近代社会が求める“個人の自立・貨幣経済の自由・自己責任”は人間関係や相互扶助をどう変えるか:2

前回の記事の続きになりますが、地縁血縁が薄れていき誰も親しい他者とのつながりがないという『無縁社会・孤独死の増加』も、ゲマインシャフト(伝統共同体)を段階的に解体していった高度な貨幣経済の浸透と無関係ではないでしょう。大半の事がお金で解決できる便利で計画的な社会(直接的に地縁・血縁・他人に依存して助け合わなくても良い自立した個人が基準とされる社会)になったからこそ、人との縁が薄くなりやすくなり、『直接的な対人関係の相互扶助』が弱まったという側面もあります。お金を支払って等価交換と見なされるサービスを受けることは、一般に対人関係を前提として相手にお願いして支援(手伝い)を受けることよりも、心理的負債が小さくて遠慮したり、お願いを断られる心配をしなくても良いからです。

これが『貨幣経済(社会保障を含む経済的制度)の清算性』が持つ魅力になっていますが、少子高齢化の進展や国家財政の危機、福祉歳出の削減などによって、今度はお金の等価交換だけでは十分に対処することが難しい面もあり、『無縁社会・孤独死の増加』が新たな問題として立ち上がってきたという時代の変化もあります。

個人の自由と表裏の関係にある無縁社会(孤独死)を積極的に受け入れられる人が少なからずいるとしても、現代社会は『お金があれば大半のことが何でもできる社会』であるのと同時に、『お金が無くなれば何もできなくなる社会(善意・好意の相互扶助を期待できるような濃厚な人間関係を持たない個人が増えた時代)』になっている現実もあります。

お金(貨幣)は『仮想的な完全な等価交換』を実現する強力な媒体であり、人に頼んで何かをして貰ったり人から好意で何かのモノを贈ってもらうよりも、お金で商品・サービスを購入したほうが後腐れなく(心理的負債が生じずに気楽に)、綺麗にその一回限りの『貸し借りの精算』を行うことができます。

近代に入り、都市の領域が拡大して人口が急増するにつれて、昔ながらの地方の商店街のような『顔見知りの個人商店(お互いの家族構成・仕事・生活なども知っているような相手)』から近況・家族の雑談をしながら商品を買うというような買い物は減っていき、買い物と人間関係(情報交換・世間話・プライベート)が結びつくことを煩わしく感じる人のほうが増えていきました。

買い物(ショッピング)は欲しい商品・サービスだけを効率的に得るための行為であるべきで、そこに買い手と売り手の私的なコミュニケーションが介在すると心理的負担になる(ただ買い物に行っているだけなのに売り手との個人情報が絡むやり取りまで気を遣ってしたくない)ということもあって、人情・世間話絡みの地方の商店街(役割的なサービス業に徹していない商店)は廃れていき、品揃えが豊富で匿名的(マニュアル的)かつワンストップで買い物ができる『スーパーマーケット・複合商業施設・コンビニ・都市的なショップ』が隆盛していきました。

“都市部の匿名的な貨幣経済”の利便性と気楽さは、『お金さえあれば互助的な人間関係を必要とせずに商品やサービスを購入して生活できる』という点にあり、つまり『贈与‐返報の心理的負債の煩わしさ』を逃れるために、近代の人々は直接的に他人からの好意・援助をあまり受け取らなくなり(心理的な貸し借りのような拘束感が出来るだけ生まれないようにして)、他人に何か頼み事をすることも迷惑な行為の一つ(自分自身もできれば頼み事をされたくない)と捉えるようになりがちになりました。

会社・官庁の組織に所属したり自営の仕事をしたりして給料(収入)を稼ぎ、そのお金で『自分にとって望ましい他者(自分の興味関心やメリットとの相関がある他者)』だけと選択的に人間関係を結んでいく。それ以外はお金で『等価交換の買い物(贈与‐返報ができるだけ生まれない関係の清算)』をしながら、他者にできるだけ頼らずに自立的な生活を営むというのが、現代的なライフスタイルになったという流れがあります。

これは『プライバシーを尊重した個人単位のライフスタイル』であり、現代人であれば誰もが多かれ少なかれこういった生活様式を望むものでもあり、現代人の多くは『プライバシー保護(私的領域)のない生活・他者との距離感が近すぎる日常(共同生活に近い互助的関係)』には耐えられなくなっているので、日本の近代初期までの個室(他者排除の私的空間)のない住環境や近隣住民が自由に出入りする地域社会のようなものの再生(貧しさの前提ありきの共同性・互助性の復興)は、原理的に難しいようには思います。






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