カミュやサルトルの実存主義では、“人間の自由と苦悩・人生の価値”をどう考えるか?

カミュのエッセイ『反抗的人間』では、明晰な理性で世界や人生を観察する時に出現する非合理的な説明のつかない不条理に対して、迷信(神の信仰)で目を背けたり自殺で逃げたりすることを批判し、その運命的とも言える人の世の不条理さを見つめ続けて“抵抗(レジスタンス)”することが『人間の尊厳』につながると説きました。

抵抗とは具体的な他者にせよ観念的な実在(神)にせよ、自分自身の主体性や人間としての尊厳を脅かすような対象に対して、『私は従属しない』とする拒絶の意志表示をすることですが、理不尽さを見つめ続ける者同士での連帯や団結を強めていくことで『孤独感・悲哀感』からの解放を目指すという側面もありました。

カミュの『反抗的人間』には“非暴力・理性主義を貫く政治思想”としての要素も含まれており、人間の尊厳を抑圧したり虐げたりする専制的な恐怖政治・ファシズムを倒すための市民革命(民主主義革命)であっても、暴力を手段とする限りは再びその新たな政権も過去と同じ専制的な恐怖政治に陥りかねないとする警鐘を鳴らしました。

倫理的・文学的な非暴力主義(平和主義)を前提として不条理への抵抗を説くカミュの『反抗的人間』は、共産主義(コミュニズム)の暴力革命やプロレタリア独裁を主張していたジャン・ポール・サルトルとの間に『カミュ=サルトル論争(1952年)』を引き起こします。カミュのヒューマニスティックな理想を掲げた『人間の尊厳(暴力を原理的に廃棄しようとする人権感覚)』にまつわる主張は、J.P.サルトルの共産主義革命(マルクス主義)を肯定的に捉えて『自由・主体性(人間解放)のための暴力』であれば容認されるべきだとする考えと折り合うことはありませんでした。

ジャン・ポール・サルトル(Jean-Paul Sartre, 1905-1980)の実存主義というと、かつては講演『実存主義はヒューマニズムであるか』の中で述べられたとされる“実存は本質に先立つ・人間は自由という刑に処せられている”などのフレーズが有名だったこともありましたが、これは簡潔に言えば『神(創造者)のいない世界における人間には絶対的・決定的な本質はない』ということです。

キリスト教の神が社会全体に信仰として普及していた時代には、人間のあるべき本質は神が事前に決定していたのですから、“本質が実存(自分自身)に先立つ状態”だったのですが、神の死や世俗主義・功利主義が当たり前になった現代では“実存(自分自身)が本質に先立つ状態”になっています。

“実存(自分自身)が本質に先立つ状態”というのを言い換えると、自分自身がどのように考えるのか、そして、判断して行動するのかによって本質(生きる意味)が生まれてくるのだということです。J.P.サルトルは『神に束縛されない人間の自由(何ものにも依存できない自由の刑)』を主体的に活用して、政治や社会、歴史に積極的にコミットメント(アンガージュマン)していく生き方を奨励しましたが、サルトルは“人間は自由であるように呪われている”とも語っているように、人間に無制約の気楽な自由があるという風には当然考えていません。

人間の定義について、実存主義では『人間とは、私(彼・彼女)が自ら創りあげていくもの・創りあげていくしかないもの』となります。そしてサルトルの用語でいえば、『即自(本質的に自己同一的な物事)』ではない『対自(自意識を持ってその本質を創造する人間)』である人間は、自分自身に対して『判断・選択・行動の全責任』を負わなければならない自由という義務(刑罰)を科された存在です。人間には生まれてくる親・環境を選べないという不条理さがありますが、『生まれ落ちた初期の条件』に束縛されているとしても、その束縛を『より自意識・目的意識に見合った状態』へと主体的に変化させていけるであろう自由の可能性を持っています。

サルトルにしてもカミュにしても、自己規定と他者規定が完全に一致してしまいそれを変化させることもできない『死』は、人間にとって回復不能で絶望的(究極的)な『疎外』に他なりませんが、不条理な死を見つめながらも『今生きている自分の人生』をより対自の自意識(自分がこうありたいと考える自己像・目的)に見合うものへ変更していこうとする営みが、人間の生きる意味を形成しているという風に考えます。

現時点で不条理(不本意)に拘束されている状況があるにしても、主体的な責任を担うだけの自由(選択)によって、それとは異なる新たな状況(対自の自意識に見合った状況)に自分を拘束し直そうとする行動が重要になります。その意味では、マルクス主義や革命理論(政治哲学)にも強い影響を受けていたサルトルは、政治的・歴史的な文脈に自己の存在価値を投げ入れて行動しようとする“アンガージュマン(engagement、参加)”を唱えた哲学者であり、論理的な思索というよりも行動主義の思想であったと言えるでしょう。

哲学史における実存主義の系譜そのものは、その後のポストモダンの構造主義や相対主義、多元主義などによって、『個人の意識・主体性の影響力』を現実以上のものとして誇大に考えているという厳しい批判を受け、『既定の普遍的な構造としての枠組み(誰もが逃れられない歴史的・普遍的な構造の実在性,自己と構造の相関関係)』によって人間も制約されているという世界観が広まっていきます。

しかし、歴史的に共通する構造や数値化される統計的な傾向、政治的な支配のメカニズム、個人の影響力(状況転換のための努力)の限界などに着目する構造主義をはじめとするポストモダン思想は、『政治・社会・生物の普遍的な構造によって個人の言動が規定されてしまう(社会や歴史、統計の趨勢に対して個人が抗ってもどうしようもない)』という非主体的な人間観に偏ってしまいやすい問題(厳密にはそのような非主体性を容認するような読み方や理解がされやすいという問題)もあります。

『自分自身がどう考えてどのように行動するのかという自由意思・状況への参加』を強調した実存主義という思想潮流は、主観的・情緒的ではあるのですが、自己啓発的に『人生への意欲・覚悟(自分の問題に対する当事者意識)』を高めてくれる効用はあるように思います。ニーチェやカミュの新たな神のいない世界観を提示する思想的文学から始まり、サルトルやハイデガーの難解な哲学的思索にまで発展していく『実存主義(existentialism)』は、人間の苦悩の内容やその解決のあり方をより個人主義的なものに変えていき、自由主義的な自己責任の引き受け方を示唆するものにもなりました。

神(絶対的観念)を喪失した近代的自我の誕生から、『実存主義・世俗主義(消費文明)・構造主義・保守反動(大きな物語の復古願望)』などの時代的な影響を受けて、苦悩や迷いを感じる自意識のあり方も様々に変化してきました。

20世紀のアメリカを代表する社会学者の一人であるデイヴィッド・リースマン(David Riesman,1909-2002)は、著書『孤独な群集』において、『伝統指向型(traditional-directed)・内部指向型(inner-directed)・他人指向型(other-directed)』の3つの自意識の指向性や価値観(具体的解説はリンク先を参照)を分類しました。『自己愛と孤独の時代』とされる現代も、基本的なトレンドとしては他者の評価に意識が向かう“他人指向型の人とその性格にまつわる悩み”が多い時代と言えるでしょう。

この記事の内容は、『人間は運命的な理不尽にどう抵抗すべきか?2:理不尽さと文明社会との終わりなき戦い』の続きになっています。






■書籍紹介







実存と構造 (集英社新書)
集英社
三田 誠広

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