舛添要一都知事の“メンタル最強”と“自己特別視・客観視・脱人格化”の心理メカニズム

舛添知事の『メンタル最強(膨大な数の非難・否定に折れない平常心)』を実現している心理メカニズムを推測するとすれば、『自己特別視』『客観視(傍観者意識)』『脱人格化』などを上げることができるのではないかと思う。

舛添知事は『政治家はトップエリート(それに相応しいハイクラスの待遇があって然るべき)』や『国民全体の利益が増進するなら使ったカネなど端金(はしたがね)』といった発言・記述があるが、これは『自己特別視』の心理メカニズムを反映している可能性がある。『選ばれたトップエリート(選良)の自分』と『一般大衆の有権者』との間に一線を引くことによって、努力して特別に高い地位にまで昇った自分(権力者)にはそれなりに一般国民とは異なる良い待遇・報酬があるべきという信念が育まれる。

舛添要一都知事の政治資金流用疑惑と金銭感覚のズレ2:トップエリートの特権意識は通用しない時代に

結果として、政治資金の私的流用も『認められて然るべきエリートの待遇』の範疇に含まれてしまい、やるべき仕事をしっかり果たしてさえいれば、公金を恣意的に使うことに対する罪悪感も薄くなるのである。

舛添知事は政治家や知事としての仕事ぶりが怠慢であるとか能力が低いとかいう点で非難されてはいないように、自分の自己評価としても『政治家としての仕事を人並み以上に高い水準でこなしてきた』というような自負心があるのだろう。その自負心・努力を背景にして『トップエリートである権力者としての政治家であればこれくらいの特権・政治資金の裁量があってもいいはず(今までも政治資金の会計ではそういった使途の曖昧さを許す慣習が認められてきたはず)』という自分への甘さが生まれやすいのではないかと思う。

そこには『国民全体の利益の増進』と『政治家の特権(多少の不正の暗黙の了解)』をバーターにするような時代錯誤な自己特別視(=選良的な特権意識)が働いているため、大きな仕事をしている自分に対して、小さなお金のことであれこれ追及するなというような傲慢さが生まれやすいが、政治とカネの問題に厳しくなってきた現代の有権者にはそういった権力者の恣意的な金銭感覚は受け容れられないだろう。世間や国民には権力者の特権容認の要求(身分意識に基づく慣習の持続)は受け容れられないが、自分自身の正当性やアイデンティティーとしては『自己特別視』によって今まで通りの精神の安定を維持しやすくなる。

『客観視(傍観者意識)』というのは、『第三者の専門家の公正な判断に委ねる』や『政治資金規正法上の違法性はない』といった言葉に反映されるもので、問題状況を自分自身の行為や感情をできるだけ介在させずに客観的に認識して判断することであり、『自分自身が強く責められているという感覚』を弱める効果がある。

舛添知事は『そういったご批判(見方)もあることは承知しておりますが~』という言い回しを好んで使うが、これも『記者・都民の一つの意見・見方』と『それ以外の意見・見方』を並列に並べて比較検討していく客観視の心理メカニズムを強めるものである。

客観視は『自分が強く否定されている意見は色々な多くの意見がある中での一つの意見に過ぎない(あなたの意見だけが絶対的に正しいわけではない)』という批判意見の相対化を強めてくれる。更に、『自分も自分を批判してくる相手と一緒になって客観的に問題状況を分析する』という傍観者意識(自分を棚に上げた立場)による心理的ストレスの緩和もある。

『おっしゃるとおりです・確かにそういった見方はあります・その点については真摯に反省をして~』など相手の意見に合わせて同調しながら語ってくるので、いくらバッシングしても舛添さんがどのように感じているかは見えてこないのだが、返答を求めている重要な内容や質問に対してだけは『同調しない(辞任はしない)』と決めているようである。

今、自分のことが問題になって色々ときつく言われているのに『他人事・傍観者』のようにして落ち着いた口調で語るスタイル(あるいは同じような回答を繰り返すだけのスタイル)であり、いつの間にか批判・否定してくる相手と同じような立場(目線)になって自分の問題状況・流用疑惑を客観視して分析しているのである。

自分の振る舞いがバッシングされているのに『なるほど、確かにそのようなご意見はあるかと思いますが~』と機械的な繰り返しの反復をすることによって、批判する相手のほうが『糠に釘』でこの人に何を言っても無駄なのではないかと疲れ果てたり呆れたりしてしまうのである。激しく攻撃的にバッシングしている個人・勢力であっても、その攻撃的な言論によって相手にまったく効果的な変化が見られない状況が続き(精神的に激高もせず落ち込みもせず最終判断も変わらない)、毎回コピペのような同じ答弁を聞かされているといずれは諦めてしまうような気持ちへと逆に追い込まれやすい。

舛添知事本人も、客観視によって自分自身の立場や感情を棚に置いて分析するスタンス(第三者に判断を委ねるスタンス)を取ることによって、『自分が直接的に集中攻撃されているという被害者意識』を弱めることができ、あたかも自分が批判されている事実を忘れたかのように感じられる『主格意識の混同(他人事としてみんなと合わせて分析して語る)・自己の主体性の放棄(批判者に同調しつつも責任は回避する)』を導けるのである。

衆人環視で激しくバッシングされる状態でも精神的に追い込まれない『メンタル最強』をもたらす要因としては、自我防衛機制の一種でもある『脱人格化』が影響している可能性もある。

人前で緊張せずにスピーチや演奏をするメンタルトレーニングの方法として、『観客を野菜(自意識のないモノ)と思いこむ』というのは有名であるが、脱人格化というのは他者の人格(主体性・評価する意識)をできるだけ気にしないようにするという心理メカニズムであり、それが意識的に行われる場合もあれば無意識的に他者の人格を無視してしまうような場合もある。

他者に自分と同じような『心(主体性・評価する視点)』があると共感的に思い込めば思い込むほど、人間は他者からの批判・否定・非難を深刻に受け止めて強烈なストレスを感じるようになり、遂には自律神経系のバランスを崩したり心身の調子を悪化させてしまうこと(激しい批判に耐えられずに逃避すること=自分が責められている重圧に耐えられずに辞職すること)になる。

『脱人格化』というのは他者の人格・感情をリアルなものとして感じないようにさせる自我防衛機制であり、本来は看護師・教師・医師などの対人援助職における『バーンアウト症候群(燃え尽き症候群)』などで見られやすいもので、自分を『情緒的資源の枯渇(他者に対する過剰配慮の疲弊・燃え尽き)』から守るための無意識的な防衛機制として定義されることが多い。

脱人格化が起こると、他者に対して感情のこもらない形式的・事務的な対応をしやすくなり、他者を人格・意識を持つ主体として意識しなくても良いように『没個性的なラベル』を貼ったりする。そして、『相手の言葉や感情を真に受けない・親身になって話を聞かない(その場だけの定型的なやり取りとして割り切る)・相手に深く感情移入しない』などの心理状態(認知傾向)の変化によって、相手から責められている(否定されている)と感じる事による精神的ストレスはかなり弱められるのである。

『自己特別視』『客観視(傍観者意識)』『脱人格化』などの心理メカニズムによって、仮に他者から与えられるストレスやプレッシャーに動じない『メンタル最強の心理状態』が作られるとしても、そういった他者(有権者)の感情・主張・意志を正面から受け止めずに傷つかないような人に、知事としての資質・適格性があるかないかはまた別の問題ではある。

舛添知事をはじめ、政治家としての出処進退(辞職の有無)は犯罪行為がない限りは本人の判断によって決めるしかないところがあるが、『有権者の不支持率・辞任要求の多さ』が一定水準を超えたら、選挙・代議制に基づく民主主義政治の原則からしても政治家はそういった民意を完全に無視すべきではないし、何を言われても自分の信念や価値観だけ貫けば良いという話でもないと思うが、これからの都議会の集中審議や自公の政治判断、会期延長の是非の推移などを注視したい。


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