斎藤環『関係する女 所有する男』の書評3:“男女の性差・性別役割”を科学的事実で語る誤謬

第二章『男女格差本はなぜトンデモ化するのか』では、アラン・ピーズバーバラ・ピーズのベストセラー『話を聞かない男、地図が読めない女』などを例に挙げながら、『自然主義的な誤謬』『疑似科学的な男女の性格行動の違いの説明』を問題として取り上げている。自然主義的な誤謬というのは、『事実命題と倫理命題が異なるという事』の指摘であるが、簡単に言えば『客観的な事実として~であるという認識から、あなたは~すべきであるという倫理規範を導き出すことはできない』ということである。

この章で斎藤環が疑似科学のトンデモ理論として批判しているのは、『男女の脳・ホルモンの器質的性差から男女がこのように生きるべきとする倫理規範(行為規範)を導き出そうとする理論』であり、『自然な役割・本性』という言葉が持つ直観的な強制力や同調性を危惧している。

原始時代から前近代社会に至るまで、人間には男性が戦ったり狩りをしたり働いたりして家族を守り養う役割を引き受け、女性が家庭の中に入って子どもを生み育てる役割を引き受けるという『自然で本能的な役割』があったのだから、現代社会においてもこの自然で本能的な役割を引き受けるのが当然であり、それが動物の一種である人間の幸福感にもつながるというような理論であり、この種の『進化生物学的な背景を持つ理論(伝統的な役割分担の生物学的な出自めいた根拠)』は一般にもかなりの影響力を持っていることは確かである。

生物学的な脳科学の実験結果や新たな知見を用いて『男女の性差』を説明しようとする本は少なからずあり、その中にはまともな脳科学の研究結果を慎重に男女の性差に応用しているものもあるが、アラン・ピーズ&バーバラ・ピーズの『話を聞かない男、地図が読めない女』では、男女の睡眠時の脳波に違いがあるとか、男女の色覚を司る錐体細胞の機能に違いがあるとか(X染色体に由来する錐体細胞の機能は、性染色体がXXの女性のほうが優れているとか)、女性の皮膚の触覚が男性の10倍も敏感であるとかいった明らかな科学的な間違い(事実レベルの誤認)も含まれている。

しかし一般的な読者は、脳科学の事実レベルの知識を正確に持っているわけではないので、こういった脳科学の実験結果や知識の裏づけが書籍に書かれていると、それを信じ込んで『科学的根拠のある主張』という風に受け取ってしまいやすい。

第二章で主張されていることの本質は、その理論や知識が『科学的に正しいのか否か』ということではなく、『科学的・自然的な事実であってもそれが規範・価値とイコールではない』という自然主義の誤謬の指摘であり、男女の生物学的な構造・機能の差異があるとしても、それを理由にしてそれぞれの男女がこのように生きなければならない、それから外れれば間違いであり不幸であるとまでは言うことができないということである。

本書では、ロジャー・スペリーの分離脳研究を応用した『男女の右脳・左脳の機能差の俗論』についても丁寧に反駁しているが、『男性は右脳(空間認識のイメージ)が発達している・女性は左脳(言語能力)が発達している』という右脳・左脳の働きの性別による違いには科学的根拠はない。脳梁を切断したてんかん患者を用いたロジャー・スペリーの分離脳(分割脳)の実験で分かったことは、右脳と左脳がそれぞれ独立的な意識やそれぞれの機能の分担を持っているという事だけであり、男女の脳の右脳・左脳の機能に明確な性差があるという事が確実に確認されている統計的研究はないのである。

女性のほうが脳梁が太いから感情的になりやすいという俗説も科学的には実証されておらず、脳梁の太さが情動を生み出す神経線維の数と直接に相関している事が確認されたことがない。人間の心理を進化的適応の結果として捉える進化心理学に対しては、『生存・生殖の適応のためだけの心理メカニズムの形成』が事実なのかどうかは分からず、“適応の状況や目的の解釈”次第でどうにでもなるという観点から反論している。

また、仮に男性と女性の右脳・左脳の働きに違いがあるという『自然的事実』が確認されたとしても、それを根拠にして男性と女性の倫理規範(行為規範)や役割・権利の違いを語ることは自然主義の誤謬である。倫理規範や価値判断を『脳の器質的特徴(自然的事実)』に還元することはできないというのは、原理的には身体的・事実的な能力が劣っていて生産性がないのであれば、その権利も少なくなるのが当然であるというナチスドイツの『優生思想(障害者差別・人種差別)』にまでつながる恐れがあるからであり、人間社会の人権や男女観、規範性は『自然的な事実・能力』とイコールにすべきではないからである。

この記事は、前回の「斎藤環『関係する女 所有する男』の書評2:“性別に関する知識・社会的な共有認識”としてのジェンダー」の記事の続きになっています。






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