福岡伸一『世界は分けてもわからない』の書評2:マップラバーとマップヘイターの対照的な行動原則
大気中に漂っている微生物やモノ・身体に付着した微生物の増殖活動によって、食物の腐敗現象が起こりますが、人類は微生物による腐敗現象を抑制する化学物質として『防腐剤・保存料』を発明した。本書では、サンドイッチ・弁当などに使われるポピュラーな保存料のソルビン酸の作用について説明されるが、ソルビン酸は本来の栄養素(リンゴ酸・乳酸など)の囮物質として作用することで、微生物の代謝を阻害して腐敗を抑制している。微生物の細胞内にある酵素がソルビン酸とがっちり結合してしまうことで、加工食品に含まれる栄養を微生物は代謝(摂取・分解)できなくなり、その結果、腐敗の生命現象が進みにくくなる。
保存料の話題は、微生物にとって代謝を阻害する“毒”になるものが、人間にとっては加工食品を安全に長持ちさせる“薬”になるという『毒と薬』の二面性を説明するために出されている。細胞の代謝を阻害する働きを持つソルビン酸は、人間が食べても毒にならないのかという疑問に対しては、50%致死量が1.47グラムのラット(体重200グラム)の動物実験を参照して、平均体重50キロとした場合の人間の50%致死量は368グラムであり、保存料としての含有量の少なさを考えれば、『ソルビン酸は安全・無害と言える』と結論している。急性毒性・慢性毒性については安全ということである。
保存料のソルビン酸に、病気になるとか死亡するとかいうマクロな分かりやすいレベルの有害性がないとしても、細胞レベルで何か悪い影響があるのではないかという疑念に対しても、福岡氏はインビトロな試験管内(シャーレ内)の実験を引いて、人間の細胞にはソルビン酸は悪影響を及ぼさないという結論を示す。マクロな病気・中毒・死亡のリスクもなく、ミクロな細胞への毒性もないとすれば、常識的に考えればソルビン酸は安全・無害と認定できそうだが、福岡氏はソルビン酸が『腸内細菌の代謝阻害に関する長期的リスク』を指摘する。
約180兆個もの腸内細菌が担っている『整腸作用・体外細菌の食作用』が、数十年間の継続的なソルビン酸摂取(保存料を使った加工食品)によって機能が低下するかもしれないというリスクだが、このリスクの指摘によって『部分の分析・実験』だけでは十分に解明できないリスクがあることが示されている。環境と人間との双方向的な関係性、人間と腸内細菌の相互恩恵的な共生関係を前提としてのリスク評価という視点は、本書の主題である『生命をひとつひとつの部分に分割できるか?部分と部分の境界線を明確にできるのか?』という問題意識に接合している。
『第四章 ES細胞とガン細胞』の初めで示されるマップラバー(地図好き)とマップヘイター(地図嫌い)という概念はなかなか面白い。
マップラバー(map lover)……地図で全体像をマクロに鳥瞰してどこに何があるかを把握してから、具体的な行動を始めるタイプ。
マップヘイター(map hater)……地図などに頼らず実際にマクロな探索行動・試行錯誤を繰り返しながら、自分の目的地に近づいていくタイプ。
マップラバーのほうが、理性的・計画的で無駄のない行動ができそうなようにも感じやすいが、実際には全体の地図やイメージにこだわらずに、一つ一つの作業を試行錯誤で積み重ねていくマップヘイターのほうが結果として目的達成が早いことが多いという。全体像を把握してから部分を定位して実際の行動を始めるというマップラバーの行動原理は、計画的ではあるけど非効率的でスピード感に欠ける短所を持つ。生命体を構成する一つ一つの細胞は、DNAの設計図に従って分裂・分化するマップラバー(地図好き)のように思われがちだが、著者はDNAは生命の大雑把なカタログに過ぎず、実際に各部位で分裂・分化している細胞は典型的なマップヘイター(地図嫌い)だという。
受精卵から細胞分裂を繰り返して細胞の数がどんどんと加速度的に増えていくが、増加するそれぞれの細胞がどの組織・器官に分化するかは、当然ながら初めの段階からDNAに書き込まれているわけではなく、『滑らかで画一的だった初期の細胞』は、他の周囲の細胞との“偶発的な空気の読み合い”によってそれぞれがどの部位に分化するのかが規定されていく。偶発的にある細胞が細胞分裂の途上で『突起部』を提示すると、その細胞に隣接する細胞は、発生分化の空気を読んで自身は『陥没部』を造りだし、突起と陥没が相補的に組み合わさって、組織形成への細胞分裂を加速させていくのである。
受精卵から分裂していく細胞の一つ一つは、最終的に形成される『身体の全体像』について知っているわけではなく、分裂・分化が進行していくプロセスの中でその瞬間瞬間に、隣接する細胞同士とミクロな交信をしながら自らが分化する組織・器官へと差異化を続けていくのだ。この生命体の発生分化のプロセスは、『生命の設計図=DNA』に記された全体像に従って細胞分裂を計画通りに秩序正しく展開する“マップラバー”ではないという。隣り合う細胞相互の間のミクロなやり取りを通して、排他的な役割分担をその都度行っていき、最終的な結果として全体像にまとまりが生まれるという“マップヘイター”の特徴を備えているのだ。
ある細胞が何に分化していくのかは『他の細胞との相互作用』によって決まり、初期の胚細胞は単独では何に分化すれば良いのか分からずに死滅する。この辺りは、仏教思想の世界のあらゆる物事は相互に影響を与え合って存在しているという『縁起(因縁生起)』の世界観を思い起こさせるが、初期胚から取り出した“ES細胞(胚性幹細胞)”の適応力の凄さは、単独では無限に無目的な自己増殖を続け、別の初期胚に融合させると正常な分化が進むということにある。ES細胞はまだ自分が何になるのかが決まっていない“自己探し”をする細胞であり、他の細胞との相互的な交信によって空気を読むことで、自分が分化する方向性を決めていくのだが、他の細胞との相互作用がなければガン細胞のように『無目的な自己増殖』を続ける危険性を持っている。
多くの細胞は分化が完成すると“自分探し”をやめて落ち着き、細胞分裂を停止するか分裂速度を落とすのだが、細胞がガン化すると“コンタクト・インヒビション(他の細胞との接触による増殖阻害)”が機能しなくなり、再び細胞の“自分探し”が加速して周囲の細胞との協調的な役割分担ができなくなる。他の細胞との間で空気を読むことが出来なくなったガン細胞は、一方的かつ無目的な自己増殖を延々と続けて臓器や生命にダメージを与えていくが、万能細胞と呼ばれるES細胞も『空気を読めない分化が進んだ環境(胎児・成体)』に入れられると、ガン細胞のような無限の自己増殖を始めることになる。
福岡氏は『空気を読めなくなった細胞』がガン化するとして、ES細胞とガン細胞は紙一重の違いしかないと語るのだが、『生体内における自己の役割・分化する方向性』を見失ってしまった細胞は落ち着ける場所を喪失することで、目的のない自己増殖を繰り返すだけのガン細胞になってしまうのである。『ガン細胞』を自在にコントロールして疾患としてのガンを克服することができていない現状は、『ES細胞』を自在にコントロールする再生医療が実現できていない現状とパラレルであるという指摘は面白い。生命の発生・分化と細胞のガン化とのつながりを解明して制御することができれば(著者は全体の完成に向けて部分を制御する可能性に否定的な論調に見えるが)、生命科学・先端医療は長足の進歩を遂げることになるのだろう。
■関連URI
福岡伸一『世界は分けてもわからない』の書評1:パワーズ・オブ・テンによる世界の拡大と縮小
社会不安障害(SAD)における『対人不安・回避行動・環境不適応』の症状:対人恐怖症の自己認知の障害
リリエンフェルド『臨床心理学における科学と疑似科学』の書評1:症候群の認定と法的責任の変化
福岡伸一『生物と無生物のあいだ』の書評2:生命の一回性と適応性がもたらす機械論的生命観への疑念
■書籍紹介
保存料の話題は、微生物にとって代謝を阻害する“毒”になるものが、人間にとっては加工食品を安全に長持ちさせる“薬”になるという『毒と薬』の二面性を説明するために出されている。細胞の代謝を阻害する働きを持つソルビン酸は、人間が食べても毒にならないのかという疑問に対しては、50%致死量が1.47グラムのラット(体重200グラム)の動物実験を参照して、平均体重50キロとした場合の人間の50%致死量は368グラムであり、保存料としての含有量の少なさを考えれば、『ソルビン酸は安全・無害と言える』と結論している。急性毒性・慢性毒性については安全ということである。
保存料のソルビン酸に、病気になるとか死亡するとかいうマクロな分かりやすいレベルの有害性がないとしても、細胞レベルで何か悪い影響があるのではないかという疑念に対しても、福岡氏はインビトロな試験管内(シャーレ内)の実験を引いて、人間の細胞にはソルビン酸は悪影響を及ぼさないという結論を示す。マクロな病気・中毒・死亡のリスクもなく、ミクロな細胞への毒性もないとすれば、常識的に考えればソルビン酸は安全・無害と認定できそうだが、福岡氏はソルビン酸が『腸内細菌の代謝阻害に関する長期的リスク』を指摘する。
約180兆個もの腸内細菌が担っている『整腸作用・体外細菌の食作用』が、数十年間の継続的なソルビン酸摂取(保存料を使った加工食品)によって機能が低下するかもしれないというリスクだが、このリスクの指摘によって『部分の分析・実験』だけでは十分に解明できないリスクがあることが示されている。環境と人間との双方向的な関係性、人間と腸内細菌の相互恩恵的な共生関係を前提としてのリスク評価という視点は、本書の主題である『生命をひとつひとつの部分に分割できるか?部分と部分の境界線を明確にできるのか?』という問題意識に接合している。
『第四章 ES細胞とガン細胞』の初めで示されるマップラバー(地図好き)とマップヘイター(地図嫌い)という概念はなかなか面白い。
マップラバー(map lover)……地図で全体像をマクロに鳥瞰してどこに何があるかを把握してから、具体的な行動を始めるタイプ。
マップヘイター(map hater)……地図などに頼らず実際にマクロな探索行動・試行錯誤を繰り返しながら、自分の目的地に近づいていくタイプ。
マップラバーのほうが、理性的・計画的で無駄のない行動ができそうなようにも感じやすいが、実際には全体の地図やイメージにこだわらずに、一つ一つの作業を試行錯誤で積み重ねていくマップヘイターのほうが結果として目的達成が早いことが多いという。全体像を把握してから部分を定位して実際の行動を始めるというマップラバーの行動原理は、計画的ではあるけど非効率的でスピード感に欠ける短所を持つ。生命体を構成する一つ一つの細胞は、DNAの設計図に従って分裂・分化するマップラバー(地図好き)のように思われがちだが、著者はDNAは生命の大雑把なカタログに過ぎず、実際に各部位で分裂・分化している細胞は典型的なマップヘイター(地図嫌い)だという。
受精卵から細胞分裂を繰り返して細胞の数がどんどんと加速度的に増えていくが、増加するそれぞれの細胞がどの組織・器官に分化するかは、当然ながら初めの段階からDNAに書き込まれているわけではなく、『滑らかで画一的だった初期の細胞』は、他の周囲の細胞との“偶発的な空気の読み合い”によってそれぞれがどの部位に分化するのかが規定されていく。偶発的にある細胞が細胞分裂の途上で『突起部』を提示すると、その細胞に隣接する細胞は、発生分化の空気を読んで自身は『陥没部』を造りだし、突起と陥没が相補的に組み合わさって、組織形成への細胞分裂を加速させていくのである。
受精卵から分裂していく細胞の一つ一つは、最終的に形成される『身体の全体像』について知っているわけではなく、分裂・分化が進行していくプロセスの中でその瞬間瞬間に、隣接する細胞同士とミクロな交信をしながら自らが分化する組織・器官へと差異化を続けていくのだ。この生命体の発生分化のプロセスは、『生命の設計図=DNA』に記された全体像に従って細胞分裂を計画通りに秩序正しく展開する“マップラバー”ではないという。隣り合う細胞相互の間のミクロなやり取りを通して、排他的な役割分担をその都度行っていき、最終的な結果として全体像にまとまりが生まれるという“マップヘイター”の特徴を備えているのだ。
ある細胞が何に分化していくのかは『他の細胞との相互作用』によって決まり、初期の胚細胞は単独では何に分化すれば良いのか分からずに死滅する。この辺りは、仏教思想の世界のあらゆる物事は相互に影響を与え合って存在しているという『縁起(因縁生起)』の世界観を思い起こさせるが、初期胚から取り出した“ES細胞(胚性幹細胞)”の適応力の凄さは、単独では無限に無目的な自己増殖を続け、別の初期胚に融合させると正常な分化が進むということにある。ES細胞はまだ自分が何になるのかが決まっていない“自己探し”をする細胞であり、他の細胞との相互的な交信によって空気を読むことで、自分が分化する方向性を決めていくのだが、他の細胞との相互作用がなければガン細胞のように『無目的な自己増殖』を続ける危険性を持っている。
多くの細胞は分化が完成すると“自分探し”をやめて落ち着き、細胞分裂を停止するか分裂速度を落とすのだが、細胞がガン化すると“コンタクト・インヒビション(他の細胞との接触による増殖阻害)”が機能しなくなり、再び細胞の“自分探し”が加速して周囲の細胞との協調的な役割分担ができなくなる。他の細胞との間で空気を読むことが出来なくなったガン細胞は、一方的かつ無目的な自己増殖を延々と続けて臓器や生命にダメージを与えていくが、万能細胞と呼ばれるES細胞も『空気を読めない分化が進んだ環境(胎児・成体)』に入れられると、ガン細胞のような無限の自己増殖を始めることになる。
福岡氏は『空気を読めなくなった細胞』がガン化するとして、ES細胞とガン細胞は紙一重の違いしかないと語るのだが、『生体内における自己の役割・分化する方向性』を見失ってしまった細胞は落ち着ける場所を喪失することで、目的のない自己増殖を繰り返すだけのガン細胞になってしまうのである。『ガン細胞』を自在にコントロールして疾患としてのガンを克服することができていない現状は、『ES細胞』を自在にコントロールする再生医療が実現できていない現状とパラレルであるという指摘は面白い。生命の発生・分化と細胞のガン化とのつながりを解明して制御することができれば(著者は全体の完成に向けて部分を制御する可能性に否定的な論調に見えるが)、生命科学・先端医療は長足の進歩を遂げることになるのだろう。
■関連URI
福岡伸一『世界は分けてもわからない』の書評1:パワーズ・オブ・テンによる世界の拡大と縮小
社会不安障害(SAD)における『対人不安・回避行動・環境不適応』の症状:対人恐怖症の自己認知の障害
リリエンフェルド『臨床心理学における科学と疑似科学』の書評1:症候群の認定と法的責任の変化
福岡伸一『生物と無生物のあいだ』の書評2:生命の一回性と適応性がもたらす機械論的生命観への疑念
■書籍紹介


