脳の顔領域の損傷による『相貌失認』と人間の『顔認知(顔と表情の識別)』の発達の特殊性

人間にとっての『顔』は社会生活や対人コミュニケーション(感情伝達)に必要不可欠な情報を提供するインターフェイスであると同時に、『顔の好き嫌い・美醜の判断』は自己評価(対人評価)や異性選択、社会的ネットワークなどとも深い相関を持っている。ヒト以外の動物にとっては、『顔』は生存適応度や繁殖適応度と密接に相関しておらず、人間ほど高度で複雑な社会構造を形成していないので、他の動物は『顔による個体識別』『表情による感情認知』といった脳の特異的機能が発達していない。

人間にとっての『顔認知の特殊性・重要性』は、ヒトの赤ちゃんが生後2ヶ月頃から『人間の顔』と『人間の顔ではないもの』を区別し始める“コンスペック(conspec)”と呼ばれる本能的な追視反応を見せることにも現れている。それだけではなく、人間の脳には『人間の顔の認知』だけに特化した側頭葉の視覚領域があり、この領域のことをそのまま『顔領域』と呼んでいる。

人間が大脳皮質の進化のプロセスにおいて、『ヒトの顔(表情・特徴)の認知及び識別』の機能を局在的に発達させてきた背景には、『社会的な動物』である人間にとっての顔による個体識別と表情による感情認知の重要性の高さがある。私たちが人生の途上においてほぼ無意識的に記憶する『顔の数』は膨大であるが、ある程度の期間にわたってコミュニケーションをしたり関係を持ったりした相手の顔を完全に忘れてしまうことは稀であり、慣れ親しんだ家族や友人、過去の恋人の顔であれば、『数年以上の時間が経過した後』に本人を同定することもかなりの精度で可能である。

生後2ヶ月頃までの新生児は『目・鼻・口の位置関係の図式(パターン)』で人間の顔を反射的・本能的に認知している。『生理的早産』と呼ばれる首も据わっていない極めて未熟かつ無力な状態で産まれるヒトの赤ちゃんは、『人間(親)の顔』を区別して微笑み掛けることで、大人(親)の庇護欲求を刺激するのである。

赤ちゃんが『母親(養育者)の顔』と『それ以外の顔』を区別できるようになるのは、生後3~4ヶ月頃からで、母親以外の人よりも母親を選択して注意を向けることを“コンラーン”と呼ぶが、『慣れ親しんだヒトの顔』を反射的に探すというコンラーン的な行動は成長してからも残る。

赤ちゃんの対人認知をはじめとする認知の発達は『生後2ヶ月以前の感覚運動的な顔の図式への反射(コンスペック)→生後2ヶ月以後の意識的な顔の選択的認知(コンラーン)』へと発達していくのだが、『知っているヒト・親しいヒトの顔を識別する能力』というのは社会生活・対人関係を円滑に送るための基本的な脳機能である。しかし、人間の顔認知は脳の機能局在に依拠しているので、側頭葉・後頭葉にある『顔領域』の脳神経が障害されると、人間の顔を区別できなくなったり顔の表情から感情・状況を読み取れなくなったりする。

脳において『顔領域』と考えられているものは、人間の顔の識別に関係する『紡錘状回(FFA:Fusiform Face Area)』、人間の表情や視線を区別して解釈する『上側頭溝(STS:Superior Temporal Sulcus)』、人間の表情によって喚起される情動・感情の中枢となっている大脳辺縁系の『扁桃体(Amygdala)』などである。

扁桃体は快・不快の情動判断と関係しており、不安性障害やPTSD(心的外傷後ストレス症候群)の症状として現れる強い恐怖・不安を生み出す脳器官でもあるが、扁桃体が損傷すると危険・恐怖の状況を察知することが出来なくなったり、ヒト・物事に対する好き嫌いの区別が明瞭でなくなったりするといった変化が起こってくる。

脳の損傷部位と心身の症状・異常の発生との相関を調べる神経心理学の事例研究によって、大脳皮質の『顔領域』が障害された時には『相貌失認(prosopagnosia)』という人の顔を識別できなかったり覚えられなかったりする状態が出現することが分かっている。相貌失認の最初の症例は、1947年にドイツの神経学者Bodamer(ボダマー)が、頭部外傷を受けた後に家族・友人の顔を認識できなくなったという若い男性であるが、頭部外傷や精神病、認知症による相貌失認は『後天性相貌失認』の代表的なものである。

相貌失認には生まれながらに人の顔を覚えにくかったり区別できなかったりする『先天性相貌失認』と後天的に事故・病気で脳の顔領域を損傷して人の顔の認知能力が低下あるいは喪失する『後天性相貌失認』があるとされるが、先天性相貌失認の発生率は2%前後と推測されている。相貌失認を意味する“prosopagnosia”はギリシア語であり、顔を意味する“prosopon”と医学用語である失認 (agnosia)の合成語となっている。

相貌失認は『目・鼻・口』など顔の構成パーツは細かく認識することができるが、パーツが合成されたゲシュタルト(全体性・形態)として構成される『顔』の全体像が認識できないという特徴があるが、この事は顔の認知が『部分の総和』ではなくて『形態としての全体性(ゲシュタルト)』を通して行われていることを示唆している。

人間の顔が区別できないとか覚えられないとかいうと、有り得そうにもない非現実的な事態のようにも思われるが、『人間の個体識別』の手がかりとして用いられるものには、『声の質・話し方・身長・態度や行動』など様々なものがあり、『顔のみでの識別』がかなり苦手でもそれなりに社会生活・対人関係に適応できてしまうことが多いので、本人自身も相貌失認の自覚に欠けることが少なくない。

相貌失認は『顔領域に関する脳機能の障害』なのでそれそのものを治療する方法は今のところないが、後天的相貌失認は自閉症やアスペルガー症候群、社交不安障害(対人恐怖症)、回避性パーソナリティ障害の特徴と混同されている恐れもあるので、厳密な診断のためには医学的検査が必要となる。相貌失認は『顔の学習機会の不足・欠如』を原因とするものではなく、『顔領域の脳機能の障害』を原因とするものなので、社交不安障害の緊張・不安症状などによって、『他人の顔』を観察する時間が極端に不足しているために顔を覚えられないケースは除外される。

相貌失認の障害がある人は、車の車種を区別できないなどの症状が重複することも少なくないとされるが、相貌失認のある顔とある顔を区別できないという症状が『人間の顔』だけに限定されたものなのか、『他のもの(同じカテゴリーに属するもの)』の区別の障害も含むものなのかについては議論がある。

脳の顔領域の機能局在的な障害と考えるならば、『ヒトの顔の認知障害』だけに限定されると推測されそうなものだが、『同じカテゴリーに属するものの認知障害』が出現する事例もあるということで、相貌失認の種類や程度の捉え方は一義的なものとは言えない部分もある。あるいは、脳の顔領域が担当する機能というのが『顔・表情の認識(区別)』に限定されたものではなく、『同じカテゴリーに属するものの認識(区別)』の機能も同時に担当しているのかもしれない。










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