名古屋大・女子大生による77歳女性殺害事件:自他の存在のリアリティの希薄化と他害の衝動性

名古屋大学1年生の女子大生(19)が、宗教の勧誘を受けていた77歳の女性を斧で殺害して、『人を殺してみたかった(誰でも良かった)』という不可解な動機を語っている。少し前にも、一人暮らしをしていた長崎県佐世保市の女子高生が、『誰でも良いから人を殺してみたかった』という同じような理由で同級生を殺害する事件が起こっていた。

これらの事件は一般的な殺人の動機として語られることが多い『特定他者への怨恨・金銭・痴情のもつれ(愛憎・執着)・社会憎悪』が関係していない特殊な殺人の事例であるように見える。

相手を選ばない通り魔事件や無差別殺傷事件でも、犯人の多くは『誰でも良かった』という動機を語るものだが、通り魔的な事件の心理的要因には『社会憎悪・女性憎悪・他者嫌悪(自分を受け容れてくれない社会・異性・他者への憎悪)』のようなものがあり、本人の生育歴・挫折体験や日頃の言動の節々からそういった抽象的・自分本位的な怨恨めいた動機が浮かび上がってくることが多い。

危害を加える相手が誰でも良かったとはいえ、加害者に『社会全般・他者一般に対する憎悪や不満』が分かりやすい形である時には、その動機は共感はできないが理屈としては理解できる内容になってくる。

しかし、今回の名大の女子大生(19)が起こした事件では、周囲の人の印象は『基本、真面目ないい子ですよ。どっちかっていうとムードメーカー的な子』といったどちらかというと好意的なものである。

高校時代の成績も優秀で名古屋大学に合格したばかりであり、部活動にも参加している盛り上げ役で、友達がいなくて孤立していた(他者全般への憎しみ・不満があった)というわけでもなく、傍目から見れば19歳の大学生としては順調に学校生活を楽しんでいるタイプにも見える。

一方で、加害者の女子大生は『子どものころから人を殺してみたかった』『斧はずいぶん前から持っていた』などと供述しており、殺人願望がかなり前の時期から長く続いていたことを伺わせるが、本人以外の家族・友人などがそういった異常な殺人願望や反社会的な妄想に気づいていたという報道は今のところない。

こういった他人をただ殺してみたかったという動機を聴くと、常識的には『なぜ、何の恨みもない人を殺してみたいなどという恐ろしい気持ちや目的を持つのだろうか』という疑問が湧くが、それと同時に『誰か人を殺してみたとしても結果は予想できるものであり(その人が死んでしまい自分が犯罪者になるだけであり)、実際に殺す必要性が全くないのではないか』という殺人の無意味性を思う人も多いはずである。

被害者は誰でもいいというランダムな殺人衝動は、基本的には『殺しても何も得られるものなどない・それどころか逮捕されて自由を奪われたり遺族から恨まれたりメディアから叩かれる』という点では無意味なものである。

殺人を禁止する倫理や心情は、『他人の生命・人生は自分(自分にとって大切な人)と同じようにかけがえのない大切なものである』や『自分が自分の意思に反して傷つけられたり殺されたりしたくないように他人もそうされたくはないという相互不可侵性』によって支えられているが、そういった倫理や共感の禁忌と合わせて『人を目的もなく殺しても何も得られるものなどない(逮捕されたり恨まれたり罪悪感が生じたり生理的に気持ち悪かったりで悪い結果しかない)』という常識・打算によっても興味本位で殺人をしようという人は通常いない。

殺人の結果は、『心拍の停止・呼吸の停止・瞳孔の散大』などが起こって二度と生き返ることがないという想定の範囲を超えることがない。名大の女子大生が語るような『人を殺してみたかったという動機』は、実際に殺してみなくても結果は分かっていることだから敢えてそれをする必要がないと思うのが普通である。

怨恨・愛憎・金銭・社会憎悪などが関係しない殺人衝動を持つ人は、上記した殺人を禁止する倫理や心情が機能しないことが多い。厳密に言えば、自分と同じように他人の生命・人生・家族(人間関係)にもかけがえのない価値があると共感して配慮できるだけの『自己の存在感・実体験(実際の人間関係)のリアリティ』が欠落していることが多いと考えられる。

長崎県佐世保市の女子高生の殺害事件には、弁護士の父親が放埒な異性関係を持ったり家庭環境を混乱させたりしたことで、女子高生の孤立感・疎外感が強まり自己存在の実感が希薄化したという『家族因』が想定されたりもしていた。家族因が関係した事件では、『親の愛情や関心を引きつけたい』とか『親を困らせたり親の人生・世間体を破綻させてやりたい』といった親への愛情飢餓や怨恨感情が犯罪のトリガーになってしまうケースもある。

佐世保市のケースでは父親が事件後に自殺してしまっているが、『家族関係・養育環境』の中で自分にとって大切な親やきょうだいのイメージを元にした『対象恒常性(内面にある恒常的で肯定的な心像)』が形成されているか否かも、『殺人を禁止する倫理・自他の生命の喪失や傷つきへの過度のマニアックな関心』に関係している可能性がある。

『他人の生命・人生は、自分(自分にとって大切な人)と同じようにかけがえのない大切なものである=だから他者の生命をいたずらに奪ったり傷つけたりしてはいけない』という倫理感覚は、自分がこの世界で大切に思える他人とつながりながら確かに生きているという実感、これから先も生きていきたい(死にたくない)という生存欲求に支えられた感覚である。

『自分が自分の意思に反して傷つけられたり殺されたりしたくないように他人もそうされたくはないという相互不可侵性』の倫理感覚も、同じようにこの社会の中で他人と助け合ったり傷つけ合ったりしながらも、何とか折り合いをつけて適応して共生していかなければならない(自分にとっても他人にとっても生きている事に価値がある)という社会性や自己の生存欲求(=自己存在と生命のリアリティ)に裏打ちされた感覚である。

名大の女子大生はツイッターで、『死にたい』とは思わないが『死んでみたい』と思うことはある、『殺したい』とは思わないが『殺してみたい』と考えることはあるといった抽象的な哲学めいたツイートを残していたというが、『~してみたい』という語感には『実験主義的なメンタリティ』と『自分の生命・人生が他人事であるかのようなリアリティの希薄さ』を感じさせられる。

精神病理学的な精神状態に当てはめて考えれば、離人症や解離性障害といった『自己意識の統合性の解体(思考・感情・記憶・対人関係などの統合性の解体)』『自分・他者・世界の現実感覚の鈍麻や衰退(喪失)』といった状態に近いものがあるのかもしれないが、自分自身の生命や存在に対するリアリティやそれを守りたい(死にたくない)という欲求が乏しければ、当然に他人の生命・存在のリアリティ(かけがえのない大切さ)に対する実感・共感も弱くなってしまうだろう。

どうして自他の存在のリアリティが希薄化して、自分や他人の生命・人生を尊重するような感覚が失われていってしまうのかについては、『遺伝的・器質的な要因』と『心理的・環境的(家族的)な要因』の双方を考えることができるとは思うが、佐世保市の事件も名古屋市の事件も『成績優秀・頭脳明晰とされる女子生徒(女子学生)』が引き起こした事件としての共通性もある。

『勉強ができることによる条件つきの承認・評価』や『普段の親子間の情緒的コミュニケーションや人生・気持ちの価値についてのやり取りの質的・量的な不足』といったものが本人のパーソナリティーや自己イメージに与えた可能性も推測することはできるが、仮想空間の拡大や競争社会の激化も含め、『自分がこの世界・社会に自分と同じように価値のある他者と共に支えあって生きている』というリアリティを持ちづらい社会的・時代的な要因もあるのかもしれない。

人を殺してはいけない、傷つけてはいけないというのは、大多数の人にとっては改めて考える必要がない倫理や感情、感覚であり、また何の目的もなく殺したり傷つけたりすることによる心理的メリットもないものであり、そういった行為をする動機づけがそもそもない。

一方で、『自分がこの世界で確かに生きているという実感・自分と自分以外の他者が確かに存在していて何かを感じているという実感』が病的に欠落した人にとっては、殺人願望が『自他の存在のリアリティ』の保障を与えてくれるかのような狂気的な認知・衝動に置き換えられる危険性はある。

こういった反社会的で妄想的(解離的)な殺人願望を抑制できる可能性があるとしたら(実際には極めて難しいケースが大半であるとは思うが)、『本人にとってのリアリティ・共感性・想像力の異常な感覚』に早い段階で気づいて情緒的・教育的・共同活動的な対応をしてリアリティ(自己の存在感・尊重感・受容感)の回復を進めていくことが必要なのだろう。






■書籍紹介

ケースで学ぶ犯罪心理学
北大路書房
越智 啓太

amazon.co.jpで買う
Amazonアソシエイト by ケースで学ぶ犯罪心理学 の詳しい情報を見る / ウェブリブログ商品ポータル


ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 1

なるほど(納得、参考になった、ヘー)

この記事へのトラックバック