新田次郎『アラスカ物語』の書評2:日本人とエスキモーの異文化コミュニケーション

冒頭の『第一章 北極光』では、オーロラの妖艶な美しさと不気味さ、冷気で水蒸気が氷の粒となるダイヤモンドダストの清冽な輝き、静かで寒い星明かりの夜、全てを剥ぎ取って凍りつかせるような暴風雪などが精緻に描かれており、凍りついた北極海から厳寒のアラスカへと歩いていく過酷な冒険小説の臨場感を高めている。

氷原と陸地との境界線を見分ける事ができず、食糧と燃料も使い果たして懐かしい人たちが現れる幻覚・妄想に襲われ始めながら歩き続けるフランク安田。フランクの意識が途切れて死神に捕われかけていた時に、多くの犬の鳴き声と共に犬ぞりに乗ったエスキモーが通りかかり、フランクはエスキモーによってその生命をすんでの所で救われる事になった。

この小説では、アラスカ原住民の呼称は『エスキモー』で統一されているが、現在ではエスキモーには差別的な歴史・意図があるとして、エスキモーのイヌピアック語で人々を意味する『イヌイット』が用いられることのほうが多い。

だが、エスキモー(かんじきの網を編む者)『生肉を食べる者』として誤訳した経緯を考えても、エスキモーが生肉を食べる食習慣を持っていたのは寒冷で過酷な気候風土への適応の必然的な結果であり、また野生動物の肉の生食文化によってエスキモーが生活してきたことは客観的な事実でもある。『肉は焼いてから食べるものという欧米社会の常識感・衛生観』の観点のみによって、(それを聞くエスキモーが嫌がっている場合を除き)エスキモーが差別語であると断定するのもまた浅薄な歴史の見方であるのかもしれない。

やがてフランク安田は現地のエスキモーに溶け込んで暮らすようになるのだが、ノンフィクションの実話を題材にしてアレンジした小説『アラスカ物語』の最大の魅力は、日本人とエスキモーの異文化コミュニケーション、異文化を乗り越えたヒューマニスティックな交流である。

フランク安田とエスキモーとの『友情・信頼・恋愛』とは対照的に、当時のアメリカ人やフランス人の持っていた日本人(黄色人種)に対する差別感情も描かれる。氷原の中でイグルーやウミアク(皮張舟)を造って暮らす未開文明の狩猟採集民族であるエスキモーもまた過酷な差別・蔑視・搾取に晒されている。ロシアやアメリカの捕鯨船がやってくる事によって、伝統的な狩猟生活やカレギ(狩猟集団)を維持することが困難となり、エスキモーたちは白人に安い賃金や物品によって労働者・道案内として使役される存在になっていった。

氷の塊のように凍った海獣(アザラシ)・鯨・カリブーの『生肉』を主食にし、雪・氷で造った雪洞のようなイグルー(トイレも室内で行う空間)で暮らすという、余りにも異質なエスキモーの社会・文化に生命力の強いひとりの日本人が適応していく過程は興味深い。そればかりか、エスキモー救出(内陸部への移住)の資金を稼ぐために、一か八かで『アラスカのゴールドラッシュ(黄金採掘・金鉱山の発見)』にも乗り出す。

人種差別が当たり前だった時代に、鉱山師のトム・カーターという有色人種を差別せず公平に契約を守る白人と出会い、本音のコミュニケーションを重ねて深い信頼関係を築くに至る。フランクとカーターは協力して苦難の末に金鉱山を発見して、カーターはフランクを裏切らずにその利益をきちんと折半し、海岸エスキモーたちの民族大移動に尽力してくれるのである。

アラスカとは何の縁もなかった日本人が、獲物の激減と伝染病の蔓延で苦しむ海岸エスキモーの窮地を救うリーダーのような役割を果たすという奇跡的な物語であり、エスキモーの文化や生活、習俗を読みながら知ることができる良さもある。『日本人と呼ばれるエスキモーの一種族』と見なされたフランク安田の生き様は、日本から遠く離れた北極・アラスカにおける冒険心と異文化適応というロマンスを刺激するものでもある。

この記事は、「新田次郎『アラスカ物語』の書評1:人生の閉塞感からアラスカに向かった日本人」の続きになっています。






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