東野圭吾『幻夜』の書評2:“雅也(亮司)の献身”と“美冬(雪穂)の冷淡”の構造

『幻夜』でも『白夜行』と同じように、美冬の清楚さと妖艶さを兼ね備えた美貌に魅了された男たちは、次々と悪どく利用されて不幸に追いやられていき、美冬の謎に満ちた過去を深入りして探ろうとする者は冷酷に命を奪われていく。美冬一人では完璧に実行することが不可能な犯罪と計略の実務を担当しているのは、言うまでもなく、美冬と完全につながっていてこの犯罪が『自分と美冬の将来』のためになると思い込んでいる雅也である。

水原雅也は長年の仕事で培った熟練工の技術を駆使して、一般人にはとても作成できない機械仕掛けの犯罪の道具を作り上げ、彫金の技術を短期間で学習して、美冬から渡されたデザイン通りの難易度が高い『独創的・立体的な意匠の指輪』を精巧に完成させて、美冬の宝飾デザイナーとしての活躍をバックアップする。

新海美冬も被害者の一人となった高級宝石店『華屋』での集団ストーカー事件や異臭騒動事件を捜査した刑事の加藤も、美冬の男を引き込んでゆく魅力に取り付かれてしまった男性の一人である。加藤刑事は、美冬に魅了されてしまう感情を、美冬の過去・犯罪を暴こうとする『執念の捜査』へと転換していくが、『白夜行』で雪穂・亮司の二人に張り付いて捜査する笹垣刑事のような役割を果たしている。

圧倒的な美しさと官能的魅力を持つ美冬に魅了されているだけではなく、『過去の殺人事件の秘密(殺人隠蔽の共謀)』を共有しているという絶対的な絆の確信(俺は他の利用されているだけの男とは違う特別な存在だという思い込み)が、雅也の美冬に対する『無条件の献身・奉仕』を支えている。すべては『二人の将来』のための我慢と試練なのだと割り切ることによって、雅也は美冬が押し付けてくる無理難題を次々とこなし、人目を忍んで会う美冬との密会・情事によってわずかに生じていた『美冬への不信感』も打ち消されてしまう。

常連として通っている定食屋『おかだ』の娘である有子(ゆうこ)と自然に親しくなっていく中で、美冬にはない有子の家庭的な価値観や素朴で誠実な人間性の魅力にも惹かれてゆく雅也。

有子が自分に寄せてくれている温かな思いやりと愛情に気づいている雅也は、有子と一緒になればそんなにお金がなくても特別な贅沢をしなくても、幸せな家庭を築いてそれなりに楽しく暮らせてゆけると思うのだが、『過去を共有する絶対的な絆』で結ばれているという盲従に陥っている美冬との関係を清算することはできない。もう既に取り返しのつかない犯罪にも手を染めており、表の世界で普通に生きてゆくことができなくなった自分に、幾らでも明るい未来を切り開けるまだ若い有子を巻き込むことなど絶対にできないとも思っていた。

『一般の人と同じ様な幸せを手に入れようなんて私らには虫の良すぎる話や。私たちは明るい昼の世界ではもう生きていけないんよ』と暗示をかけるように雅也に語る美冬だったが、その言葉とは裏腹に『アングラな汚れ仕事』のほとんどを雅也に押し付けながら、自分だけは『表の明るい世界』で宝石販売会社や美容院の経営者として地位・財産・収入を高め続けている。更に、美冬が大手宝石店『華屋』の社長である秋村と結婚したことで、『いつかは美冬と一緒になる』という夢を支えにして、美冬のために何でもやってきた雅也に暗い嫉妬と疑念の黒雲が立ち込めてくる。

美冬は『ただ名字を変えるだけで遺産の相続人・保険の受取人になれる』という合理主義の損得勘定を開陳して、本当に好きで本心から信頼しているのは雅也だけで、秋村との結婚をお金・地位のためだけの形式的なものに過ぎないと語る。美冬がしている秋村とのセックスに嫉妬して耐え切れないと訴える雅也に、『犬猫もしているただの生殖行為やないか。夫婦になればすぐに旦那は女房の身体に飽きるし、カネのある男は外に女を作るんだから暫くの辛抱や。二人の将来のために今は耐えて欲しい』と懇願する。異常な利益至上主義の結婚観や割り切りの度合いが過ぎているセックス観に納得ができず嫉妬が収まらない雅也は、次第に『過去の秘密の共有』『将来の二人のために今はお金が必要』という美冬の言い分を信じられなくなる。

定食屋の有子の学生時代について聞いた何気ないやり取りから、自分と美冬との絶対的な信頼関係の根拠だと信じていた『過去の秘密の共有・将来の二人だけの幸せのための今』について抑えきれない不安も高まってくる。自分は美冬のことであれば何でも知っているつもりだったが、それは現在の美冬が語っている『言葉としての心情・考え方・価値観・自分への愛情』だけであり、そこには美冬の実際の行動を伴った裏付けがほとんどなかったのだ。

美冬は自分との関係を誰にも表立って認めたことはないし、セックスでも絶対に膣内射精だけは許さないというルールを作っているが、もしかしたら、セレブとしての地位を固め始めている美冬は、自分との将来のことなど初めから一度も考えたことなど無かったのではないかという疑念が、『絶対的な信頼・献身の足場』を侵食していく。実際には知り合った時より前の『美冬の過去(家庭環境・友人関係・子ども時代など)』について何も知らなかったという現実に気づき、更に美冬の過去を詳しく知っている人が誰もいないという不可思議な状況にも疑心暗鬼が強まった。

その疑心暗鬼が行き着く先は、自分は美冬にとって唯一の特別な男などではなく、他の男と同じような何でも思い通りに動いてくれるカモに過ぎなかったのではないかということであり、『新海美冬を名乗る人物』が本当は一体誰なのかという根本的な疑問でもある。美冬の本当の名前さえ知らなかった自分が、美冬に本当に愛されていたとは考えにくい。

更に、過去に美冬が自分のために手を汚してくれていたと思っていた犯罪の真実が暴かれていくに従って、雅也の美冬に対する絶対的な愛情と未来への希望は、暗い絶望・憎悪へとその姿を変えていくのだった。雅也に凶悪な犯罪に手を染めさせて、その魂を殺した美冬は、『夜の世界』を共有して二人で助け合っていくしかないと言ってくれたが、実際には美冬と二人で生きていけると思い込んでいた『夜(裏の世界)』さえも『幻』に過ぎなかったのだ。

『白夜行』では、まだ子どもだった雪穂と亮司の二人が、雪穂を道具として食い物にしたそれぞれの『不品行な親』を殺害して、その他人に知られてはならない秘密を共有しながら成長していく。その『白夜行』と比べると、『幻夜』のほうは『過去の秘密の共有』が『雅也による叔父・俊郎の殺害』だけから始まっており、『美冬の側の秘密』はほとんど共有されていないというか、美冬はクリティカルな自分の過去や犯罪については雅也にも隠したままである。

『幻夜』では双方向的な秘密の共有のバランスが初めから崩れていることから、『白夜行』の唐沢雪穂と桐原亮司の間には存在していたように見える純粋な愛情や絶対的な絆といったものを、『幻夜』の水原雅也と新海美冬の間には感じ取りにくく、初めから雅也が便利に動かせるカモとして選ばれている構造がちょっと見えやす過ぎるかもしれない。

クライマックスの場面で、『白夜行』の唐沢雪穂がそれまで自分のために散々尽くしてくれた瀕死の桐原亮司を見て『そんな人、知りません』と冷淡に切り捨てて立ち去っていく姿は、亮司の最後の希望までも踏みつけるような描写でショッキングだったが、『幻夜』の新海美冬が水原の復讐を警告して警護を申し出てくれた加藤刑事に対して、『だって、水原なんて人、私は全然知らないんですから』と知らんぷりを決め込む姿は、予定調和的でもありそれほどの衝撃はない(美冬が直接的に雅也の破滅の場面に立ち会わせることもない)。

美容整形を繰り返さずにはいられない『美の妄執』に囚われるという設定も美冬には為されているのだが、『不幸な過去の境遇』を背負っている主人公たちが悪事を繰り返しながらも世間で成り上がっていくという物語の爽快感のようなものは『幻夜』では薄い。『白夜行』ではまだ、過去のトラウマの記憶を共有する雪穂と亮司の二人を、途中までは応援したくなる気持ち(最後は何とか二人で幸せになって欲しいという思い)にさせられる場面が多かった。

だが、『幻夜』では美冬の利己的な計算高さ(雅也を最初から利用しようとする明け透けな態度)ばかりが目に付くので、雅也を犠牲にしながら社長・社長夫人として成り上がっていく怜悧・冷酷な美冬の成功を応援する気持ちにはなりにくいようには思う。美冬の徹底した利己主義と自己愛の肥大は、『白夜行』のエピソードと桐原亮司の死によって、『雪穂(美冬)の魂』もまた完全に死んでしまったという事の現れなのかもしれないが。

どちらかというと、利己的な悪女(美冬)が行う駆け引きと心理操作を中心にして展開する物語なのだが、美冬が雅也を使って誰かを巧妙に陥れていく一つ一つの話のディテールが凝っていて、小説としての完成度はかなり高い。分厚い小説だが一気に最後まで読ませるだけの面白さもある。

この記事は、東野圭吾『幻夜』の書評:1の続きになっています。






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