日露首脳会談の成果は共同経済活動・元島民の自由往来が中心に1:北方領土問題の歴史

日本の安倍首相とロシアのプーチン大統領の『日露首脳会談』が山口県長門市と東京の首相官邸で行われたが、戦後日本の長年の対ロ(対旧ソ連)の外交目標である『北方領土の返還交渉』はほとんど実質的な内容や時期に踏み込むことはできなかった。

安倍首相の故郷である山口県長門市では、首相行きつけの秘湯の温泉が湧いているという旅館『大谷山荘』にプーチン大統領を招いて、温泉と地元の食材をふんだんに使った料理でもてなした。プーチン大統領も宮本武蔵戦術とも言われる遅刻を繰り返しながらも、安倍首相やマスメディアに対して終始にこやかな笑顔と会釈で機嫌よく対応していたのが印象に残った。

しかし、表向きの柔らかい表情や親和的な態度とは裏腹に、プーチン大統領は『北方領土問題』では付け入る隙をほとんど見せなかったようで、大谷山荘では約5時間にわたり首脳会談で日本の首相・閣僚と話し込んだものの、北方領土返還のプロセスについて具体的に突っ込んだ質問をすることは恐らく誰もできなかったのだろうと推測される。

プーチン大統領の北方四島に対する基本認識は、ソ連時代の『日ソ共同宣言(1956年)』を継承するもので、色丹島・歯舞群島の二島は平和条約締結をすれば交渉を通して返還できる可能性があるが、国後島・択捉島はロシアが正当な戦争の結果として得た領土であるため、日本に返還する余地はほぼない(交渉そのものは全否定まではしないにせよ)とするものである。

北方領土四島(国後島・択捉島・色丹島・歯舞群島)の問題は、第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)8月まで遡る。日本側からすれば『日ソ中立条約』を一方的に破棄して(8月8日)対日参戦してきたソ連に、ポツダム宣言の受諾後に北方領土(千島列島)を侵略・不法占拠されたので返還して欲しいということである。

ただし、当時の中立条約(不可侵条約)は国際情勢・戦争状況のパワーバランスによっていつ反故にされてもおかしくない性格のもので、1941年に締結された日ソ中立条約でも日本は独ソ戦でドイツの戦局が有利になればソ連を連携して攻撃すること(日ソ中立条約を軍事行動をもって破棄すること)を御前会議で話し合っていた。

ソ連の対日参戦は米英ソの『ヤルタ会談(1945年2月)』で既に決定していたが、第二次世界大戦後の連合国による統治体制と国際秩序を語り合ったこのヤルタ会談で、『樺太・千島列島』がソ連に帰属することが確認されていた。この千島列島という地名にどの島まで含まれるかについても日ソの間に長年の対立があるが、日本は北方領土より北にあるウルップ島以北の樺太にまで続く列島を、ロシア領(ソ連領)の千島列島(クリル列島)として認識している。

日本側のソ連による北方領土の侵略・不法占拠の根拠は、8月14日にポツダム宣言の受諾を決定して連合国(米・英・ソ・中)に通達し、翌15日には天皇が玉音放送で戦争の降伏を国民に伝えていたにも関わらず、その後にソ連軍が南下して千島列島だけでなくその南にある日本固有の領土である北方四島まで支配してしまったというものである。

日本がポツダム宣言を受諾して日本軍が武装解除・撤退の準備を始めているにも関わらず、8月18日以降にソ連軍が一方的に攻撃を仕掛けてきた(占守島の戦い・日本軍のシベリア抑留)のは国際法違反・道義的な問題があるのではないかということだが、『南樺太・千島列島』に関しては元々はソ連領であり日本が領有権を維持できないことはヤルタ会談の時点で確認されていた。

この千島列島(クリル列島)に北方領土の四島は含まれないというのが日本側の一貫した認識だが、ロシア(ソ連)は譲歩しても『国後島・択捉島』の面積の大きな二島に関してはあくまでクリル列島を構成するロシア固有の領土であり、『色丹島・歯舞群島』は元々は日本領だったかもしれないが戦争で勝ってソ連に組み込まれた島という考え方である。日本軍が武装解除して撤収した後、ソ連軍は抵抗を受けずに1945年8月28日~9月1日にかけて択捉島・国後島・色丹島を占領支配している。

日本の歴史認識では1945年(昭和20年)8月14日のポツダム宣言受諾の段階で戦争が終わっていて、日本軍に戦争継続の意思はなく武装解除を進めていたので、14日以降のソ連の戦争行為は侵略戦争ということになる。南樺太やウルップ島以北の千島列島(クリル列島)に関しては、一部の日本軍の守備隊は残っていたが武装解除・撤収の準備中で抵抗する意思もなく、ソ連軍が実力行使で攻めてこなくても、いずれ撤退して平和的にソ連領として北方領土以北の島々をすべて返還していたというのである。

しかし、ソ連の歴史認識では1945年9月2日の連合国に対する日本の降伏文書調印までは日本とソ連は戦争中だったというものであり、ポツダム宣言受諾だけでは終戦とは見なせず、降伏文書調印までの北方領土に対する占領行為は合法的なものであるとしている。ロシアが『日露間に領土問題は存在しない』という時には、戦争による正当な占領行為という歴史認識が前提にあるが、1956年の『日ソ共同宣言』では色丹島・歯舞群島を平和条約の締結後に日本に返還するという取り決めがなされていた。

ロシア(旧ソ連)は長らく国後島・択捉島だけは返せないが、色丹島・歯舞群島なら平和条約と交換で返せるとする『二島返還』については前向きな姿勢を示していたが、日本では『四島一括返還(一回の条約締結での領土問題の完全解決)』が圧倒的に優勢であったため、二島返還だけで領土問題が解決したと見なされることを警戒して二島返還の申し出に応じてこなかったのである。

ソ連崩壊後にCIS(独立国家共同体)を経てロシアになってからも、日本との間の早期の平和条約締結はロシアの悲願であり、プーチン大統領もその例外ではない。だが、ソ連時代には米ソ冷戦の安全保障上の要請もあって『二島返還と交換の平和条約締結』に前向きだったロシアも、現在では『四島全てのロシアへの帰属感・既得権』を強めており、よほどロシアの経済事情が切羽詰らない限りは、四島一括どころか二島返還も難しくなっているのが現状である。

1998年の日本とロシアの日露首脳会談では、お互いが相手国に求める条件が改めて浮き彫りになった。日本側はまず択捉島とウルップ島の間に国境線を引いてくれれば(四島返還まではロシアの現在の施政権を合法的なものと認める)平和条約に合意できるという『川奈提案』を行った。ロシア側の『モスクワ提案』では国境線を確定したり北方領土の帰属・返還を議論するよりも先に平和条約をまず締結して、別の条約で国境線については考えるべきだとした。

現在に至るまで、北方領土問題におけるこの日露間の基本的な態度の溝は埋まっていない。安倍首相が譲歩・進展の見込めない北方領土返還よりも先に『日露の共同経済活動(経済協力)』の合意を急いだのは、『日本の資本・技術・人材』を北方四島に投入しながら話し合いの足場を作る現実的な選択ではあったのだろう。プーチン大統領に対して『短期での領土返還の実現』を何らかの交換条件を出して強く求めたとしても頷いてくれる可能性はほぼゼロであり、あまりに強気に責めるような口調になれば今まで築いてきた日露の友好関係や対話可能な首脳関係そのものが壊れかねない。


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