新田次郎『栄光の岩壁 上下』の書評1:敗戦による社会・人心の変化と冬の八ヶ岳での遭難

新田次郎の書いた小説『孤高の人』は、不世出の登山家・加藤文太郎を題材にしたヒューマンな山岳小説だったが、『孤高の人』では長距離をひたすら歩き続ける縦走登山と日本の冬山での過酷なビバーク(厳冬期の野営を可能にする生命力)に力点が置かれていた。この『栄光の岩壁』という作品は、『孤高の人』『銀嶺の人』と並ぶ新田次郎の長編三部作の一つとされているようだが、それぞれの作品には『加藤文太郎(孤高の人)』『今井通子(銀嶺の人)』『芳野満彦(栄光の岩壁)』という実在する当時の一線級の登山家(登攀家)のモデルがいる。

加藤文太郎は有能な内燃機関(車)のエンジニアとして会社員をしながら、冬期の縦走登山を精力的に行なった『社会人登山家』の嚆矢であり、今井通子はハーケンとザイルを用いる危険なロッククライミング(岩山登攀)に熱中して日本人女性で初めてアイガー北壁を登りきった『女流登山家』の先駆けである。『栄光の岩壁』の主人公である竹井岳彦(芳野満彦がモデル)は、18歳の時に冬の八ヶ岳で友人と一緒に遭難して凍傷で両足の指の全てを切断したにも関わらず、山と自分の存在意義(生きることの意義)を重ね合わせ、登山を飽くまで辞めなかった執念の人物である。

『栄光の岩壁』の時代設定は、第二次世界大戦の戦時中と敗戦(終戦)から始まり、そして、戦後の混乱期から経済成長期へと向かって時間が流れていく。小学校では喧嘩と悪さに明け暮れていたガキ大将の岳彦も、今まで絶対のものだと信じていた国体護持と天皇主権の価値観の全てが一瞬で瓦解した『敗戦(GHQの占領体制)のショック』を受けることになる。終戦を境にして、日本人が昨日と今日とで180度、生き方を変えていこうとする状況の中、何を基準・目的にして生きていけば良いのか悩む岳彦の前に、『山』がその姿を現す。

初めは山岳部に所属してそれなりに山に登っていただけだったが、『八ヶ岳の遭難』で親友の河本峯吉を亡くして自分の両足の先端(指)を失ってからは、狂気的な登山への執着・没頭を見せるようになる。12月の八ヶ岳縦走での遭難は、竹井岳彦が単独で登っていたなら、『風雪が強い気候の悪化』を見越して途中で引き返す決断をしていたのだが、久村とみ子という女を馬場と奪い合っていた河本峯吉が、飽くまで『八ヶ岳縦走』をやりきること(とみ子へのアピール・馬場との競争心)にこだわり、遂に岳彦は峯吉を説得して引き返すことができなかった。岳彦は自分一人でも猛吹雪の中の八ヶ岳縦走をやるという峯吉を置いて帰ることができず、峯吉が疲労と低体温症で精神に異常を来して死ぬギリギリまで付き合い続け、結果的に自分の足を重度の凍傷によって切断することになった。

竹井岳彦は凍傷による壊疽(えそ)で両足の指と踵を失ってしまい、凍傷が治ったとはいっても何とか足の切断面に薄い皮膚ができているような状態であり、初めにかかった医師からは皮膚が破れて出血しないように寝ていろ(良くなっても精々松葉杖で歩けるくらい)と言われたが、満州帰りの軍医だった小林は『出血しても痛みを我慢して歩き続けることで再び歩けるようになる』と語り、岳彦に『足のない足』で歩くための過酷なリハビリを勧めた。岳彦は靴下が血で染まり靴の中に血が溜まるほどの激烈なリハビリに耐え抜き、何とか自力歩行が可能になるが、常識的に考えれば両足の甲より先がなく右足の足の裏もないような足で、『登山』をすることは不可能なはずだった。

岳彦は八ヶ岳の遭難で両足(足先の大部分)を失ってからは、客観的にはまともに歩けない(早く歩いたり走ったりはできない)身体障害者に近い状態になったが、岳彦は自分に対する友人・他人の『介助・補助の好意(手を貸してもらって何かができるようになること)』を厳しく拒絶し、自意識の上では身体障害者であることを決して認めず、歩くのに時間がかかっても全てのことを自力でやろうとした。両足がないことは、岳彦にとって紛れもなく人に認識されたくない『劣等コンプレックス』であり、思春期になって周囲の山仲間の友人に恋人ができていく中でも、自分は足がないから女性には好かれないだろう、自分の本当の足は見せられないという劣等コンプレックスの殻に閉じこもっていた。

長く歩くと岳彦の皮膚が薄い足は出血して、包帯・靴下が血で真っ赤に染まってしまいベタベタとするので、定期的に傷口を消毒し、包帯を洗って取り替えなければならなかったが、岳彦はその姿を誰にも見られたくない(他人に不快感を味わわせてしまう)と思い、隠れるようにして誰もいない場所を探して、一人で包帯を素早く洗い取り替えるのが常であった。岳彦は自分を身体障害がある人間としては決して扱いたくなかったし、他人からハンディキャップをつけられたり同情されることが死ぬほどの苦痛であり、どんなに親しい友人や女性の好意(手助け)であってもそれを素直に受け取ることが出来なかったのである。






■書籍紹介

栄光の岩壁〈上〉 (新潮文庫)
新潮社
新田 次郎

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