安倍首相の靖国神社参拝と戦没者の慰霊・外国の理解1:靖国神社と戦争・兵士動員の歴史
12月26日に安倍首相が靖国神社に参拝したことに対して、日本との歴史的な侵略・併合の経緯がある中国・韓国だけではなく、アメリカやEU諸国も『戦後の国際秩序に対する挑戦・日本の憲法9条に象徴される平和主義外交(戦争放棄)の転換』なのではないかという意味を込めて失望・懸念を表明した。
靖国参拝に肯定的な日本側の言い分としては『国家のために生命を捧げた英霊をお参りして何が悪いのか・東京裁判で断罪されたA級戦犯は国内では公式に名誉回復されている』ということになるが、国際社会においてはどれだけ十分に丁寧な説明を尽くしても、『靖国神社(戦時日本の国家神道の総本山)=平和主義・不戦の誓いの拠点』という認識が主流になることは有り得ない現実がある。
そもそも靖国神社は明治初期の建立の目的からして、『悲惨な国民の犠牲に感謝して今後はもう戦争をやめようという平和主義の目的』で建てられたものではなく、『国体(天皇)のために忠義を尽くして戦死した国民(臣民)を顕彰する目的=戦争を継続することが可能な勇敢かつ忠誠心の強い国民精神の涵養の目的』で建てられたものである。
靖国神社は『平和祈念・戦争反省(不戦の誓い)の宗教施設』というよりは『尚武精神=武勇と自己犠牲を尊ぶ国民精神の涵養のための宗教施設(戦勝のための勇敢な兵士の犠牲を顕彰して武運長久を祈る宗教施設)』だったのであり、戦争賛美とまでは言わなくても、一朝に事あれば『自分の命』を喜んで捨ててでも国体(天皇中心の国家)に忠義を尽くすという道徳規範を半ば自明のものとして織り込んでいた。
逆に、酷い苦労をしたが自分の命を守って生きて帰った兵士は顕彰していないのであり、兵隊ではない一般国民で戦争被害を受けて亡くなってしまった人たちも靖国神社には祀られていない。
靖国神社には『国民を徴兵して戦争をする国家権力(国体主義)の大義名分・国民意識・遺族の戦死に対する納得』と完全に切り離して考えることが難しいという問題があり、『国家のために生命を捧げた純粋な国民』と『国家のために生命を捧げるように意図的に教育して戦わせた国家・政治』との責任の所在を曖昧にしてしまっているのである。
そういった靖国神社建立のイデオロギーや歴史的経緯の原点を振り返れば、『国家の戦争遂行の意図』や『戦争のある世界・自己犠牲(国のために潔く死ぬ事の道徳)に親和的な国民の価値観や生き方の教育』と靖国神社を切り離すことはできない部分があり、靖国神社を『国家のための戦死者の追悼供養の場・不戦の誓いや平和主義の祈りを捧げる施設』としてだけ解釈するというのは、国際社会においてだけではなく日本国内においてもかなり強引な論理の進め方をしないと無理である。
靖国神社の歴史観や政治家の公式参拝に肯定的な人は、広島平和祈念公園の記念碑に掲げられた『安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから』のフレーズに対して反対する人も多く、『人類全体の戦争に対する普遍的な過ちの反省』と説明されるこのフレーズに対して、『他の国やアメリカも戦争(アメリカは原爆投下)をしたのに、日本だけが過ちを犯した悪い国のように書いていて不快だ』というような受け取り方をする人も少なからずいるといわれる。
あるいは、戦争や国際情勢におけるリアリズムという側面から、日本も時と場合によっては戦争を辞さずに国益を守り国防を図る必要がある(公表された戦争放棄の姿勢だと中国・北朝鮮などから脅されたり舐められたりして国益を損ねる)といった価値観とも親和しやすく、武力による威嚇(抑止)や先制攻撃のオプションのない平和主義外交そのものの懐疑とも根底で結びついている。
そもそも論としては、『理不尽な戦争(バシー海戦・南洋諸島の戦い・沖縄戦・神風特攻隊に象徴される人間を物量のように投入した戦争)』で死ななければならない状態を生み出して継続した国家・政治の側が、国民に親族・知人の戦死を宗教的観念で納得してもらうために靖国神社を活用したという歴史的問題(日本国民全体を天皇を尊敬すべき家長とする巨大な大家族として擬制した体制の問題)がクリアに解決されておらず、『開戦・戦争継続の権限を持っていた側(=為政者)のエートス』が現代において改めて問われているとも言える。
そこには今の自民党政権に対しても言われることのある、『選挙に圧勝したとしてもなおすべての政策部門で白紙委任されているわけではないという政治の自制の問題』や『間接民主主義の限界』も絡んでいるのだろうが、戦争の当時は間接民主主義の議会政治でさえも、大政翼賛会(反対勢力のいない予定調和の全会一致原則)で機能を停止したという事実を考えなければならない。
靖国参拝の行為そのものは個人・私人として行っても何らの問題はないし、国家のために戦争に殉じた一国民に感謝や敬意の念を持つことは当然であると思うが、『そういった価値観や行動理念を形成させた主体者(為政者・体制・権力)』などが靖国神社の権威や必要を殊更に持ち上げるということには、『純粋な戦没者の慰霊・供養以外の国民動員や意識誘導(自分のことを捨て置いて国のために死をも厭わずに生きる国民を道徳的とする考え方)』といった戦前の国家(国体)と純粋・質朴な国民との関係のあり方を正しいとするような価値観を持っているのではないかという憶測を招く恐れは絶えずあるだろう。
■関連URL
2013年の安倍政権の政治経済・社会情勢の動きを振り返る1:消費増税と税制改革
2013年の安倍政権の政治経済・社会情勢の動きを振り返る2:所得税・法人税の減収の要因
2013年の安倍政権の政治経済・社会情勢の動きを振り返る3:原発再稼働と東アジア外交
■書籍紹介
靖国参拝に肯定的な日本側の言い分としては『国家のために生命を捧げた英霊をお参りして何が悪いのか・東京裁判で断罪されたA級戦犯は国内では公式に名誉回復されている』ということになるが、国際社会においてはどれだけ十分に丁寧な説明を尽くしても、『靖国神社(戦時日本の国家神道の総本山)=平和主義・不戦の誓いの拠点』という認識が主流になることは有り得ない現実がある。
そもそも靖国神社は明治初期の建立の目的からして、『悲惨な国民の犠牲に感謝して今後はもう戦争をやめようという平和主義の目的』で建てられたものではなく、『国体(天皇)のために忠義を尽くして戦死した国民(臣民)を顕彰する目的=戦争を継続することが可能な勇敢かつ忠誠心の強い国民精神の涵養の目的』で建てられたものである。
靖国神社は『平和祈念・戦争反省(不戦の誓い)の宗教施設』というよりは『尚武精神=武勇と自己犠牲を尊ぶ国民精神の涵養のための宗教施設(戦勝のための勇敢な兵士の犠牲を顕彰して武運長久を祈る宗教施設)』だったのであり、戦争賛美とまでは言わなくても、一朝に事あれば『自分の命』を喜んで捨ててでも国体(天皇中心の国家)に忠義を尽くすという道徳規範を半ば自明のものとして織り込んでいた。
逆に、酷い苦労をしたが自分の命を守って生きて帰った兵士は顕彰していないのであり、兵隊ではない一般国民で戦争被害を受けて亡くなってしまった人たちも靖国神社には祀られていない。
靖国神社には『国民を徴兵して戦争をする国家権力(国体主義)の大義名分・国民意識・遺族の戦死に対する納得』と完全に切り離して考えることが難しいという問題があり、『国家のために生命を捧げた純粋な国民』と『国家のために生命を捧げるように意図的に教育して戦わせた国家・政治』との責任の所在を曖昧にしてしまっているのである。
そういった靖国神社建立のイデオロギーや歴史的経緯の原点を振り返れば、『国家の戦争遂行の意図』や『戦争のある世界・自己犠牲(国のために潔く死ぬ事の道徳)に親和的な国民の価値観や生き方の教育』と靖国神社を切り離すことはできない部分があり、靖国神社を『国家のための戦死者の追悼供養の場・不戦の誓いや平和主義の祈りを捧げる施設』としてだけ解釈するというのは、国際社会においてだけではなく日本国内においてもかなり強引な論理の進め方をしないと無理である。
靖国神社の歴史観や政治家の公式参拝に肯定的な人は、広島平和祈念公園の記念碑に掲げられた『安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから』のフレーズに対して反対する人も多く、『人類全体の戦争に対する普遍的な過ちの反省』と説明されるこのフレーズに対して、『他の国やアメリカも戦争(アメリカは原爆投下)をしたのに、日本だけが過ちを犯した悪い国のように書いていて不快だ』というような受け取り方をする人も少なからずいるといわれる。
あるいは、戦争や国際情勢におけるリアリズムという側面から、日本も時と場合によっては戦争を辞さずに国益を守り国防を図る必要がある(公表された戦争放棄の姿勢だと中国・北朝鮮などから脅されたり舐められたりして国益を損ねる)といった価値観とも親和しやすく、武力による威嚇(抑止)や先制攻撃のオプションのない平和主義外交そのものの懐疑とも根底で結びついている。
そもそも論としては、『理不尽な戦争(バシー海戦・南洋諸島の戦い・沖縄戦・神風特攻隊に象徴される人間を物量のように投入した戦争)』で死ななければならない状態を生み出して継続した国家・政治の側が、国民に親族・知人の戦死を宗教的観念で納得してもらうために靖国神社を活用したという歴史的問題(日本国民全体を天皇を尊敬すべき家長とする巨大な大家族として擬制した体制の問題)がクリアに解決されておらず、『開戦・戦争継続の権限を持っていた側(=為政者)のエートス』が現代において改めて問われているとも言える。
そこには今の自民党政権に対しても言われることのある、『選挙に圧勝したとしてもなおすべての政策部門で白紙委任されているわけではないという政治の自制の問題』や『間接民主主義の限界』も絡んでいるのだろうが、戦争の当時は間接民主主義の議会政治でさえも、大政翼賛会(反対勢力のいない予定調和の全会一致原則)で機能を停止したという事実を考えなければならない。
靖国参拝の行為そのものは個人・私人として行っても何らの問題はないし、国家のために戦争に殉じた一国民に感謝や敬意の念を持つことは当然であると思うが、『そういった価値観や行動理念を形成させた主体者(為政者・体制・権力)』などが靖国神社の権威や必要を殊更に持ち上げるということには、『純粋な戦没者の慰霊・供養以外の国民動員や意識誘導(自分のことを捨て置いて国のために死をも厭わずに生きる国民を道徳的とする考え方)』といった戦前の国家(国体)と純粋・質朴な国民との関係のあり方を正しいとするような価値観を持っているのではないかという憶測を招く恐れは絶えずあるだろう。
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