新田次郎『孤高の人 上・下』の書評4:“不死身の加藤”の槍ヶ岳・北鎌尾根での最期

小説『孤高の人』では、園子花子という二人の女性を巡る加藤文太郎の恋愛も描かれ、そこに加藤のことを尊敬して慕って弟子のように加藤の登山を真似ていく宮村健(みやむらたけし)が加わってくる。洗練された知的なお嬢様のような雰囲気を持つ園子に、加藤は『別世界の理想的女性』としてのイデアを見て憧れて惚れる。

園子は外山三郎の親戚筋に当たる女性で、暫く外山の家に下宿している都会的で気品のある女性だった。だが、恋愛には完全に奥手で初心(うぶ)な加藤が、園子に対する態度を決めかねて何もできずにいる間に、園子のことを狙っていた遊び人風の大学生の佐倉が接近してくる。佐倉は園子を食事に誘い出してアルコールを飲ませ、無理やりに肉体関係を迫り園子のことを弄んで捨てるのだが、そのトラウマティックな体験によって園子はそれまでの彼女とは別人のように身を持ち崩してしまい、異性との出会いも兼ねた喫茶店で働くようになる。

加藤文太郎の気持ちは次第に、堕落してしまい人が変わってしまった園子からは離れて、地元の浜坂の神社で過去に遭遇したことのある清楚な美少女の花子のほうへと引き付けられていき、親戚の仲介もあってその花子と結婚することになる。問題は加藤が喫茶店で働く園子に引き合わせてしまった宮村健であり、園子が恋愛経験のない宮村を『可愛い登山家』といってからかって付き合っている内に、宮村が園子にひどく惚れ込んでしまうのである。加藤・宮村・園子の三人でハイキング的な六甲山登山に出かける予定だったのだが、加藤が社用で来られなくなり、宮村は園子をエスコートしながら二人きりで六甲山縦走をするのだが、途中で雨に降られたこともあり日帰りが難しくなる。

宮村健は思いがけず二人で宿泊することになった旅館で、園子からのあからさまな誘惑を受けて、自らの欲望を制御することができず男女の仲になってしまう。宮村健は手を出してしまったことを必死に謝り、時代が昭和初期ということもあり責任をとって園子と結婚するというのだが、園子のほうには魅力的な男として見ることができない宮村と真剣に付き合う気などなく、『一回限りの遊び』として男女経験のない宮村を悪ふざけでからかっただけだった。園子は、過去に加藤を共産主義に誘った金川義助と付き合っているのだが、共産主義を放棄して変節した金川は妻子を持ちながらも別の女と遊び歩くような堕落した遊び人になっており、園子はそういう軽薄な遊び慣れたタイプの男に惹かれているのだから、純粋・朴訥なだけが取り得で面白みに欠ける宮村のような男に惹かれる道理がなかった。

そこから、園子との関係を忘れられない宮村健のストーカーのような連日のつきまとい行為が始まり、園子は加藤に『宮村をもう店に来させないでくれ』と苦情を申し立てるのだが、宮村は自分でも自分の激しい感情と執着心を持て余しており、尊敬している加藤の『もう園子のことは忘れてしまえ』という言葉も耳に届かない。

そうこうしている内に、加藤は地元の花子と結婚することが決まり自分の家庭を持つようになり、宮村が執着して忘れられない園子のほうも金川と一緒に満州に渡って新生活を始めることになった。過去に神社で出会った二人だけの美しい記憶を共有する優しく温和な性格の花子と結婚したことで、加藤文太郎の頑なな性格も柔らかくなりそれまでのように『自分の殻・孤独な状況』に閉じこもることは減り、会社の上司・同僚も驚くほどの社交性も芽生え始めた。

花子が妊娠して登志子という娘が産まれ、守るべき家族を持った加藤の登山スタイルも緩やかに変化していき、冬山登山そのものの回数も落ち込んでいく。加藤は独身時代から常々『自分は死ぬまで危険な冬山から離れることは決してできないだろう。仮に自分を山から引き離せるような存在があるとしたら、それは山同等のあるいはそれ以上の相手だということだ』と考えてきたが、花子や登志子の存在が死の危険のある冬山との距離を僅かながらも開かせていた。しかしそれでも、加藤文太郎は自分は『単独行』で山に登る限りは決して死なないという確固たる自信は失っていなかったし、いつかヒマラヤの世界最高峰の頂を極めるためにしている貯金もやめてはいなかった。

幸福と安定の時期にあった加藤の元を、園子に去られて傷心に沈み込み、会社勤めも辞めてしまった宮村健が青白い顔をして訪問してくる。宮村は加藤と会っていない期間も、果敢に危険な厳冬期の冬山を幾つも登頂しており、ロッククライミングの技術については加藤を上回るほどのレベルにまで上達していた。

宮村は決死の悲壮な覚悟をたたえて、加藤に『園子のことをきっぱりと忘れて人生を一からやり直すために、厳寒期の槍ヶ岳・北鎌尾根をぜひ加藤さんと一緒にやりたい。自分はこの登山を最後に山登りを完全に引退するつもりで、北鎌尾根をやり終えたら満州に渡ってやり直す』と熱く語りかける。加藤はあまり気乗りがせず山行計画を立てられるギリギリの段階まで返事を先延ばししていたが、宮村が返事を催促してきた時の暗い陰のある表情と声色を見て、もし自分がついていかなければ宮村は槍ヶ岳できっと命を落とすだろうという予感を感じ、同行することを了解するのだ。

二人きりで部屋に閉じこもって槍ヶ岳・北鎌尾根の登山計画を立てている姿や宮村の余りにも陰鬱な思い詰めた表情を見て、妻の花子は何となく不吉な予感を覚え、加藤に『今回だけはやめておいたほうがいいのでは』と提案するが、加藤は自分は冬山には今までの経験から自信を持っており死ぬことなどはない、また親友である宮村を見捨てることはできないとして突っぱねる。しかし、幾度も絶体絶命の窮地から生還してきた『不死身の加藤』は、加藤文太郎が自分で自己定義していたように『単独行で他者に影響されないがゆえのサバイバル能力』であり、また強靭な脚力と優秀な登攀技術を持ちパートナーとして全く不足のない宮村健のパーソナリティと精神状態が、普通ではなかった事も災いすることになる。

『孤高の人』のクライマックスである槍ヶ岳と北鎌尾根の厳冬期登山では、加藤と宮村は途中で宮村が加入している山岳会の仲間である市川・水野を加えたパーティーで行動するが、北鎌尾根制覇をはやる宮村は加藤以外の二人がついてこれないほどのハイペースで歩き続ける。ついていけない市川と水野は死ぬほどに疲労困憊して鋒鋩の態となり、何とか殿(しんがり)を務める加藤が励ましてペースを緩めながら当初の目的地の山小屋にまで辿りつく。このパーティーでは形式上のリーダーは最も山の経験が豊富で登山家としての名声も高まっていた加藤だったが、加藤は宮村の『最後の登山』の花道を飾ってあげる気持ちで参加しており、宮村の強行軍と威圧的な態度に対してギリギリの段階まで反論・指摘を加えなかった。

園子がかつて『可愛い登山家』と呼んで茶化していた宮村は、最後の登山において周囲を威圧する『恐ろしい登山家』へと変貌してしまっており、自分についてこれない先輩格の市川・水野を叱咤激励して無理な山行を強制するような有様であり、尊敬している加藤の忠告さえもまともに受け容れられないほどの精神的な興奮状態にあって登山を続けている。天候が荒れ続け食糧備蓄も減っている中で、加藤は宮村の勢いに押される形で北鎌尾根に向かうことを承諾してしまうが、この厳しい吹雪が吹き荒れる悪天候下で十分な食糧を持たずに目的地に向かうことは、『単独行』をしている時の加藤であれば絶対にしない判断でもあった。

同行者がいて自分独自の判断(自己責任を負う選択)が下せない状況で、初めて加藤文太郎の『迫る死のリスク』を嗅ぎ分ける本能的な嗅覚に狂いが生じ、いつもであれば1週間分以上の食糧を念入りに用意していく加藤が、この時にはチョコレートやリンゴなどごく僅かな食糧しか持たずに、一か八かの天候に左右される短期決戦を北鎌尾根に対して仕掛けてしまった。常時左右のポケットにぱんぱんに詰め込んでいる甘納豆と乾し魚の行動食も、それ以前の段階の小屋泊まりで仲間3人に分配してしまっており、燃料も僅かしかなくほとんど余裕のあるストックを持っていくことができなかったことも、加藤と宮村の遭難状況をより過酷なものにした。

不世出の登山家としてヒマラヤ登山も視野に入りかけていた加藤だったが、雪崩によって北鎌尾根から天上沢にまで遠く弾き飛ばされ、宮村を励まして支えながら最後の最後まで吹き荒れる吹雪の中を歩き続けるが、手足に凍傷を受けて精神力と体力が限界を越えてしまう。遂に不死身と謳われた加藤も、懐かしい人々が次々と出現する幻視幻聴の中で、その生命の炎を燃え尽きさせてしまう。

新田次郎の『孤高の人』は、孤独を強く愛すると同時に孤独を深く恐れ続けた『単独行の加藤文太郎』の伝記的な小説であるが、冬山登山と人間関係の苦手意識(孤独感)を題材にしながら、人間が誰しも持っている『実存的な対人欲求・自由志向の葛藤(人と関わりたいが人に振り回されたくないという葛藤)』を、荒々しい息遣いが伝わるような登山の克明でリアルな描写によって上手く表現している。






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