小保方晴子『あの日』の書評2:チャールズ・バカンティのスポアライク・ステム・セル仮説の影響

バカンティマウスを作成したチャールズ・バカンティ教授の研究室に所属することになるが、一緒に研究する3人の学生たち(アナ・セレナ・ヴァネッサ)もイェール大主席卒業のセレナをはじめとして秀才揃いである。

ハーバード大学・バカンティ研究所での研究生活は、気管の人工器官を生体に定着させるためのヒツジの鼻腔粘膜上皮細胞シートを作成する実験から始まるが、小保方さんは他の3人に細胞培養の実験手技を教えたとあり、実験手技の経験と技能で勝る手先の器用さがあったのではないかと感じた。

小保方晴子『あの日』の書評1:小保方氏の学生時代と再生医療への興味

後のSTAP細胞研究の発想・仕組みとも関係するチャールズ・バカンティ教授の仮説である『スポアライク・ステム・セル(Spore-like Stem Cells:胞子様幹細胞)』についても詳しく説明されている。

これは全身の組織にストレスに強い非常に小さな胞子様の共通の幹細胞(どんな細胞にも分化可能な多能性幹細胞)があるという仮説であり、各組織に存在する限定的な分化しかできない幹細胞の限界(例えば皮膚の幹細胞は皮膚の修復・維持のためにしか分化できない限界がある)を超えられる可能性を示唆するものであった。

全身の組織に分化の多能性を持つスポアライク・ステム・セル(胞子様幹細胞)が存在するという仮説を実証するために、アナやヴァネッサが骨髄から採取した細胞を細いガラス管の中に20~30分通し続ける実験を行った。

細いガラス管を何回も通過させて小さな細胞だけを濾過し、その細胞を無血清培地中で培養すると、増殖能を持つ幹細胞の分裂を推測させる『スフェア細胞』と呼ばれる細胞塊ができてくるのだという。この非常に細いガラス管を通過させるストレスを与える方法は、STAP細胞作成の仕組みとして出されたものでもあった。

再生医療の進歩発展のためにはどんな器官・組織にも分化させることができる万能細胞とも呼ばれる多能性幹細胞が必要なのだが、ここで大きな研究目標になるのは『多能性幹細胞が生体内でどのような形どの場所に存在するのか』『(京大・山中伸弥教授のiPS細胞とは異なる方法によって)多能性幹細胞を体細胞から作成することは可能なのか』ということだろう。

現段階では研究者共同体の共通認識として『概ね存在しない(再現実験に誰も成功できない)』という結論が出されたSTAP細胞は、主に後者の多能性幹細胞作成の革新的な方法論として、センセーショナルな(メディア受けが計算された)小保方さんのプレゼンと共に世の中に提唱されたものでもあった。

仮に、山中伸弥教授のiPS細胞よりも簡易かつ確実な方法で短期間にSTAP細胞のような多能性幹細胞を継続的に作成できるのであれば、この研究はほぼ間違いなく将来のノーベル生理医学賞受賞の可能性が高い人類の医療の未来に貢献する研究になったはずである。

チャールズ・バカンティ教授から出されたクリティカルなホームワークに応えるために、小保方さんは幹細胞生物学の歴史を詳細に振り返るかのように大量の論文を読み続け、過去の科学者たちの自由な発想や洞察の深さに感嘆させられたという。

『スフェア細胞』がバカンティ教授のいうスポアライク・ステム・セル(胞子様幹細胞)が全身に存在する証拠になるのであれば、スフェア細胞に万能細胞・初期化のマーカーである“Oct4”の遺伝子発現が見られるはずであるという研究仮説の発想は、確かに研究者ではなくても本書の研究進捗の流れを目で追っていくだけの読者でも『新たな発見を導く自由な発想』のように感じられるものである。

バカンティ研究所で抽出していたスフェア細胞は、これまで報告されている成体幹細胞よりも幼弱な分化万能性を持つのではないかという発想が、その後のSTAP細胞研究の可能性と研究意欲の根底にあったように思われる。

確かにチャールズ・バカンティの『スポアライク・ステム・セル仮説』というのは、今までの再生医療研究の常識をひっくり返してしまう空想的な万能性を刺激するだけの魅力を持っていて、それにはまると全身の組織から採取可能な多能性幹細胞(あるいは体細胞からもっと簡単な方法で作りやすい多能性幹細胞)があるという方向性に突っ走ってしまいそうな考え方である。

細胞の多能性(万能性)の定義は『三胚葉(外胚葉・中胚葉・内胚葉)由来のすべての細胞に分化できる能力』であるが、スフェア細胞の多能性を実証する方法として以下の3つが上げられている。

特にもっとも厳密な実証となる『キメラマウスの作製』が重要になってくるのだが、科学雑誌『PNAS』に投稿した論文の査読・査定でもキメラマウスの作製実験による実証を求められていたようである。PNASという科学雑誌は、『ネイチャー』『セル』『サイエンス』の三大誌に継ぐ権威がある雑誌だという。

1.培養系での分化培養実験(三胚葉系の細胞に分化可能であることを示すこと)

2.免疫不全マウスの生体内への移植(自発的な三胚葉由来すべての組織形成・テラトーマ形成が観察されること)

3.キメラマウスの作製が可能であることを示すこと。

PNASのレビューワーコメントでは『Oct4などの多能性を示す遺伝子発現が確認されているが、スフェア細胞はキメラマウスになるのかどうかを確かめるべきだ』という指摘がされているが、マウスの初期胚にES細胞(万能細胞)を注入してキメラマウスを作れるように、スフェア細胞でもキメラマウスを作れるかどうか実証せよということである。

科学実験には厳密な実証性と再現性が求められるものだが、バカンティ研究者にはキメラマウス作製のための設備も具体的な作製技術も不足していたために断念せざるを得ず、最終的な結果としてPNASからこの論文はリジェクト(拒否)されることになった。これは小保方さんにとって一つの大きな挫折体験だったと思うが、STAP細胞問題にも関係する『科学研究の実証主義(細胞の多能性の証拠)の不完全性を放置する甘さ』にもつながっていったのではないかと思わせられる。

小島先生の知り合いでもある理研CDB(発生・再生科学総合研究センター)の若山照彦教授を紹介してもらった辺りから、小保方さんと理研との接点が深まっていくのだが、若山教授はキメラマウス作製の手技に優れた研究者でクローン研究の世界的権威でもある。

キメラマウスの作製には『ES細胞ごとの個別差・偶然性』と『実験者の手技の能力の高低』の要素が絡んでいて、全く同じような手順でやったとしても確実にキメラマウスが作製できる保証のようなものはないようである。小保方さんと若山教授は全身の組織が緑色に光るGFPマウスを購入して、そのマウスの骨髄細胞から緑色に光るスフェア細胞を抽出して、初期胚にスフェア細胞を針で注入してキメラマウスを作製する実験を行っている。

スフェア細胞を注入したマウスの初期胚の作製までは上手くいったが、スフェア細胞由来のパンダ状の緑色の蛍光発色がはっきり確認できるキメラマウスの作製はなかなか上手くいかなかったようである。スフェア細胞に由来する緑色の蛍光発色がはっきりとしたパンダ状の形では見られないというのは、若山研究所の研究員の『他の胎児に比べるとわずかながらGFPが光っているように見える』というやや自信なさげな発言にも象徴されている。

初期胚とスフェア細胞の融合の不完全性は、スフェア細胞の持つとされる多能性の曖昧さを示唆するように感じられる。後の若山研での本格的な研究では、ストレス条件を調整することで、多能性を示すOct4陰性の細胞を陽性に変化させられるという確信を強めていくのだが、Oct4陽性細胞を作る際の微妙なコツとしてATPを添加した緩衝液のpH、新生児の赤ちゃんマウスの体細胞の使用などを上げている。

この辺りはかなり専門的な議論やノウハウなので(私自身も書かれている字面からの想像の範囲でしか分からないものであり)、一般書でここまで詳しく書く意味があるのかとも思うが、小保方さんにとって自分の科学研究の手法や成果の正しさと信じるものを訴える場が、自著以外に乏しいという理由も当然あるだろう。

小保方さん自身も本書の中で『GFP陽性の細胞はキメラマウスに存在していたが、組織を形成しているというよりも、組織内に散在しているという表現のほうが正しいと思われた』とか『2種類の遺伝情報が1匹のマウスの中に存在するというキメラマウスの定義を満たしてはいるものの、既存の多能性幹細胞からできてくるキメラマウスとは見た目の特徴が大きく異なっていた』とかいうスフェア細胞の多能性に対する確信の弱さを思わせる表現を用いてその時の感想を書いている。


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2015-12-07
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