福岡伸一『世界は分けてもわからない』の書評4:ラッカーとスペクター、科学界が見たいと思った絵

アメリカのコーネル大学の生化学者エフレイム・ラッカーは、細胞のエネルギー代謝の研究に関する第一人者であり、細胞内でエネルギーとして使われるATP(アデノシン三リン酸)を合成するATP合成酵素の発見という大きな功績を成し遂げていた。ラッカーはエールリッヒ腹水ガン細胞を用いて、『なぜ細胞はガン化するのか』の理由を解明するための研究を精力的に行い、ガン細胞ではATP分解酵素が異常に亢進して、『無意味なATPの生産と消費の浪費』を行っているのではないかというガン細胞のワールブルク効果の仮説を立てた。

このラッカーの仮説を立証するために、エールリッヒ腹水ガン細胞をすり潰して構成成分のミックスジュースを作り、そのジュースからATP分解酵素だけを取り出して精製しようとするのだが、その精製には気の遠くなるような単純作業の繰り返しが必要であり、ポスドクの研究者はなかなか思うような成果を得ることができなかった。ATP分解酵素の精製に苦戦を続けているラッカー研究室に、大学院一年生で24歳の新進気鋭のマーク・スペクターがやってきて、スペクターは器用な手先を生かした鮮やかなSDS-PAGE(ドデシル硫酸ナトリウム‐ポリアクリルアミドゲル電気泳動法)の作業で、次々とポリアクリルアミドゲルのサンプルを作り上げていき研究実績を積み上げていく。

スペクターは研究室に入ったばかりの新人なのに、圧倒的な実験の手際の良さと正確さ、ハードワークに耐える体力と集中力によって、先輩のポスドク研究員を次々と追い越していき、指導教授で生化学の権威であるエフレイム・ラッカーからも強い信頼と期待を寄せられて寵愛されるようになる。『第8章 ニューヨーク州イサカ、一九八〇年一月』から『第9章 細胞の指紋を求めて』『第10章 スペクターの神業』『第11章 天空の城に建築学のルールはいらない』『第12章 治すすべのない病』までは、ATP分解酵素の精製に用いるSDS-PAGEの詳細な手順の説明を含めて、エフレイム・ラッカーとマーク・スペクターの研究プロセスを中心とする評伝的な記述にページが費やされている。

実験の目的や手順などは専門的な要素があり読みにくい部分もあるが、福岡氏の著作ではこういった科学者(研究者)のエピソードやスキャンダルが読めるというのも面白さの一つになっている。『世界は分けてもわからない』でも、神業的なスペクターの手腕と業績の背後にある不正行為が次第に明るみに出されていくのだが、エールリッヒ腹水ガン細胞からATP分解酵素を精製し、その精製したATP分解酵素を擬似的細胞膜に戻す再構成実験に成功する辺りまでは、スペクターはラッカーの評価を受けて『輝かしい科学者としてのキャリア』を急速に駆け上がっていく才能・素質に溢れた若者として描かれている。

マーク・スペクターの天才的な実験の器用さとハードワークによって、ラッカーのガン細胞内におけるATP浪費仮説が立証されたのだが、ラッカーは更に『ガン細胞のATP分解酵素だけがなぜエネルギーを浪費するのか?』という疑問に挑んでいくことになる。ラッカーが立てた仮説は、タンパク質合成をコードする遺伝子の働きを、瞬時にオン・オフで切り替えられる『タンパク質のリン酸化・脱リン酸化のカスケード』を前提とした仮説である。ガン細胞のATP分解酵素が『特殊なリン酸化酵素M』によって機能不全(遺伝子の作用のオフ)に陥っているというものであり、この特殊なリン酸化酵素Mの存在を証明できれば、ガン細胞の仕組みを明らかにできると考えた。

指導教授のラッカーの指示を受けて、スペクターはガン細胞のATP分解酵素がリン酸化されているかどうか、脱リン酸化をすれば正常な機能を取り戻せるのかどうかを実証する実験に着手した。新入生のスペクターは圧倒的な量の観察データを収集して、そのデータを仮説の提示や検証に用いるためのエクセレントなロジックを構築した。先輩のポスドク研究者からは嫉妬と羨望を集めたりもしたが、勉強秀才である彼らは、スペクターを自分たちとは異なる天賦の才能を与えられた『神々の愛でし人』として認識するようになっていった。スペクターはラッカー研究室に入ってから僅か一年で次々と重要論文を発表し続け、学位申請が可能なレベルの実績を上げつつあり、ラッカーと二人三脚のガン細胞のリン酸化の実験は更なる高みを目指しているように見えた。

しかし、スペクターが取り掛かっていた『ガン細胞のリン酸カスケード(多段階の滝のような連鎖反応)』を検証するための実験において、本来使われていなければならない“P32(リン酸)”の放射性同位体の代わりに、それより強い放射線を出す“I125(ヨウ素)”が使われていたことを共同研究者のヴォークトが偶然に発見して、スペクターにデータ捏造・不正行為の疑惑が掛けられることになる。ラッカーとヴォークトに呼び出されて放射性同位体の入れ替えを指摘されたスペクターは、何の動揺も不安も見せることはなく、誰かが自分を陥れるために仕掛けた罠だと主張して、もう一度実験をやり直して精製したリン酸化酵素を持ってくると言ったが、そのままどこかに蒸発してしまいスペクターが二度と大学に戻ってくる事は無かった。

『神々の愛でし人』としてその才能と手腕を賞賛された若き科学者のスペクターは、追試によって自らの実験の正しさ(不正をしていないこと)を立証することなく姿を晦ましたため、嫌疑濃厚の状態のまま全ての論文・実験結果が取り下げられる事になった。この『スペクター事件』は科学研究の世界に大きな波紋と不信をもたらし、再発防止のための様々な監視・管理・研究方法の対策が議論された。著者の福岡氏が、大学から失踪したスペクターは『学師のラッカーや当時の科学界が見たいと願った絵(ガン細胞のメカニズムが綺麗に解明された図式)』を取り出しただけかもしれないと結んだように、『予定調和・結論ありきの認知フレーム』にはまり込みやすい人の弱さをも象徴した事件である。

『エピローグ かすみゆく星座』では、その後の生化学・分子生物学の研究成果が紹介されて、ラッカーとスペクターが構想していたガン細胞のリン酸化カスケード仮説の大まかな筋道は正しかったことが記されるが、ラッカーとスペクターは実証プロセスを軽視して結果を証明することだけを焦ったために、スペクターは科学者生命を断ち切られるデータ捏造・実験方法の欺瞞という不正行為に手を染めてしまったのかもしれない。

本書『世界は分けてもわからない』は新書版の科学の読み物としてはかなり読み応えがある本であり、世界を分節化して分析するという『人間の科学的思考』の可能性と限界を示しながら、あらゆるものが相互に情報・エネルギー・物質をやり取りしている複雑で曖昧な『世界・生命のリアリティ』に肉薄する内容になっている。世界にも生命にも人間がコンセプトやイメージとして認識している『明確な境界線』は存在しないのであり、ルネ・デカルト以降の機械論的生命観が示唆した『メカニカルな部分と部分の因果関係』というのもリアルな生命現象にある動的平衡を見失っている。

最先端の生命科学理論や実験内容は専門的な難解さや複雑さを含んでいて、門外漢にはとっつき難いものであるが、『全体と部分の相互作用・部分の総和以上の全体性を生むリアルタイムの流動性(創発性)』を意識するだけでも、科学のフィルターを通じた世界の見え方はかなり変わってくるのではないかと思う。






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