斎藤環『関係する女 所有する男』の書評2:“性別に関する知識・社会的な共有認識”としてのジェンダー

斎藤環が前書きで書いているように、『ジェンダー否定・男女平等主義の機械的な極論』というのは、自分が自分の持つ自然な欲望に傷つけられないようにしようとするシニシズム(冷笑主義)の態度に根ざしており、何とか異性を無価値化しようとする認知的不協和による虚しい努力に近いものである。しかし、シニシズムの対極にある男性と女性がとにかく性的に結びつけば良いというような“デカダンな快楽主義・享楽趣味”というのも反道徳的であり、それが集団化すればカルト宗教のような異様な外観を呈してしまう。

そこで求められるのが、男女の社会的性差を理解しながら男女の権利(自由)の平等性を尊重するという『ジェンダー・センシティブ(gender sensitive)』の立場だが、この概念そのものはアメリカの教育学者のジェーン・マーティンバーバラ・ヒューストンが提唱したものだという。

“センシティブ(鋭敏・敏感)”というのは、ジェンダーに基づく差別や格差に敏感という意味であり、ジェンダーを無くしたりその性差に気づかないままでいるというジェンダーフリーよりも現実的で実用的な概念になっている。本書では、精神分析的な考察や理論化を行いながら、『イメージ(幻想)としての男女の違い』を取り出してみせ、それを『男性の所有原理と女性の関係原理』によって解体していく試みが各分野で展開されている。

“男根期(エディプス期)の男根羨望・去勢不安”や“全ての心理現象をリビドーの充足・不足(緊張)で解釈する汎性欲説”などで、フェミニストから男性主義的(家父長制度的)だと批判されることもあるS.フロイトの精神分析を、男女どちらの立場かだけに偏ることなく『現代社会の諸問題』に応用している手際は鮮やかである。

心理学の『氏か育ちか論争』においても、人間の性格構造を決定する要因が遺伝要因なのか環境要因なのかをはっきり区別することができないように、『ジェンダー論』においても男女の性差についてどこまでが生物学的要因で決まるセックスなのか、どこからが社会的・文化的要因で決まるジェンダーなのかを明確に区別することはできない。

“ジェンダー(gender)”というのは、人間の男女の性別に関する認識の全体を包摂しており、フェミニストのジュディス・バトラーが指摘するように、人の自我意識が『人間の性別』を動物的な性行為に拠らずに定義的に認識したりその認識の上で行動するには、『性別に関する知識・社会的な共有認識』が必要だからである。バーバラ・ヒューストンが書いている『私はジェンダーは人の性質としてではなく、様々な方法で作り出される人々の間の関係性であると捉えるのが重要だと考えています』という言葉は、正にそのジェンダーの定義を正面から述べたものだろう。

そして、この『性別に関する知識・社会的な共有認識』というのが、そのままジェンダーになるのであり、セックスとジェンダーはその絶えざる相互作用によって常に境界線が曖昧に揺れているのである。

同性愛の行為・存在を道徳的に認めるか否かさえ、古代ギリシアや日本の戦国時代・中世寺社勢力と近代社会、現代社会では全く異なる『社会的な共有認識』を持っており、ヘテロセクシャル(異性愛)やホモセクシャル(同性愛)、婚姻規範、自由恋愛(性の自由化)を巡って、『男らしさ・女らしさ・性的関係のあり方の価値観』は絶えず移り変わってきた。

この記事は、前回の「斎藤環『関係する女 所有する男』の書評1:ジェンダー・フリーとジェンダー・センシティブ」の記事の続きになっています。






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