認知症の延命医療を巡る日本とアメリカの文化差:“生命の尊厳”と“自意識・他者とのつながり”を思う

この記事は、前回の大井玄『「痴呆老人」は何を見ているか』の書評の続きになります。自分(私)が自分(私)でなくなっていき、人格の統合性が解体していく認知症というのは、本人にとって『現代社会の構成員である資格・価値』を失うかのようなショッキングな体験として受け取られやすいのですが、本書では『競争社会に適応した近代的自我』をそれほど絶対視する必要があるのかという根本的疑問から、認知症の内面心理や対応を掘り下げて考察しています。

『第二章 「痴呆」と文化差』では、どうして認知症が現代社会において『異質な病理(問題)』として病院や施設に囲い込まれやすいかについて、スーザン・ソンタグの『隠喩としての病』を引いて説明していますが、そこには『生かす・生かされるの非対称性』における厭わしさ・煩わしさが関係しているとされます。

しかし、著者は更に琉球大学医学部精神科の真喜屋浩教授の調査研究を上げ、沖縄県島尻郡佐敷村の認知症高齢者は『うつ・妄想・幻覚・夜間譫妄』といった周囲に迷惑を掛ける周辺症状が殆どなく、地域社会や家族関係の支持的な関わり合いがあれば『認知症の厭わしさ・煩わしさ』のかなりの部分は改善できるという見解を示します。

うつ・妄想幻覚・夜間譫妄など周囲を困らせる周辺症状のない知的能力(認知機能)の低下のみの認知症を『純粋痴呆(単純痴呆)』といいます。沖縄県の小村の事例を読むと、高齢者に対する敬老精神や温かな家族関係、手厚い介護があれば、認知症を発症しても共存可能な純粋痴呆に留まる可能性が高いことが分かります。

認知症は恐ろしい疾患であり周囲に大きな迷惑を掛けてしまうという一般的なイメージは、認知症の『中心症状(知能・記憶力の低下)』に基づくものというよりも『周辺症状(幻覚妄想・錯乱・徘徊)』に基づくものであり、相当に重度の認知症でなければ純粋痴呆の状態に留めやすくするケアや関わり合いの方法があるといいます。認知症の高齢者が『安心できる環境』を整えて上げて、『敬意を持った関わり合い』を続けることによって、環境不適応な周辺症状の発症率を低下させ、知的能力が低下したとしても精神的に安定した状態で生活しやすくなります。

認知症に対する不安感・恐怖感は、そのまま終末期ケア(ターミナルケア)における『(医療と他者によって)生かされている自分』という自己認識と相関しており、その不安感の中核にあるのは『自分が生きる』という自我の主体性・能動性が完全に失われてしまうのではないかということです。高齢者で身体機能・認知機能が相当に低下しても『他人の介護・世話(特に排泄介助)』を受けたくないということで、ギリギリまで自分で自分のことをし続けようとする方は多くいますが、それほどに『自分で生きる・自分の力で生きている』という自我の主体性は、現代人にとっての自尊心や自信と分かちがたく結びついています。

老年期において人は多かれ少なかれ、他人の世話や助けを受けなければ生活が難しくなってきますが、認知症を自覚する時には人は、『自分が生きるという主体性』『医療・他人によって生かされているという受動性』の絶え間ない葛藤に陥り、それまで自分自身の人生や能力、実績に誇り(自信)を持っていた人ほど『生かされる自分への抵抗感・拒絶感』は否応なしに高まってしまうのです。

本書では認知症になったら尊厳死を選びたいという意見が多いという話も出てきますが、第二章では日本とアメリカで『認知症を恐れる原因の文化差』が挙げられています。日本では『家族・他人に迷惑を掛けるから』が認知症を恐れる主な理由であり、アメリカでは『自立性を失うから』が主な理由となっていて、自立性・主体性・自己責任を重視するアメリカでは『余命の短い重症認知症患者に対する延命医療の価値』を相対的に低くならざるを得ません。

延命医療では『患者本人の意向』『家族の意向』とがぶつかりやすいのですが、認知症患者は主体的な判断能力や責任能力がなく意志決定ができないと見なされるので、結果として介護をしている家族の意向が尊重されることになり、日本では認知症が進んで嚥下機能が低下すると『経鼻チューブ・胃ろうによる栄養補給の延命治療』が選択されやすくなります。

若い頃や元気な時期に、『あなたは認知機能が大幅に低下して自分が誰かも分からず自力の排泄も会話もできない状態で、経鼻チューブや胃ろうによる栄養補給を受けて延命したいですか?』と聞けば、過半の人はそこまでして生かされたくないと答えるかもしれませんが、そういった『個人(本人)の意志決定』に比較的忠実な医療はアメリカ的な医療になってくるでしょう。アメリカでは個人の自立性や経済力、生体機能を重視しており、『生かされている生命の価値』は相当に低く評価されるようですが、そこには『生命の尊厳』を延命措置ではなく本人の生きる意志や自然な余命に置いていることが推察されます。

アメリカの老人介護施設(ナーシングホーム)における平均余命は、日本よりも大幅に短いものであり、スーザン・ミッチェルの研究ではニューヨーク州立のナーシングホームでは、入所時点で余命が半年以内と見られる重症認知症患者は1%しかいなかったのに、実際にホームに入所すると71%の患者が半年以内に死亡していました。日本の特養老人ホームなどでは考えられない死亡率の高さ(平均余命の短さ)ですが、アメリカでは嚥下困難な重症認知症患者に対して『苦痛を和らげる緩和ケア』は行っても、『余命を延ばす延命治療(非緩和的介入)』は行わないのが普通なのです。

アメリカの重症認知症患者に対する医療原則や医療倫理は、医療費コストを削減して本人の希望を尊重するという意味では合理的であり、また日本人であってもナーシングホーム的な最低限度の緩和ケアによって延命しない医療のほうが良いという人は少なからずいるとは思います。しかし、日本では多くのケースにおいて、『家族の生きて欲しいという希望(他者とのつながり)』『平均的な介護の質の高さ』によって、老人介護福祉施設に入所しても数年以上の平均余命があり、『生かされる生命の価値』が合理主義的な自立性重視のアメリカよりも高くなっています。

アメリカでは経済状況や家族の意向にも拠るでしょうが、『自立性・自我意識を喪失した個人』に対して非緩和的な延命治療が施されることは少なく、生物学的な限界以上にまで無理に寿命を引き延ばすことがかえって本人の意志や尊厳に背くといった倫理観があるように思えます。人間の生命や人生の価値が『“私(自我)”が生きる』ということに集約されており、自立的・主体的に生きていく基盤である『自我・最低限度の知性』が失われれば、必然的に生きる価値・意味も消失する(無理に生かされても仕方が無い)というパーソン論の人間観がそこにあります。

日本ではそこまで近代的自我に偏った『自立性・自我意識重視の人間観』は確立しておらず、家族とのつながり(家族の希望)や僅かな感情機能の残存によって『生かされる生命』にも一定以上の価値が認められることが多く、延命医療としての経管栄養まで拒否するような『自立性・自我の尊重』はないように思えます。『アメリカ的な倫理観・医療原則』と『日本的な倫理観・医療原則』のどちらが良いのかは一概には言えないでしょうが、“人間の尊厳・生命の価値”を自分が何に求めているのかによって、『生かされる生命の価値』の評価というのは自ずから変わってくるのかもしれません。

自我意識を持って自立的に生きていけなくなれば、この世界を寿命と共に去るのが自然といった倫理観は余りにドライなようにも感じますが、認知症を恐れる理由である『自立性の喪失』『家族・他者への迷惑』は、超高齢化社会を迎える日本においては、誰もが無関心ではいられない“いつか自分が直面する問題”なのではないかと思います。

しかし、忘れてはならないのは認知症が重症化したとしても、安心できる生活環境や自分を認めてくれる家族関係(人間関係)があれば、本人にとって比較的高いQOL(生活の質)が維持できるということでしょう。高齢化社会が本格化するに当たって、『利用可能な医療・介護・財政のリソース』の問題はありますが、『自立性・自我(知能)』のみに偏った競争主義的な生命倫理に従うというのでは、生命の尊厳や人間的な感情が軽視される恐れがあります。“(判断能力がある時期の)本人の意向・希望”と“(生きていて欲しいという)家族の意向・希望”の両方を尊重しながら、どういった介護や医療をすることが望ましいのかを考えていかなければならないと思います。










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