戦争にまつわる人物・出来事を題材にした作品『風立ちぬ』と『はだしのゲン』の感想:2

戦争で都市や敵艦を爆撃して人を殺害する道具(特攻の道具)として働いた戦闘機の零戦は、堀越二郎にとっては『最も美しい外観と機能を備えた機体』を追求した結果に過ぎず、自分にとって最上の美を造形しようとした作品としてのみリアリティを持っている。

○戦争にまつわる人物・出来事を題材にした作品『風立ちぬ』と『はだしのゲン』の感想:1

戦争終結後に『私の設計した零戦は一機も戻ってこなかった』という述懐を堀越がしみじみと述べるのだが、そこには零戦が戦闘でどのように使われたかどれだけの人命が失われたかということに対する想像力はなく、『科学技術・工業製品そのものの価値中立性(武器・兵器を開発設計してもその使用目的までは研究者や設計者は責任を負わない)』が作品の最後まで貫かれている。

科学技術や学問・研究、芸術美術の内容自体について善であるか悪であるかを問うことに意味はない(それらをどのように使用するかは別の人間・集団の責任である)とする『科学・技術・知識の中立性』の前提が置かれている。『技術開発・真理追究・美の探求の自由』というものは、人間の生きるエネルギーを高めるものとして、絶対的に保障されるべきではないかというような無邪気な純粋さが作品の魅力にもつながっているわけだが…。

東京帝国大学工学部航空学科を首席で卒業して、零戦開発のエンジニアとして財閥の三菱で働いた堀越二郎は、自分のやりたいことを仕事にして経済的にも不自由せず、菜穂子との自由恋愛も謳歌できたという、『当時の一般庶民(労働者・兵隊)の戦争体験』からはかけ離れたところで生きたある種の特権階級の秀才である。

戦時中の日本でも堀越二郎のように『戦争・不況・失業』からある程度距離を置いて生活できた人物はいるのだろうが、『生きねば』の映画のテーマを考える上では『戦争の悲劇』以上に『結核の妻の喪失(病死)』のほうにスポットライトが当てられているのだろう。

二郎と菜穂子の恋愛というか夫婦生活も、戦前の男性社会(家父長制社会)に適応して、男性の生き方や都合に常に合わせてくれる従順な女性を描いたものだが、二郎と菜穂子のお互いを好きだと思う情緒・感情もそれほど深く掘り下げられていない感じがある。

結核が進行しているのにも関わらず二郎と残りの日々を一緒に過ごすために、高原の病院(サナトリウム)を抜け出してきた菜穂子。そういった状況でも二郎は仕事に没頭してほとんど家に帰らないというマイペースな生き方を変えることはないし、菜穂子も『いってらっしゃい・おかえりなさい』と夫を見送って出迎える生活習慣を繰り返すことに大きな喜びを見出しているように描かれている。

一方で、二郎の妹が『(治療を受けずに二郎にひたすら尽くしているだけに見える)菜穂子さんが可哀想』と泣いて訴えると、兄の二郎が『今、僕たちはとても大切な時間を過ごしているんだ』と落ち着いた口調で返したりもして、『二郎と菜穂子のふたりだけの世界観・幸福感』がほのめかされるわけだが、病状が更に悪化した菜穂子は『美しくなくなっていく自分を見られたくない』との思いで二郎の前から姿を消してしまう。

その菜穂子を二郎は追うこともなく、『綺麗だね』といつも語りかけていた妻の菜穂子の良いイメージを抱えたまま、『妻亡き後の人生(=零戦がすべて撃墜・処分された戦後)』を一人で毅然として生き抜く覚悟を決める(妻の死を山の高原から吹き降ろしてくる風がそれとなくほのめかしたりもするが)といった流れになっている。

映画の冒頭で示される“Le vent se leve、il faut tenter de vivre.(風立ちぬ、いざ生きめやも)”は、堀辰雄の『風立ちぬ』のエピグラフである。映画の『風立ちぬ』でも、『風がわき立ったという時代が動く感覚』と『さあ、生きていこう、生きていくのは大変だがという葛藤(その克服)』が、一般的な戦争映画とは異なるストーリーや人物設定を通して、絶妙な構成で表現されていたと思う。






■書籍紹介

半藤一利と宮崎駿の 腰ぬけ愛国談義 (文春ジブリ文庫)
文藝春秋
2013-08-06
半藤 一利

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