香山リカ『母親はなぜ生きづらいか』の書評:血縁の親による子育てと社会共同体による子育てのバランス

近代日本のスタンダードな家族像である『父親が外で働き、母親が家で家事・育児をする』という性別役割分担は、共働きの農家が人口の大半を占めていた日本の伝統的な家族形態ではなく、富国強兵を目指す明治政府の国策と社会の工業化(男性のサラリーマン化)によって作られた側面がある。

男性(父親)の労働形態や家にいる時間の長さが変われば、『父親の育児への参加レベル・熱心さ』も必然に変わってくることになるが、高度経済成長期が終わる頃までは『男性が仕事(収入を得る)・女性が家事育児(家庭を守る)』という性別役割分担が男女双方にそれなりに納得されて機能してきた。

男性は仕事で一日の大部分の時間を使うが、家に帰れば妻と子が待っていて食事・風呂の準備もできている、女性は家事・育児に追われて一日を過ごすが、収入(生活費)を得るための仕事のことはそれほど心配しなくても良かった。その近代日本の性別役割を伴う結婚観は、明治期から始まり昭和期の1980年代前後まで続いており、現代に至っても『男性の甲斐性や職業・女性の家庭的性格や子ども好き』というのは結婚の条件としてかなり有力なものではある。

この性別役割分担は、男性が家計を支えるレベルの所得を得られて、家族のためにハードに働くことを嫌がらない(それを自己アイデンティティ・生き甲斐にできる)という前提、あるいは、女性が自分が外で働くよりも家庭で家事・育児をして過ごしたいと思い、夫・子どものために自分の人生の多くを費やしても良い(それを自己アイデンティティ・生き甲斐にできる)という前提によって成り立っていた。

その背景にあったのは、女性の進学率の低さや男性並みに定年まで働ける職場の少なさであり、『女性の社会進出の抑制・職業キャリアの制限』によって、男女の性別役割分担が環境的にも成り立ちやすくなっていた。だが、バブル崩壊以後の雇用環境・労働条件の急速な変化によって、男性が家計を支えられるレベルの正規雇用の数が減ったり、『終身雇用・年功序列賃金の保障』が無くなってきたため、女性も正規雇用(フルタイムのパート・派遣)に就く夫婦共働きの世帯が増えた。

女性の進学率の上昇や就業意識の高まり、男女共同参画社会の推進なども、『ダブルインカム(共働き)の世帯』が増加する要因となっているが、ここで問題となってきたのが『子どもを誰が主に育てるのか(女性が母親と妻、労働との多重役割を引き受ける負担の増大)』ということである。

香山リカ『母親はなぜ生きづらいか』で示される中心的な問題意識は、『育児が実質的に母親の仕事とされている現状の懐疑』に向けられており、日本における子育ての歴史を振り返りながら『養育責任の社会化(母親以外の者も子育てに参加していく社会)』を構想している。

香山リカは冒頭で芸能人の酒井法子と押尾学の薬物事件を取り上げて、酒井法子は『母親としての養育責任の放棄・子どもへの悪影響』がマスメディア(世論)によって厳しく非難されたが、押尾学のほうはあからさまな不倫までしているのに『父親としての養育責任の放棄・子どもへの悪影響』に非難の焦点が殆ど合わせられなかったと指摘する。

『子どもを持つ母親』は『子どもを持つ父親』よりも世間から厳しく養育責任が求められやすく、母親と父親が同程度の家庭放棄(不倫)をする行為や子どもを傷つける行為をしても、より強くバッシングされて否定されるのは『母親』のほうであることが多い。

ここには、母親は子どもを産めば誰でも無償の愛情を子どもに幾らでも注ぐことができるはず、女性は子どもを育てるようになれば自分の人生の楽しみや自分の時間を犠牲にすることが当たり前という『母性神話』が作用しており、この母性神話は男性だけではなく女性にもかなりの程度受け容れられている。

近代において母親と子どもの観念的・倫理的な結びつきはより一層強まり、閉鎖的な核家族の家庭の中で『母親だけ』が育児に関わる母子密着のケースが増えた。平和で豊かな社会は『自由・寛容・共感』の価値を重視する女性原理によって運営されるようになり、家庭教育や学校教育からも『父性的な強制・規律・恐れ』といったものが段階的に縮退していった。

現在ではイクメン(パパ男子)のような育児に積極的な父親も増えたとされるが、『父親も育児に参加すべきという意識』と『育児をやりたいが時間的に余り参加できない・中途半端に口先だけで関わってかえって母親のストレスが増すという実態』との乖離も問題として残っている。その結果、女性がフルタイムで働いているような共働き世帯でも、実質的に母親だけが育児の実際的な役割を担っていて、子育てへの感情的な思い入れが強い家庭の比率が多くなっている。

『第一章 江戸時代の子育て事情』では、江戸時代の武家の子育てを参照しながら、現代の子育てとは対極的な『父親の育児責任の重さ』を伝えている。特に、武家の子育てでは後継ぎとなる長男(男児)の子育てに対して、父親は礼儀作法の習得から文武の道の向上(学問・武芸の指導)、子どもの非行・不法行為、社会的自立に至るまでその全責任を負っていたのである。

本書では江戸時代の武家の育児マニュアルとして、山鹿素行の『山鹿語類』や林子平の『父兄訓』、中村新斎の『父子訓』が取り上げられている。これらは男性原理の思想・宗教である
『儒学の道徳』をベースにしたものであり、子(臣下)が親(主君)に無条件に仕える『忠孝の徳』や『武家の礼儀作法・習慣(古礼)』を修得して、封建社会の既存秩序に適応するというのが一つの目的となっていた。

江戸時代の武家では子育ては主に『父親の責任』であったが、現代では子育ては主に『母親の責任』となっている。この事から、子育ての責任主体が誰になるのかは、時代背景や教育環境(生きるのに必要な知識・経験)、ジェンダー(社会的性差)によって変わってくることが分かる。

しかし、現代の育児の最大の特徴は、閉鎖的な核家族の中で『血縁上の親のみ』によって行われることが多いということであり、親以外の人が育児を手伝ってくれる(子どもを預かってくれる)としても精々、祖父母やおじ・おばなど近しい親族に限られる。

育児の場である家庭が原則的には他者が関与しにくい『聖域的なパーソナルスペース』になっている。親自身も『育児の悩み・迷い・負担の大きさ』を感じながらも、自分たちだけで育児をしたいとか、他人に家庭(育児)のことに構ってほしくないとかいった『プライバシー感覚・育児の自己責任化』を持っていることが少なくない。

一つの核家族や一人の親だけで子どもを育てようとすれば、精神的にも時間的にも経済的にも『子育ての負担・ストレス』は必然的に大きくなってしまうが、現代ではそういった負担があってもなお『私だけ(夫婦だけ)の子ども』という子どもの所有権的な意識が強く、他人や地域社会と協働して子どもを育てるというコミュニティ感覚を自然に持つことは難しい。

プライベート(私的領域)の権利意識が弱く、地域コミュニティの影響も強かった前近代の社会では、子どもは『夫婦の血縁上の子ども』であるだけではなく、『社会共同体(村落社会)の観念上の子ども』でもあった。子どもは次世代へと社会構造・生産力を継承させていく『社会の宝』でもあったので、共同体の構成員がそれぞれ協力しながら子育てに当たった。


教育史学者・小山静子氏の著作『子どもたちの近代』(吉川弘文館)の「江戸後期の子ども」の章から引用させてもらおう。

「子どもは『いえ』の跡継ぎというまなざしでとらえられ、家業を継ぐために必要な知識・技術を、親の手伝いをしながら、日々の労働の経験を通して学んでいた。しかし親が子どもに経験知として伝えていったのはこれだけではない。隣近所や親戚、あるいは寺社とのつきあいの仕方、村祭りや冠婚葬祭の時のしきたりなども、村で生きていくためには必要な知識であり、子どもはこれらも生活を通して身につけていった。そしてこれらのしつけや教育は、村に生きる『いえ』にとってだけでなく、共同体の一員として村を維持していくためにも必要なものであった」

村の子ども。

この視点があったために、江戸時代の子どもは、ひとつの家族やその中で孤立したひとりの親によってのみ育てられるのではなく、もっと広く共同体のネットワークの中で育てられることが可能であったのだ。

香山リカ『母親はなぜ生きづらいか』のP28~P29より引用


そのため、前近代社会の子どもは『血縁上の親』だけに育てられたわけではなく、『共同体の多くの大人たち』とさまざまな形で関わりを持ちながら育てられたということになる。江戸時代以前は、武家の旗本や公家の名門であっても後継者(家督者)に『養子』を取ることが珍しくなかったように、現代と比較すれば『血縁のある実子』と『制度的な養子』との違いがそれほど強く意識されていなかった側面もある。

江戸時代以前には、血縁上の父親・母親以外に、人生の節目や要所の各段階で親代わりになってくれる人を『仮親(擬制的親子関係)』と呼んだ。本書では『取上親(出産時にへその緒を切る)・抱き親(出産直後に赤ちゃんを抱く)・行き合い親(家の外に出て最初に出会う親)・乳親(生後数日間の別の母親による授乳)・拾い親(形式的な捨て子を拾って預かる)・名づけ親・守親(幼児まで子守りをする)・烏帽子親(元服の儀式の立会い)』などさまざまな仮親が、子どもの成長・発達のプロセスを見守って支えていたことを指摘している。

本書の主要なテーマは、どうして女性だけが『良妻賢母・母性愛(慈母)のイメージ』を投影されて育児の負担を全面的に負うようになってきたのかの歴史的検証であるが、その疑問に対して出される可能性のひとつが『社会全体による子育ての復活・人々のコミュニティ帰属や共感性の回復』になっている。

現代の母親はなぜ生きづらいのかの原因は、『母親・妻・労働者』という多重役割の負担の増加であったり、『社会の共同幻想(神話)』としての良妻賢母・母性愛の規範性を重荷に感じることであったりする。すべての活動が市場化(商品化)していく社会状況の中で、仕事に追われる父母が協力して育児をするという段階を超え、『共同体主義的な子育ての復権(相互扶助的な社会による子育て)』ができる可能性はどれくらいあるのだろうか。

少子化が進行して子育ての負担やストレスに耐え切れなくなる個人(母親)も増える中で、『母親・父親としてのアイデンティティ』のあり方が見直しを迫られているという感覚はあるが、更に社会の維持存続にとって重要なのは『母親になりたいという女性・父親になりたいという男性の意識』をどのようにすれば高められるのかということだろう。

『私(私たち)の大切な子ども』という個人主義的な排他性を伴う育児観は、近代社会の基本構造・住環境・労働生活とも相関しているが、『子どもの社会的自立の促進・バランスの取れた価値観の形成』という点では、かつての仮親のように多くの大人と接しながら育つ育児環境のほうが良い部分もあるとは思う。その一方で、個人主義化した他者(共同体)と密接に関わらない現代社会の住みやすさや気楽さといった要因もあるので、(江戸時代の育児・社会のほうが良いとする)江戸幻想の是非はともかくとしても、『家庭の密室化・育児のプライベート化(個人化)』を適度に変容させることは容易な課題というわけではないだろう。










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■書籍紹介

母親はなぜ生きづらいか (講談社現代新書)
講談社
香山 リカ

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