宮城谷昌光『三国志 第一巻』の書評:楊震・曹騰の目線を通した後漢王朝の斜陽と外戚・宦官の跋扈

宮城谷昌光の描く三国志の世界は『正史』に基づく重厚さと背景描写の緻密さがあるので、中国の古代史に一定の関心を持った人でないと読み続けることが困難になるかもしれない。第一巻では人口に膾炙する曹操も劉備も孫権もその名前すら殆ど出てこないのだが、三国時代に入る前の『後漢王朝の斜陽期の政治・人物』が入念に正確に描写されていて興味深い。

漢王朝(B.C.206年-A.D.8年)の帝位を簒奪した王莽(おうもう)のイデアリズム(東周への復古)の治世は、僅か15年で赤眉の乱(農民大反乱)の混乱により崩壊する。その争いの中で、前漢の第六代景帝の血統を継ぐとされる劉秀(光武帝,B.C.6年-57年)が漢を再興し、後漢王朝(25年-220年)の礎を確立した。

光武帝は儒教的な『徳治主義』を理想に掲げた皇帝であり、家臣の忠孝の徳を望んで、官僚の衒学的な知識を軽視したというが、それは『百官』として王宮の高位にある官僚機構が王朝の崩壊を抑止する役割を何ら果たせず、王莽の専横を許したことに由来するという。中国史は古代の周・秦から近世の清朝に至るまで『正統な権力・皇帝親政』『不正な権力・側近の専横』、そして『統一権力の分解・地方軍閥の割拠』の政治力学によって展開されてきた。

現代日本でも民主党の小沢一郎が『闇将軍(フィクサー)』と呼ばれたりするが、正統な権力の背後にいてその権力をコントロールする役割を担う『影の実力者』という構図は、俗に『御輿を担ぐ・傀儡政権を立てる』と言われたりもする。

王朝政治(皇帝・君主による専制主義体制)においては、摂政や関白、外戚(皇后の親族)や宦官といった者たちが、『正統な権力者(皇帝の血統)』をコントロールして実質的な権力者となって政治を専横することが珍しくない。むしろ、君主制では政治権力の『名』と『実』が一体化している治世のほうが少ないくらいで、中国の政治権力は『皇帝による親政』『外戚・宦官・将軍の専横』との間を行ったり来たりしているようなものであった。

古代史を眺める私たちが見誤りやすいのは、古代の帝政(皇帝専制体制)では『正統な権力』と『人民にとっての善政・安楽』は必ずしも一致しないということであり、形式的に皇帝親政を専横している外戚・宦官であっても善政を行った時期は少なからずあるということである。帝政ではどんなに無知蒙昧で意志薄弱な暗君(暴君)であっても、『皇帝の御意志・御意向』に逆らって、家臣の身分で皇帝の認可を得ずに政治の舵取りをすることは謀反・反乱(極刑に値する行為)であり、家臣が善政を進めようと思えば『(全権委任されるほどの)皇帝のお気に入り』にならなければ難しい。

悲しいかな、清廉潔白で忠節・篤実に励んで皇帝に善政を行わせようとする家臣が、必ずしも重用されるわけではなくその意見が聞き入れられるわけでもない、小うるさく忠言をして側近の排除を上訴する忠臣は時に皇帝にとって煩わしい存在とも成り得る。皇帝といえども人間であり『情緒的な結びつきが強い側近・取り巻きの専横』を毅然として正せるような人物は少なかったが、そういった側近や取り巻きの才覚・志操に恵まれた時には帝政は隆盛期を迎えやすくなる。

古代の忠臣には皇帝に自らの憂国の諫言・直言が入れられずに自害して諌めようとした者も数多くいるが、『皇帝のお気に入り』になる者の多くは、幼少期から皇帝の側近くに仕えている宦官(皇帝の個人的な友人に近くなる宦官もいる)、教育係や乳母を務めている外戚たちであり、その『私的な人間関係(情実主義)』の政治・人事への影響を取り除くことは容易な事ではなかった。第一巻の冒頭では、50歳にして王朝に出仕する欧陽尚書の学識を積んだ楊震(ようしん)について語られるが、楊震が九卿の高位で活躍するのは鄧太后と鄧シツの妹兄が垂廉政治(すいれんせいじ)で実権を握って、安帝(在位106~125)を押さえ込んでいた時代であった。

鄧太后による垂廉の聴政は安帝の親政を阻害する『外戚政治』であったが、非正統な権力が善政を実現した事例でもあり、鄧氏は幼少期からの関わりの中で安帝が『皇帝としての資質・器量』に欠けることを知悉していた。自分が生きている間は、誘惑に弱い意志薄弱な安帝に政治の実権を渡してはならないと考える鄧氏は『廃帝の陰謀』を巡らすのだが、後漢王朝の基盤を固めようとした鄧太后の寿命は儚く尽きてしまった。

鄧太后という巨星の女傑が冥府に落ちたことで、中国皇帝である安帝が遠慮をしなければならない人物がこの世から消えたことになり、安帝の側近や取り巻きが私欲を肥やす為に跳梁し始める。鄧太后は皇帝権力を私利によって簒奪した悪人として指弾・非難され、栄耀栄華を極めていた鄧氏は王朝から追放された。反乱を起こしていれば、安帝に対峙することも可能であった大将軍・鄧シツをはじめとする鄧氏一族は、『臣下の分』を越えることなくそのまま凋落の道を辿った。官職も名声も奪われて追放された大将軍の鄧シツは、鄧太后のように強固な意志や威厳を持ち合わせておらず落胆の中で自害して果てた。

王朝を安定させた鄧氏の外戚政治が終焉を迎えて、次の実質的な権力者となったのは6代安帝の妻である閻皇后(えんこうごう)、乳母だった王聖とその娘・伯栄、宦官の江京・李閏・ハン豊、閻顕・耿宝などであり、それらの皇帝側近の者たちはご機嫌取りや(忠臣・英才を陥れる)誹謗中傷の才覚には抜きん出ていたが、見識と徳性が低く私利私欲と感情的判断によって政治を行う者たちであった。鄧シツ・楊震・朱寵など後漢王朝を支える忠節な家臣は次々と左遷されて追放されてしまい、王朝の財力と権力を私物化する外戚・乳母・宦官によって安帝は完全にコントロールされてしまった。

九卿の最高位者であった老臣・楊震は、何度も繰り返し安帝に対し『王朝の威勢と秩序を傾ける奸臣を排除するように』との上訴を行うが、安帝は情実と義理の人であり『自分に良くしてくれる皇后・宦官・外戚一派』を排除するような決断を下すことはできず、逆に自分の寵愛する家臣を追放せんとする高潔な楊震の側を煙たがる始末であった。当代一の清廉な人格者・学識者として尊敬を集めた楊震だったが、ハン豊や耿宝らの誣告・中傷によって安帝から罷免され、皇帝の役にも民衆の役にも立てなかった自らを恥じ毒を仰いで自害した。

皇帝の周囲から賢臣や功臣が消え、後漢王朝の斜陽の気配はいよいよ濃厚になってきた。だが、地方行幸の途上で安帝が急死することになり、皇太子の保(済陰王)が安帝の側近により廃頽されると、済陰王の保に仕えていた『孫程・王康・王国』など剛胆な勇気ある側近たちが、王宮を私物化する閻顕や江京らを不意打ちのクーデターで暗殺する計画を立てて実行する。曹操の系譜上の祖父である宦官の曹騰(そうとう)が側近くに仕えたのが済陰王の保であり、この王宮クーデターによって済陰王・保は8代順帝(在位125年-144年)として即位することになった。

順帝と曹騰とは幼少期から同門で学んだ親友のような間柄でもあり、曹騰はいついかなる時も順帝に近侍して忠節を貫き中常侍(宦官を取り仕切る管理職)の地位にまで上ったが、順帝の外戚・梁氏から波及する後漢王朝の暗雲を晴らすことは不可能であった。

順帝は暗愚・惰弱な皇帝ではなかったのだが、皇帝の外戚と宦官に悪臣が紛れていればそれを完全に排除することは容易でなく、梁皇后の兄である梁冀(りょうき)によって皇統は大いに乱されることになる。順帝の次の9代冲帝(ちゅうてい,在位144-145年)は僅か2歳での即位で一年余りで崩御し、冲帝の後を継ぎ英邁な君主として期待された渤海王子の10代質帝(在位145-146年)は政権を私物化する大将軍・梁冀を排除しようとして逆に毒殺されることになる。

後漢王朝の命運は、皇帝権力を恣意的に専横して『自身・一族の権勢』を蓄えようとする外戚と宦官の増殖によって次第に暗転していく。後漢王朝の統一的な政治力が衰微することによって、地方の列侯や豪族勢力が独立する『三国志の時代』の黎明を迎えることになるがその本筋に入るのはまだだいぶ先の話になりそうである。










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三国志 第一巻
文藝春秋
宮城谷 昌光

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