『宣言的記憶』と『手続き記憶』の健忘症(脳損傷)による忘却リスク:自分で自覚できない潜在的記憶

前回の記事で説明した盲視覚や半側無視の実験では、『見えているという実感・自覚』が無いにも関わらず、見えていないとできないはずの課題を無自覚的・反射的にこなすことができるという事を示しました。自分自身が自覚することのできない知覚、あるいは、自分自身では意識的にアクセスすることのできない知識があるという人間観は『潜在的な認知プロセス』の存在を前提としていますが、S.フロイトが創始した精神分析学もまた『(本人が自分で自覚できない)潜在的な記憶・感情のプロセス』を再現しようとする心理療法としての特徴を持っています。

S.フロイトやC.G.ユングによる『無意識の発見』『力動的心理学による精神疾患の解明』は、心理学の人間観にコペルニクス的転換をもたらしましたが、哲学的な精神分析には科学的エビデンスが不十分だったので、その後、内的プロセスや無意識を捨象した客観的な観察範囲に限定した行動科学(行動主義心理学)が隆盛しました。S.フロイトはアンナ・Oやエリザベス、ルーシーなどの症例のケーススタディによって、『本人が自覚的にアクセスできない記憶・感情・欲求』を発見し、それらの抑圧された心的内容が蓄積されている本能的・原始的な領域を『無意識(精神構造論)』『エス(自我構造論)』と呼びました。

精神分析のスキームにおける仮説的・思弁的な無意識(抑圧された心的内容や心的プロセス)の存在を直接に検証することは困難ですが、フロイトが無意識と呼んだ『自力では容易に意識化・言語化できない領域(記憶)』は、認知心理学や神経心理学の潜在意識(潜在的認知)の実験によってある程度はその存在が実証されています。フロイトの無意識概念は『氷山のモデル』を用いて、海面上にある目に見える氷山を『意識』、海面すれすれで見えたり隠れたりしている領域を『前意識』、水面下にある広大な氷山の基盤の領域を『無意識』に喩えていますが、誰もが『自分では容易に思い出せない記憶』があることを経験的に知っているでしょう。

質問されてすぐにその場で答えられる『顕在的・意識的な記憶』だけしか持っていないという人はまずいないわけで、記憶のメカニズムである『記銘―保持―想起(再生・再認)』を考えても、ヒントやとっかかりを与えられれば思い出せる『再認』はできても、すぐに記憶内容そのものを想起する『再生』はできないことがあります。記憶内容に随時に意図的・意識的にアクセスして想起できる『顕在的・意識的な記憶』だけでは、人間の記憶容量は水面上にでている氷山の一角のように非常に小さいものになりますが、誰かとそのことについて話している時やちょっとした関連事項のヒントによって思い出すことのできる『潜在的・無意識的な記憶』まで含めると人間の記憶容量は長期間に及ぶ膨大なものになってきます。

記憶の古典的研究としてヘルマン・エビングハウスの忘却曲線は良く知られていますが、エビングハウス(Hermann Ebbinghaus, 1850-1909)は無意味つづりの単語を用いて被検者に記銘させて、『記憶の保持』と『忘却の比率』を再生率を測定して検証しました。

20分後には42%を忘却し、58%を保持していた。
1時間後には56%を忘却し、44%を保持していた。
1日後には74%を忘却し、26%を保持していた。
1週間後(7日間後)には77%を忘却し、23%を保持していた。
1ヶ月後(30日間後)には79%を忘却し、21%を保持していた。

記憶(記銘)した内容は短時間で急速に失われていきますが、1週間以上の期間になるとその忘却率の上昇は非常に緩やかになり、短期記憶だった内容の一部が長期記憶に移行してくると推測されています。エビングハウスは二つの無意味つづりの単語をセットにして記銘させて、一つの単語を示してもう一つの単語を『再生』できるかどうか、二つの単語をセットで示してその組み合わせが正しいかどうかを判断する『再認』ができるかどうかの実験も行いましたが、再生率よりも再認率のほうが高くなることから、人間の記憶にはヒントや関連情報があって初めて思い出せる『潜在的・無意識的な記憶』が存在することが分かります。
更に、全く再生も再認もできなかった無意味つづりの単語でも、同じ単語リストで『再学習』させると、初めて学習するときよりも単語の再生・再認率が有意に上がったことから(記憶学習の節約法の原理)、『全く再生も再認もできない無意味つづりの記憶』も脳内のどこかにうっすらと保存されていると考えられます。

人間の記憶に『顕在的・意識的な記憶』『潜在的・無意識的な記憶』とその境界線上の記憶があることは、脳損傷(海馬損傷)・脳萎縮(認知症・アルコール精神病)・心的外傷などによって発症する各種の健忘症とその記憶内容によっても示されますが、健忘症では『記憶機能(順行性・逆行性の健忘)』が障害されても、『知覚‐運動機能』は障害されにくいという特徴があります。神経心理学でS・コーキン(S.Carkin)という脳神経科医が紹介したHMという有名な症例では、てんかん治療のために両側海馬・海馬傍回・扁桃核などを切除されたHMの日常生活と各種課題への反応が記録されています。HMは重篤な順行性健忘(新しい事を覚えられない)・逆行性健忘(過去の事を思い出せない)を示しながらも、ゲームや作業の習得などの知覚‐運動系の記憶課題においては、健常者と変わらない成績を上げたことが記されています。

この事から脳損傷による記憶障害においても、『障害されやすい記憶領域』と『障害されにくい記憶』とがあると考えられますが、スクワイアやタルヴィングといった神経心理学者は記憶には複数の種類・階層があるという“多元記憶システム”の原理を提唱しています。L.R.スクワイア(L.R.Squire)は、知識・情報・出来事についての記憶である『宣言的記憶』と物事のやり方を体で覚える記憶である『手続き記憶』とを分類して、脳損傷で宣言的記憶は障害されやすいが、手続き記憶は障害されにくいとしました。遺伝性疾患のハンチントン病は、大脳基底核(線条体尾状核)の神経細胞が変性脱落することで不随意運動や認知・情動の障害が発生しますが、ハンチントン病では宣言的記憶は保持されるが、手続き記憶に沿った動作ができなくなるという現象が見られます。

宣言的記憶というのは、勉強や学習によって覚える物事の記憶であり、自分がいつ・どこで何をしたのかという出来事(体験)の記憶のことです。手続き記憶というのは、自転車の乗り方や自動車の運転、ゲームのやり方など体を通して無意識的に覚えていく記憶のことで、スクワイアは脳損傷による健忘症が起こってもこの手続き記憶は障害されにくいと主張したのでした。手続き記憶だけではなく、同じ単語を繰り返し呈示したり、関連する単語を呈示したりすることで正答率が高まるプライミング効果も健忘症では損なわれにくいことが実証されています。

カナダの心理学者エンデル・タルヴィング(Endel Tulving)は、宣言的記憶と手続き記憶の分類を更に細分化して、宣言的記憶を『エピソード記憶』『意味記憶』とに分類し、手続き記憶として『技能や操作(やり方)・プライミング効果・レスポンデント条件づけ』などを分類しました。それぞれの記憶の種類や内容をまとめると以下のようになります。タルヴィングはスクワイアの仮説に反論する形で、宣言的記憶のすべてが障害されやすいわけではなくて、個人的・日記的な経験や出来事、経験した事柄の日時などの『エピソード記憶』は障害されやすいが、一般的な事実に関する知識・情報・言葉の意味などの『意味記憶』は障害されにくいと主張しました。

宣言的記憶……言語的に表現・記述できる内容の記憶で、以下のエピソード記憶と意味記憶に分類される。脳損傷・健忘症などの原因で、手続き記憶よりも損傷されるリスクが高い。

エピソード記憶……個人的・日記的な体験や出来事、物事、日時などに関する記憶。自分が実際に過去にした物事、自分と関係があった人との人間関係、自分が体験したエピソードに関する記憶

意味記憶……言語や物事の意味に関する学習的な記憶。一般的な事柄についての知識・情報など。

手続き記憶……物事をどのようにするのかという方法・やり方についての身体的な記憶。無意識的にやっている動作や運転、反応などに関係する。

技能や操作……自動車・自転車の運転、コンピューター・機械の操作、身体に身に付いている技術・実践など。

プライミング効果……先行する事象・情報が、後続する事象・情報に影響を与える効果。同じ情報を繰り返し呈示して影響を与える『直接プライミング』、関連する情報を想起・反応のトリガーとして呈示して影響を与える『間接プライミング』がある。

レスポンデント条件づけ……古典的条件づけと呼ばれるもので、ベルの音で涎を垂らしたパブロフの犬のように、無条件刺激(えさ)の前に条件刺激(ベルの音)を繰り返し呈示して形成された『条件反射』である。幼児期のトラウマティックな体験や圧倒的な不安・恐怖を伴う体験などによって、何かに対して反射的に反応するようなレスポンデント条件づけ(古典的条件づけ)が成立することもある。






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