです。長期ひきこもりの場合、実家に経済的余裕があると、家賃・食費・社会保険・雑費などを親が全面的に負担して、ひきこもりの子供を一人暮らしさせるケースは比較的多いのですが、いったん一人暮らしをさせて実家に出戻りすると大きな事件に発展するケースもまた多い感じがあります。

その理由として考えられるのは、子供とほとんど関わらないような形でただ形式的に一人暮らしをさせると、ひきこもり状態にある子供は「自分を厄介払いした・邪魔者扱いしている・見捨てられて放置されている」と悪い方向に一人暮らしの意味を解釈しやすく、生活に必要なお金だけは親が全部出してくれているので「経済的・精神的な自立の促進(自己アイデンティティの再構築につながるモチベーションの向上)」にはほとんど役立たないということです。

今回の熊澤英一郎さんはドラクエ10などのオンラインゲームに月30万円以上も課金していたとの報道もあり、経済的に追い詰められたり、父親から「今すぐ働け・自宅から出て行け」とプレッシャーをかけられたりして家庭内暴力を振るっていたわけではありません。

どちらかというと、父親は中高年ひきこもりの当事者である息子に対して、「大きな問題・家庭内暴力・犯罪などがなくて、このままおとなしく何か自分の楽しみを見つけて生活するならそれでも良い(息子が死ぬまでの最低限の生活費くらいは何とかできる)」と考えていた節すらあります。しかし、「川崎市の無差別殺傷事件+息子の暴言・家庭内暴力」に触発される形で、息子と自分たち夫婦の今後を悲観して殺害に及んだ可能性が高いと思います。

息子の中高年ひきこもり問題が殺人の根本的要因のように報じられていますが、今回の事件に限っては「ひきこもり・経済問題」そのものよりも、「息子の家庭内暴力+小学校に不満をぶちまける精神的不安定(川崎市の事件のように息子も他人に危害を加えるのではないかとの不安)」が殺害を決断する直接の動機になったのではないかと推量されます。事件前に息子が暴れて情緒不安定になり、「隣の小学校の運動会がうるさい・(小学生を)ぶっ殺してやる」などの暴言を吐いたことも、父親が川崎市の無差別事件を連想して殺害に至る一因になっています。

父親の英昭容疑者だけでなく母親も、息子が中学生の頃から家庭内暴力を受けていたと報じられていますが、不登校・ひきこもりの子供が「家庭内の暴君」になって物理的な暴力を親に振るうという問題は比較的多くある問題です。その際には、「自分の人生がこんなに悲惨で情けない状態にあるのは、お前らのせいだ」という責任転嫁を伴うことが多く、英一郎さんの家庭内暴力にも「両親に対する責任転嫁・八つ当たりの要素」があったと考えられます。

ひきこもり・家庭内暴力と関係する親子間殺人では「家庭内の暴君になった子供・親に対する暴力のエスカレート」が見られることが多く、今回の事件では76歳と高齢になって体力も落ちた英昭容疑者が「英一郎さんの家庭内暴力を受け流し続ける自信を失ったこと・このままでは自分と妻が殺されるかもしれないと危惧したこと」も殺人の誘因になったように見えます。

実際、英昭容疑者は事件前に、「(これ以上の暴力には耐えられないので)次に暴力を振るわれたら、息子を殺すかもしれない」という発言を妻にしていたとされています。

なぜ経済生活上の不安・困窮がないように見える英一郎さんがここまで暴れたのかの理由は、事件前に父親に向かって叫んでいたとされる「俺の人生は何なんだ?」というフレーズに集約されているのかもしれません。自分が何者であるのかの「自己アイデンティティの拡散の長期化」によって、何をやればいいのかが全くわからなくなった状態(ひきこもってどんなにお金を使っても何も楽しくないし不安ばかりが募る状態)にあったのではないかと考えられます。

嫌々ながらでも生活・家族のために仕事をしている人から見れば、「何もしなくても最低限以上の生活が死ぬまで保障されているかに見える英一郎さんのひきこもり状態」が羨ましく見えたり甘えているだけに見えたりするものですが、「ずっと何もしなくてもいいよ・衣食住だけは保障してあげるから・後は自分で適当にどうにかしてくれ」というのは、自己アイデンティティが拡散した人にとっては「生きる意味の喪失に追い打ちをかける状態」にもなりかねない面はあります。

常識的に考えれば、そこまで自分が社会的・人間関係的に何者か分からない「自己アイデンティティ拡散」で苦悩しているなら、バイトでも派遣でもいいからとにかく何かちょっとした仕事をして社会参加をすればいいのにとなりますが、「数十年以上のひきこもり生活と対人不安(対人緊張・自信喪失)・根拠や実績のないプライドの肥大」がある場合、実社会・労働現場に復帰することは一筋縄ではいかないものなのです。

子供時代には農水省のエリート官僚の息子として、学業・就職に大きな期待がかけられた反動(学歴エリートとして就職・活躍する道で挫折した反動)もあったでしょうし、「長期間にわたるひきこもりの不利益・マイナス要因」をどうやって挽回して社会・仕事に再適応すれば良いのかのとっかかりすら分からないという混乱状態の長期化もあったでしょう。

中高年ひきこもりは長期化するほど問題解決は困難になりやすいのですが、ひきこもり問題全般において、「社会的アイデンティティの再構築(社会参加して何らかの社会的職業的な役割を果たして収入を得ること)」と「実存的アイデンティティの再構築(唯一無二である自分の存在をどのような価値があるものとして受け入れていき社会適応と統合するか)」をどう進めていくかの具体策の早期立案が求められると思います。

「社会的アイデンティティの再構築」と「実存的アイデンティティの再構築」は切り離して考えることはできませんが、今回の農水事務次官の息子さんの場合には「実存的アイデンティティの拡散(何もしていない何もできない自分の存在意義が分からなくなる+自分が社会的・対人的にいないような存在になっている不安)」の影響で、両親に対する暴力・責任追及がエスカレートしたと考えられるでしょう。


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この記事へのコメント

Sherman
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これは、自宅が小学校の隣で、当日小学校は運動会でうるさかったのである。
「うるさい」という認知と「不快だ」という感情を禁止することは普通出来ないのに、親がそれに反発して抑止したのである。
「うん、うるさい。引っ越すか。」という話になれば、何も問題はない。
世間や親に合わせることを不合理な方法で子供に強いるから、子供が壊れる。強力で感性の鈍い親は子供にとって天敵になると思う。稀に、何かが壊れてそれが原因で死ぬことになる。
感性を大事にする世の中になってほしい。

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